エピローグ 相性0%から始めましょう
オラクルが止まってから、世界は少し不便になった。
結婚相手は自分で探さなければならない。
就職先も、住む町も、昼に何を食べるかも、神託は教えてくれない。
向いていない仕事を選んで失敗する者が増えた。
相性の悪い相手と結婚し、三か月で別れる者もいる。
新しく起きた争いもあった。
平和になった、とは簡単に言えない。
それでも、人々は話し合うようになった。
オラクルの判定を読み上げる代わりに、自分が何を望むか言葉にする。
言えない者を待つ。
一人で抱えた者へ、助けが必要か尋ねる。
世界は間違えながら進んでいた。
オラクル停止後、最初の冬に立ち寄った村では、水路をどちらの畑へ引くかで二週間も争っていた。
以前なら、神託塔が収穫量の多い方を選んだ。
村人たちは夜ごと集会を開き、怒鳴り、帰り、翌日にまた集まった。
最後は二本の細い水路を掘った。
効率は悪かった。
春の大雨で片方が壊れた。
神託を信じていた老人が「だから言った」と笑い、自由を求めた若者と一緒に泥をさらった。
正しい答えではなかったのかもしれない。
それでも、壊れた後に誰を責めるかではなく、どう直すかを自分たちで決めていた。
◇
三年後。
俺は北の小さな町へ着いた。
旅人として、各地の神託塔が停止しているか確かめて回っている。
誰かに頼まれた仕事ではない。
旅を始めた理由も、よく覚えていない。
ただ、知らない町へ入るたび、誰かを捜している気がした。
黒髪の獣人が作った共同診療所。
王国から独立した防衛隊を率いる金髪の団長。
竜族の記録を集め、人間と口論しながら歴史を残す赤髪の女。
薄青の服で各地を歩き、毎朝、自分で行き先を決める元聖女。
旅の途中で、そんな人々の噂を聞いた。
会ったことはない。
けれど話を聞くと、胸の奥が温かくなった。
今日の町へ来たのも、薬草店を探すためだった。
数日前から、壊れかけたスマートフォンの調子が悪い。
電源は入らず、時計にも地図にもならない。それでも捨てられなかった。黒い画面を見ると、忘れてはいけないものがある気がする。
修理できる人間はいない。
薬草店なら、魔導具を扱う職人を知っているかもしれない。
町の中央で道を尋ねた。
「エルデ薬草店なら、鐘楼の裏だよ」
道を教えた老婆が、俺のスマートフォンを見る。
「壊れた魔導具かい。あの子は薬屋で、職人じゃないよ」
「職人を知ってるかもしれない」
「それなら聞いてみな。必要ないと言われるかもしれないけどね」
「必要ない?」
老婆が笑う。
「うちの孫が熱を出したとき、高い薬を買いに行ったんだ。あの子は水を飲ませて寝かせろと言って、薬を売らなかった」
「商売下手だ」
「翌日には治ったよ。金を取らなかったから、代わりに看板を作ってやった」
「必要のない薬は売りません、って?」
「先に読んだのかい」
「いや」
まだ店へ着いていない。
なぜ看板の言葉を知っている。
頭の奥へ手を伸ばす。
何もない。
「旅人さん?」
「大丈夫。たぶん、勘が当たっただけ」
自分でも信じていない言い訳をして、老婆と別れた。
礼を言い、細い路地へ入る。
小さな看板が見えた。
『エルデ薬草店』
下へ小さな文字が足されている。
『必要のない薬は売りません』
「商売する気あるのか」
思わず口に出す。
扉へ手をかける。
胸の奥で、入るなという声がした。
危険だからではない。
中へ入れば、何か大切なものを失う気がする。
知らない相手に拒まれる。
説明できない期待を持ち、勝手に傷つく。
昔から、それが怖かった気がする。
手を離し、店の前を通り過ぎた。
十歩進む。
スマートフォンは重いままだ。
