第1章 誰ともマッチしない男
午前二時十三分。俺のスマートフォンが、人生でいちばん余計な気を利かせた。
『あなたと相性0%の相手が、救助を求めています』
薄暗い六畳間で、白い通知だけがやけに明るい。
「まず俺を救助してくれ」
口に出してから、そこまで切羽詰まってはいないなと思い直した。
家賃は来月分まで払ってある。冷蔵庫には卵が四つ。今すぐ死ぬ予定もない。ただ、十分前に届いた三社目の不採用通知が、まだ画面の裏側に残っているだけだ。
つまり平常運転だった。
通知を左へ払う。
相性0%。見ず知らずの人間にそこまできっぱり否定されると、いっそ清々しい。救助を求める相手としても人選を間違えている。今の俺が救えるのは、せいぜい排水口に落ちた小銭くらいだ。
スマートフォンを伏せ、開きっぱなしの求人サイトへ目を戻した。
職歴欄の空白がまぶしい。
正確には空白ではない。七年間勤めた会社名を入力してあるし、担当業務も資格も書いた。それでも、半年前から止まったままの現在欄は、ほかの文字を全部吸い込む穴に見える。
自己都合退職。
円満退社。
新しい環境で挑戦したい。
面接で使うたび、どの言葉も他人の服みたいに馴染まなかった。
俺は挑戦したかったわけじゃない。ある朝、駅の改札前で足が動かなくなった。それだけだ。上司の顔を思い出すと息が浅くなり、同僚からの連絡を三日放置した。四日目には誰からも来なくなった。
その同僚の顔を思い浮かべようとして、俺は眉を寄せた。
眼鏡をかけていた気がする。
いや、かけていたのは上司だったか。
七年も同じ部屋で働いた相手なのに、輪郭が曇りガラスの向こうへ逃げていく。
疲れているんだろう。
便利な言葉で片づけ、ノートパソコンを閉じた。
ぶう、と机の上でスマートフォンが震えた。
『既読を確認しました』
背中に冷たいものが走った。
「開いてないぞ」
機械に抗議しても仕方がない。だが、声を出さずにはいられなかった。
ロック画面には見覚えのないアイコンが増えている。
黒い正方形。その中央を、赤い糸のような線が二つに裂いている。下には白い英字で、DESTINY。
運命。
名づけたやつとは友達になれそうにない。
長押しして削除を選ぶ。アイコンが震え、小さな確認窓が出た。
『本当に接続を破棄しますか?』
破棄する、と押した。
『回答を受理できませんでした』
「聞いた意味ある?」
もう一度押す。
『再回答を確認しました』
今度は削除画面ごと消えた。アイコンは平然と元の位置に居座っている。
悪質なアプリだ。いつ入れたのかは分からない。寝ぼけて広告を押したか、求人サイトのどれかに仕込まれていたか。
設定から権限を調べようとして、指が止まった。
電話帳の件数が、ゼロになっていた。
頭の中が一瞬だけ白くなる。
母親。父親。高校の友人。前の会社。退職してから一度も開かなかった名前ばかりでも、消えていいものではない。
バックアップはどうだった。最後に家族へ電話したのはいつだ。
そこまで考えて、別の怖さがじわりと浮かんだ。
母親の電話番号が思い出せない。
それは普通だ。スマートフォンに登録していれば、番号を暗記する必要はない。
では、声は。
顔は。
「……母さん」
呼んでみても、記憶の中で誰も振り返らなかった。
脈が速くなる。俺は椅子を蹴るように立ち、充電ケーブルを抜いた。電源ボタンと音量ボタンを同時に押す。強制終了の表示が出るより先に、画面が黒くなった。
部屋が静かになる。
冷蔵庫の低い駆動音。壁の向こうを走る水音。遠くで一台だけ通り過ぎる車。
いつもの深夜だ。
端末の故障と、寝不足と、半年分の生活の乱れ。それが一度に来ただけだ。
連絡先を開く。登録件数はゼロだった。
明日の朝になったら店へ持っていく。クラウドから戻せる。たぶん。
