24話「騎士、衝撃を受けたり悩む」
フィラントは通常業務後に、任官後の仕事に関係する書類仕事を進めている。
エトワールに社交に付き合ってもらい、踊り、話をした昨日の夜は幻だったというような時間だ。
地べたで寝たり、空腹で夜明けを待って戦いに出た日々もまた、存在しなかった気がする生活でもある。
刻を告げる鐘の音が聞こえてきて、フィラントは口角をやんわりと上げた。
今頃、エトワールはこの街のどこかの名店で美味しいものに舌鼓を打っている。
レストランに行きたいと頼まれたので、フォンによく吟味して、いいところを予約するように頼んだ。エトワールは今頃、きっと「美味しい」と笑っている。
ノック音がしたので返事をして入室を促す。訪ねてきたのは事務官だった。
「サー・フィラント。シュテルン邸の使用人のドナと名乗る者がお見えです。心当たりはありますか?」
なぜドナが訪ねてきたのだろうか。わずかにする嫌な予感で呼吸が乱れた。
「ええ。事務手続き的に招いて良いならここへ。許可されないなら私が表に出る」
「お通しします」
ドナはユース王子が雇った若者で、料理人見習い兼雑用係だ。本人はシュテルン男爵に雇用されていると信じている。なので、彼はユース王子の指示を持ってきたりはしない。
ドナは部屋に来ると「良かったです」と笑った。心の底から安堵したというように、胸に手を当てている。
「良かった? なにがだ?」
「サー・フィラントは怪我をしたかもしれないと心配していたので。お嬢様との約束を守れなかったのは、残業だったんですね」
「……お嬢様との約束? なんのことだ?」
この問いかけで、ドナの眉間にしわができた。
「えっ? 忘れていたんですか? 自分で誘っておいて仕事で忘れるって……あっ、つい。俺なんかが騎士様に意見しようとしてすみません」
頭を下げたドナを見て、ユース王子やエトワールの「謝罪禁止」と言ってくれた気持ちが理解できた。『俺なんか』という言葉の響きの悪さも身に染みる。
「いや、君はエトワールお嬢様の従者だから、私が彼女に非礼をしたのなら苦言を呈しても問題無い。私と君の身分は大して違わないし、主人への忠誠心の表れなんだから」
「そんな風に言ってくれて有り難いです」
肩に手を置いて促したのでドナは頭を上げたが、ビクビク怯えて見える。部下ではないのに、つい触ってしまったせいだ。
謝ろうとしてやめた。ついさっき、己を省みたところだから。
「私はエトワールお嬢様と約束をした覚えはないので、なんのことか教えて欲しい」
ドナは信じられないものを見たというように、カッと目を開いた。深い青の瞳孔が縮んでいく。
「そんなに忙しいんですか⁈」
忙しいには忙しいが、ここまで驚かれることではない。ドナは何に驚愕したのだろうか。
「うちのお屋敷に来て、フォン様にレストランの予約を頼みましたよね? だから俺、店に予約へ行ったんですよ」
「それはエトワール様が良い店で食事を出来るようにフォンさんに頼んだ件だろう。私はエトワールお嬢様との約束について教えて欲しいのだが」
ドナはなぜか首を捻った。
「ですから、そのことです」
「そのこと?」
「来店に間に合う出発時間が過ぎて、予約時間まで過ぎたのでお嬢様はサー・フィラントをとても心配しています。だからこうして、俺が様子を見に来ました」
「ん? 待て。もしかして私も行くことになっていたのか?」
「行かないと思っていたんですか⁈ 自分で誘って⁈ あまりにも働き過ぎてるんしゃないですか⁈」
彼の大声で埃が舞った気がする。ドナは奥歯が見えるくらい口を開いた。
「なんでそんな誤解が発生しているんだ。フォンさんが間違えるはずなんてないのに」
体から血の気が引いていく。誤解があったようで、エトワールを待ちぼうけさせた。主が外食となれば料理人は食事を用意しない。
エトワールは今頃、空腹だ。おまけにドナによれば心配をかけてしまっている。
