25話 「心臓への誓い」
サンドイッチを作ってスープを温め直し、フィラントのいる談話室へ向かう。意思疎通が上手くいかずにレストランへ一緒に行けなかったことはまだショックだが、彼に怪我が無かった喜びの方が勝っている。
けれどもやはり虚しい。『一緒に行かない』と誤解したのは、エトワールとレストランに行きたくなかったからに他ならない。前向きな気持ちがあれば、誘われていなくとも誘われたと勘違いする。実際は誘われたのだから、行きたい気持ちがあれば『誘われていない』と思い込むはずがない。
談話室に入ると、フィラントは一人掛けのソファに腰を下ろして、暖炉の火をジッと見つめていた。
フォンに用意してもらったはずのオイルランプはなぜか消えていて暗い。
裾を踏まないように慎重に動いて、フィラントに声をかけた。テーブルにトレイを置く。
「お待たせしました」
「待っていません」
言葉の矢が額に刺さる。夕食の用意は余計なお世話だったと悲しみ、いや、今のは気遣いの台詞だと解釈する。表情は険しいから、違う気がするけれど。
(食べたい、お腹が減っているという顔だと思ったけど、本当は嫌だったのかしら)
一刻も早く帰宅して眠りたかったのかもしれない。エトワールと話すよりもふかふかの布団が良いと。
お洒落してウキウキ待っていた分、自分と食事をしたくなかった、話すよりも帰りたいという事実はかなりしんどい。
トレイを軽く指で押したけど、フィラントは見つめるばかりで動かない。
「あの……」
暗い厨房で、急に用意できるものは限られている。そのくらい、フィラントも分かっているはず。しかもスープとサンドイッチだと先に伝えてあった。
だから、言葉の続き——「お気に召しませんか?」は飲み込んだ。
(帰りたかったなら最初からそう言ってくれたら良いのに。『干し魚にします』と言ったのに……)
気まずく、重たい空気の中、美味しそうなスープや焼いたパンの匂いだけが気持ちを軽くしてくれる。
「すごい。あんなに暗いのに、こんなに立派なものができるなんて」
それは、あまりにも想定外の褒め言葉だった。
「そうですか?」
不安から一転、歓喜に包まれたので声が掠れた。
「エトワール様。ありがたくいただきます」
「ええ、どうぞ」
フィラントは壊れ物に触れるようにそうっとスプーンを手にして、美しい動きで口へ運んだ。目を見開いて、瞬きを繰り返している。
帰りたい気持ちは無かった、この夕食を楽しみにしてくれたと伝わってきて喜びで指先が震える。エトワールは重ねている自分の手を少し弄った。
「貴族のお嬢様は料理をしないと思っていました?」
隣に座りたかったけど、フィラントは長椅子の真ん中に腰掛けている。エトワールは一人掛けの椅子に着席した。
「いえ。エトワール様はウェイルズに舞い降りた天使だから、あの奇跡のスープを作られたお一人なので、料理できないなんて思いません」
昨夜に続き、本心っぽい褒め言葉を贈られて、エトワールの胸は高鳴った。ファンファーレが耳の奥に響いたような錯覚がする。
昨夜も感じたが、人としては好かれている。それなのに食事に行きたくない、話すよりも帰りたいとは何なのだろう。いや、違う。帰りたいはエトワールの邪推だった。
「あの、その、私たちが作ったスープは奇跡のスープでした?」
「ええ。味がしました」
エトワールの心臓は静かになっていった。今の発言をどう捉えるべきか分からない。自分たち看護婦団が到着した時、ウェイルズのあの病院は酷い有様だった。
鍋の中に残っていたスープも、既に配られていたものも腐った臭いがしたし、入っていた具材は野菜の皮だけ。パンは固くなりカビていた。
今の「味がする」は「人間の食事の味がする」という意味な気がする。数ヶ月経過しても、帰還兵の多くが心に暗闇を飼っていると、母に聞いたことがある。
「ウェイルズでは……私たちが来る前まで、食事の味では無かったのですね」
料理の腕には自信があったが、美味しいではなく『味がした』だなんて。
「らしいですね。俺が入院したのは皆さんが来てからなので、ゴミスープのことは話でしか知りません」
あの腐ったスープと比較して味がするではないなら、先程の発言はどういう意味なのだろう。
「エトワール様は魔法の手をお持ちなんですね。砂利とか変な味がしないのはいつ以来だろう」
フィラントの手の動きは徐々に早くなっていった。それに伴い、険しい顔が軟化していった。
あっ、笑った。