黒い画面に自分の顔が映った。
二十九歳。黒髪。特徴のない顔。ひげを剃り忘れた頬。半年で少し痩せたはずなのに、誰にも気づかれていない。
我ながら、相性0%にも説得力のある男だった。
笑おうとした、そのとき。
電源を落とした画面の奥で、誰かが動いた。
俺ではない。
黒いガラスに白い指が触れた。内側から、こちらを探るように。
スマートフォンを取り落とした。
床にぶつかる直前、画面がひとりでに点灯する。
映っていたのは広告でも、加工されたプロフィール写真でもなかった。
石造りの狭い部屋だ。
壁は湿り、鉄格子の向こうで松明が揺れている。床には汚れた藁。天井近くの小窓から青白い光が差し込み、その下に一人の少女が座っていた。
銀色の髪が膝まで流れている。
年齢は二十歳より少し下だろう。粗末な灰色の服から出た手首に、黒い金属の輪がはめられていた。細い鎖が壁へ続いている。
作り物にしては、ひどく静かな映像だった。
少女は泣かない。助けを呼ばない。薄紫の目で、消えかけた松明を眺めている。その横顔には、怯えも怒りもなかった。
あまりに何もないせいで、俺は画面から目を離せなかった。
やがて少女が顔を上げた。
視線が、まっすぐ俺に合う。
録画のはずがない。
そう思った瞬間、彼女は口を開いた。
「遅かったですね、レン」
スピーカーから聞こえた声は小さい。知らない言葉なのに、意味だけが直接頭へ入ってきた。
「なんで、俺の名前を」
少女は答えなかった。ほんの少しだけ首を傾ける。
その動きに妙な既視感があった。
どこかで会った。そんなはずはないのに、次に彼女が何をするか知っている気がした。
右手を持ち上げる。
頬へ触れる。
指先で、目尻のすぐ下を二度なぞる。
実際に少女はその通りに動いた。
胸の奥が痛んだ。
理由のない痛みだった。悲しい記憶に触れたときのようでいて、その記憶だけがない。
画面の端に文字が浮かぶ。
『リリア・エルデ』
『十九歳』
『職業:魔女』
『相性率:0%』
その下で、赤い数字が時を刻んでいた。
『破滅まで 06:46:12』
六時間四十六分。
数字が一つ減る。
少女――リリアは鉄格子の向こうへ目をやった。硬い靴音が近づいてくる。彼女の顔から何も読み取れない。けれど、鎖を握った指だけが白くなっていた。
「聞こえるか」
俺は床から端末を拾い上げた。
「そこはどこだ。何をされた。警察は――いや、その格好は、撮影か? 誰か近くにいるのか」
質問が自分でも嫌になるほど散らばった。
リリアは一度まばたきをした。
「同じですね」
「何が」
「質問する順番」
靴音が止まる。
鉄格子の外から男の声がした。
「魔女。祈りは済んだか」
画面が大きく乱れた。
俺は反射的に端末の側面をつかむ。爪で親指の脇をひっかいていた。昔から、答えに困るとやる癖だ。
リリアの視線が俺の手元へ落ちる。
「それも、まだ直っていない」
「待て。君は俺を知ってるのか」
ノイズが走る。
「リリア」
呼んだ瞬間、画面が暗転した。
黒い背景にメッセージ欄だけが残る。入力した覚えのない会話履歴が、一行ずつ現れた。
『真壁レンさんとマッチングしました』
『相性率は0%です』
『運命クエストを受信しました』
『対象者の運命を変えてください』
文字の下に、長い利用規約へのリンクがある。
触れるつもりはなかった。指先が震え、偶然そこへ当たった。
豆粒のような文章が流れる。
能力接続。因果補正。記録改変。免責事項。
理解できない単語の列の中で、一つだけ目に刺さった。
『本サービスは人格復元の完全性を保証しません』
「人格、復元?」
問いに答える者はいない。
代わりに新着メッセージの音がした。
リリアからだった。
短い文が、ひどく丁寧に表示される。
『お願い。明日の朝、私は処刑されます』