理由の分からない不安へ行き先を決めさせるなら、消えた神託と変わらない。
立ち止まる。
「修理の相談をするだけだ」
誰へともなく言い、十歩戻った。
入って断られたら、店を出ればいい。
話が合わなければ、二度と来なくてもいい。
期待して傷つくかもしれない。
それは、最初から何も始めない理由にはならない。
扉の前で一度だけ深呼吸する。
相手がどんな人かは、画面にも胸の痛みにも決めさせない。
話してから、自分で決める。
扉を開けた。
鈴が鳴る。
店内には乾燥薬草の香りが満ちていた。壁の棚へ瓶が並び、窓際で銀髪の女性が薬草を束ねている。
「いらっしゃいませ」
女性が顔を上げた。
薄紫の瞳。
初めて会う人だ。
そう分かる。
なのに、息が止まった。
「ご用件は」
「薬ではなくて」
「では、向かいの雑貨店です」
「まだ説明してない」
「ここは薬草店です」
短い言葉。
なぜか笑いそうになる。
「壊れた魔導具を見てもらいたい」
「修理はできません」
「知ってる人は」
「一人います。ですが、必要のない物なら捨てた方が安いです」
スマートフォンを出す。
黒い板を見た瞬間、女性の手から薬草が落ちた。
「これを、知ってる?」
「いいえ」
返事は早い。
彼女は画面から目を離さない。
「触っても」
「どうぞ」
スマートフォンを渡す。
銀髪の女性が両手で持つ。
壊れていた画面が、一度だけ明滅した。
彼女は驚き、落としかける。
俺が手を伸ばす。
二人で同時に端末をつかんだ。
指が触れる。
胸の奥に、理由の分からない痛みが走った。
女性も同じらしい。
目を見開き、俺を見つめる。
「大丈夫?」
「はい」
答えながら、彼女の目から涙が落ちた。
本人は気づいていない。
「泣いてる」
頬へ触れる。
指先の涙を見て、首を傾げた。
「なぜ」
「俺に聞かれても」
また胸が痛む。
悲しいわけではない。
帰る場所を見つけたような、懐かしい痛みだった。
「どこかで会ったこと、ありますか?」
尋ねる。
女性は俺の顔を長く見た。
首を横に振る。
「いいえ」
少しだけ微笑む。
「たぶん、これから会うんです」
スマートフォンが震えた。
三年ぶりに、画面が点灯する。
画面の上に、小さな文字が出る。
『近距離連絡候補/任意表示』
命令も、危険度もない。
通知の横には、閉じるための印がある。
『近くに相性0%の相手がいます』
女性の顔写真が表示された。
『リリア・エルデ』
『二十二歳』
『職業:薬草店主』
『相性率:0%』
「これ、君?」
「そう見えます」
店の机に置かれた小さな黒い端末も光った。
オラクル停止後、連絡用に配られた物だ。
そこには俺の写真が出ている。
『真壁レン』
『三十二歳』
『職業:旅人』
『相性率:0%』
「数字まで同じだ」
「相性が悪いようです」
「初対面でそこまで言われると傷つくな」
「では、帰りますか」
店の扉を見る。
外へ出れば、また旅を続けられる。
相性0%。
本来なら同じ未来へ進まない相手。
画面の数字は、何も保証してくれない。
「いや」
俺はプロフィールの下にあるボタンを見る。
『いいね』
「薬は必要ないけど、少し話してもいい?」
「雑貨店の場所なら説明しました」
「君の話」
リリアは黙る。
自分の端末を見る。
そこにも同じボタンがある。
「何を話しますか」
「決めてない」
「無計画ですね」
「よく言われた気がする」
彼女の指が『いいね』へ触れる。
俺も押す。
『マッチングしました』
『相性率:0%』
数字は変わらない。
その下へ、新しい文章が表示された。
『相性は未来を保証しません』
『未来は、二人で選んでください』