幼い子供みたいな無邪気な笑顔に目を奪われる。しかし、見惚れている場合ではない。
「ウェイルズでは平気で、今はたまに味覚がおかしいのですか?」
「いえ。ウェイルズにいる時だけ大丈夫でした。あとはずっと。凄い。パンも味がします。このサンドイッチはあまりにも美味しいです」
確かめるようにサンドイッチを齧ったフィラントは、今度は大きく口を開いてかぶりついた。美味しいと言ってもらえることも笑顔も嬉しいけれど、戸惑いの方が強い。
「ずっと? いつからですか?」
ウェイルズの臨時病院にいた時だけ味覚が正常だった。それならエトワールと出会ってから今日までずっと、フィラントは食事が苦痛だった。食べ物から食べ物の味がしないなんて、あまりにも辛いことだ。
「忘れました。スヴェトで頭を怪我して、昔のことをあれこれ忘れてしまったので」
両親や家庭教師から習った、過酷な雪山スヴェトでの戦役にフィラントも参加していたなんて。記憶を失うほどの怪我をしただなんて胸が痛む。
「あの、すみません。余計な話をしました。大した怪我ではないので気にしないで下さい」
謝らないでと言う気力が湧かない。フィラントの笑顔はすっかり消えてしまっている。
「どうして教えてくれなかったのですか? サシャたちとの食事も苦痛でしたよね?」
今夜、『フィラントはエトワールとレストランに行きたくないという心理がある』と考えた。エトワールどうこうではなくて、『食事をしたくない気持ちがあるから』だったとは。
「慣れていますし、食べないと生きていけません。食べやすいものもあるから苦痛ではないです」
エトワールは膝の上で合わせている手を握りしめた。味覚異常だなんて聞いたことがない。
医者にかかったのかと問いかけようとしてやめた。そのくらいしているはずだ。自分の中にある知識を探り、母の悩みの一つ、兵士症候群という単語が思い浮かぶ。
過酷な戦場で心が疲弊した兵たちは、時に不眠やパニックなど、様々な生活困難症状を有してしまう。味覚だっておかしくなるかもしれない。
「いつから……フィラントさんは兵になったのですか? その記憶もないですか?」
「ぼんやり覚えています」
待ってみたけど、フィラントは続きを口にしなかった。
「兵になったのはいつかぼんやり覚えていて、食事の味がおかしくなった時期は分からないのですね?」
「あー……聞かれて振り返ると、味が変なのはスヴェトの後からです」
言うと、フィラントはトレイを持って立ち上がった。
「こちらはありがたくいただきます。誤解で待ちぼうけさせたお詫びをしなくてはいけないのに、不愉快な話をしてすみません」
フィラントが一礼したので、エトワールは慌てて立ち上がった。
「待って下さい。食事が苦痛だったのに食事に誘って申し訳なく思っているだけで、不愉快だなんて思っていません」
フィラントはなぜかうつむいて目を見開いた。その後にエトワールを見つめて、大きな声を出した。
「誘った⁈ エトワール様が俺を食事に誘ったっていつですか⁈」
そこからすれ違っていたなんて。エトワールも叫びそうになった。
「いつって、今日です」
「ああ。そうでしたね。そうだった。エトワール様、気遣いや接待は不必要です。何もする必要はありません」
フィラントは、エトワールがやることなすこと偽装結婚に向けての工作、協力だと考えるようだ。それもエトワールが無理していると。
(接待? 私はフィラントさんを接待できるの?)
エトワールに何かしてもらうと嬉しいという気持ちがフィラントの心の中に無ければ、今の言葉は出てこない。
「逆にエトワール様はもっと何か要求するべきです。フォンに、エトワール様へのお礼が少ないと言われました。何を手配したら良いですか?」
「まさか。今朝、給与が過剰だと伝えたばかりです」
「過剰ではないです。だからフォンが、エトワール様をもてなすべきだと言いました」
エトワールの知らないところでフィラントとフォンはどのようなやり取りをしているのだろう。
「フィラントさんが、私をもてなしてくださるのですか?」
食事と共に立ち去ろうとしたから、そうは見えない。
「まさか。俺にそんなことはできません。つい、お言葉に甘えてしまいましたが、可及的速やかにここから去ります」
エトワールは頭の中で、両手で顔を覆って項垂れた。
(フィラントさんはおかしい。私は分かりやすいのに、なぜフィラントさんは私は彼と接したくないと思い込んでいるの?)
好意を向けられても応えたくない。恩があるから、人としては好ましいけど女性としては興味が無い。それがフィラントの気持ちだと思っていたのに、まだこの誤解が続いていたなんて。
「去らなくていいです。こちらに座ってゆっくり召し上がってください」
「気遣いは無用です」
「フィラントさんと話をしたいから座って下さい!」
つい、叫んでしまった。フィラントは何も言わずに長椅子にまた腰を下ろした。エトワールも再び椅子に座った。食事に再び手をつける様子がないので、どうぞと促す。
「えっと、それなら話をしましょう。打ち合わせが必要なことは無いはずですけど、何かありますか?」
フィラントの中に、エトワールと歓談したいという気持ちは無いのだろうか。
「フィラントさんは、私とは仕事というか契約話しかしたくないのですか?」
「もちろん。必要最低限で構いません」
言葉が刃になって胸に突き刺さる。この返事はあんまりだ。そう傷ついたものの、フィラントはエトワールに過剰に遠慮している事実があるから今の発言の真意は違うのではないかと思い至る。
しかし、冷静にはなれなかった。今の発言に胸がじくじくして考えるよりも言葉が先に飛び出た。
「……なぜですか? 先程はウェイルズで天使のようだったと褒めてくださったのに、なぜそんなに私を拒否するのですか? 私はフィラントさんと仕事ではない話をしたいです」
つい、こんなことを言ってしまった。顔から火が出そう。唇に力が入り、太腿の上で重ねている手にも。
「まだご両親と会えなくて信じられないでしょうが、俺の機嫌を取ろうとしなくて大丈夫です」
瞬間、エトワールは絶叫というくらい大きな声を発した。
「私はフィラントさんの機嫌を取ろうとなんてしていません!」
フィラントが驚愕の表情を浮かべたので、エトワールはますます理性を失った。
「両親の安全は手紙でいつも確認できていますし、私自身もとてもお世話になっています。だから親しくなりたいのに……なんで!」
フィラントは視線を彷徨わせた。迷惑だ、困ったというように。こんなのもう泣きたい。
かつて、叔父や叔母に「泣くな」と叩かれたから泣かないことは得意なのに、フィラントのことだと耐え難い。でも、耐えてみせる。突然泣いたら困らせるだけだから。
「あー……そうだ。左手の薬指は一番心臓に近いらしくて、お互いの薬指を絡ませたら、心臓に誓うという事になります」
「えっ? あの」
フィラントはなぜかエトワールに向かってそっと手を伸ばした。
「最初からこうすれば良かったです。人目に触れると不都合なこともあるので契約書は用意できません。だからせめて本人に分かるように誓いを立てるべきでした」
突然何の話だ。混乱しているが、フィラントと薬指を繋げるという誘惑が勝った。左手の薬指を彼に向かって差し出す。
そっと、フィラントの薬指が触れてゆっくりと絡んだ。小指ではなくて薬指を結んで約束するのは初めて。
「風と大鷲の神、そして貴女様に誓います。御恩奉公を尽くし、全てを賭してお命をお守り致します」
こんな素敵なことをしてくれるなら愛を誓われたい。エトワールは薬指に力を込めた。目から溢れそうだった涙は引っ込み、ときめきが止まらない。
「それでは私も誓います。貴方様のその真心に相応しい真心を返すように努めます」
「……えっ?」
フィラントはゆっくりと薬指を離した。残った熱の残滓だけで甘ったるい。
「何に驚かれたのですか?」
「何って、俺に礼をする必要なんてないのにすると言って、心臓に誓うだなんて」
「協力関係なのに、一方的だなんておかしいですもの。これまで何度も助けていただいているので、まずは……」
食べかけのサンドイッチが目に入ったので、「そうだ」と両手を合わせた。
「明日から食事は全てこちらで用意するので、朝と夜は食べに来て下さい」
怪我で辛かった時に、エトワールたち看護婦の料理で英気が養われた記憶があるから、フィラントは今夜のスープやサンドイッチを美味しく感じたのだろう。
母が、兵士症候群は苦痛や苦悶が心にこびりついているせいだと言っていた。
「……あの、えっ?」
「昼は届けますのでそれを。まずはスープとサンドイッチから始めて、何が美味しく食べられるか探しましょう」
「いや、あの、ちょっと待ってください! 俺がエトワール様に何かするべきなのに、なんですかそれは」
「私に何かするべきなら、私の料理修行にお付き合い下さい。看護婦として、味覚異常を良くする訓練をしたいので」
こう言ったら、前向きに検討してくれる気がした。フィラントの頭の中は、協力者のエトワールに礼を尽くすことでいっぱいのようだから。
「えっ? ああ、はい。かしこまりました」
これが誤解を解くための入り口な気がする。エトワールは続けた。
「他にも私のために何かしてくださいますか? 私が頼んだことをしてくれるのですよね?」
「もちろんです」
「それも誓っていただけますか?」
「ええ。少しでも信じていただけるように」
協力関係における信頼はある。それも強く。全く疑っていないし、伝えてきたはずなのになぜ誤解し続けているのだろう。
簡単に誤解は解けない。それが分かったことで一歩前進。エトワールはフィラントとここから始めるべきだ。
フィラントが薬指を差し出してくれたので、ドキドキしながらもう一度指を絡めた。
「エトワール様に尽くし、何もかも合わせます」
「では私も、協力の対価としてフィラントさんに尽くして色々と合わせます」
エトワールが告げるやいなや、フィラントの指が勢い良く離れた。
「なんてことを誓っているんですか! 今のは無効で!」
「あら、もう誓ってしまいました。私に合わせるという誓いを破ると、貫いてしまいますよ」
かつての仕事で、過剰に気遣われている。敬愛されている。それを理解したから勇気を出せると、エトワールはフィラントの胸をえいっとつついた。
嫌悪はなくて、人としての好意を抱いてもらえているなら大丈夫。月日がきっと、二人の距離を縮めてくれる。
恥ずかしくなり、エトワールは「少し失礼します」と言い残して談話室から出た。出入り口近くの壁にもたれて、へなへなと座り込む。
ここまでしても、思考が変なフィラントは気づかないだろうか。それとも少しはエトワールの好意を感じただろうか。
変な人を好きになった、それでいてますます。エトワールは両手を頬に当ててクスクス笑った。