「そうですよ。フォン様は間違えたりしません。俺だって聞いていましたよ。サー・フィラントがフォン様に今夜のデートの段取りを頼んでいるところを」
「お嬢様に美味しいものをと思って頼んだんだが、私の言い方が悪かったようだ。すぐに行って謝罪する」
フォンなら間違えたりしなそうなのになぜ。掛けてあるコートを掴んで袖を通し、ドナに「一緒に馬に」と告げて部屋を出た。
二人乗りで夜の街を進み、目障りだったので喧嘩をどやし、スリを掴んで地面に投げ捨てて巡回を呼び、シュテルン邸へ向かい続ける。この街ではいつも、すんなり目的地に辿り着けない。今夜は特に急いでいるというのに。
「サー・フィラントって凄いんですね」
ずっと無言だった、前に座るドナが急に話しかけてきた。
「何がだ?」
「何ってさっきの逮捕ですよ」
「警務騎士の通常業務だ」
ドナはまた無言。シュテルン邸に到着したのでドナを降ろして玄関へ向かう。
慌てていたので、門前で護衛をする部下たちに労いの言葉をかけることを忘れた。振り返ろうとしてやめた。エトワールが最優先だ。
ノッカーで音を鳴らして声を出す。わりとすぐ、フォンが扉を開いた。
「おお、サー・フィラント。怪我は無さそうですね」
「フォンさん、ちょっと」
何も知らないドナの前でフォンを問い詰めることはできない。フォンと共に応接室へ行こうとした。
「エトワール様がとても心配しているから、私と話よりもまず顔を見せて下さい」
フォンに手を掴まれそうになったので、癖で払おうとして慌てて止めた。止まれたことにホッとした。
手首を掴まれて「こっちです」と連れて行かれる。
警護で必要になるから、屋敷の地図は頭に入れてある。食堂へ行くようだとついていく。
懐かしい匂いがして「美味しそう」だと呟きそうになった。食欲がわくとか、美味しそうだなんて感覚は、ウェイルズの野戦病院以来だ。
食堂は暗く、誰もいない。フォンはそのままフィラントを調理場へ連れて行った。
「エトワール様。サー・フィラントに怪我は無かった……。あれっ。お嬢様?」
食堂とは違い、灯りがついているのに誰もいない。人がいたような温かさもあるというのに。
フォンがフィラントから手を離して、もう一度「お嬢様」と声を掛けたが返事はない。フォンの声が空虚に消えていく。
「エトワール様はこちらにいたんですか?」
「その口調はやめなさい。いたのか? だろう? いつか人前でボロが出る」
「つい。すみません」
「謝らずに命令を遂行しろ。私はずっとホールにいて、エトワール様を見かけていない。エトワール様は食堂かここにいるはずなのになぜいないんだ?」
瞬間、フィラントは調理場の捜査を始めた。
なぜか部屋の片隅に、空の皿とスプーンが置いてあった。
「なんでこんなところに食器があるんだ?」
「分からない。エトワール様しかいないはずなのに、誰かいたのか?」
鍋の中にはスープが残っていた。煮込み用の調理台にはまだ火が燻っていて、消し損ねというよりは保温のために残しているという様子だ。
確かに人がいた気配はあるのに、それも短時間前まではいたようなのに、どこを探してもエトワールはいない。
「賊が侵入して連れ去ったんだ。あいつの一派かもしれない。クソッ! どこから入った!」
王都にフィオールがいる間は、政敵はそちらを向いてエトワールのことはそんなに。日々の警備や情報収集でもまだ危険は近づいていないと判断していたがこのザマ。屋敷の警護は完璧だと自負していたのに。
フィラントはつい、壁を裏拳で殴った。パラパラと小石と砂が床に落ちる。
門前護衛を伝令にして捜索部隊を大至急用意して、自分自身も捜査に加わろう。
吐き気に襲われながら動こうとしたら、冷たい風が吹き抜けた。勝手口が開き、人の気配がしたので抜剣しようとした。
「ふふっ。そうなのですね」
鞘から剣を半分抜いた時に、エトワールの笑い声がして、プラチナブロンドの巻き髪が眼前で揺れた。見知らぬ老婆が隣にいる。
「エトワール様……ご無事で……」
傷一つないし、可憐に笑っている。力が抜けた手から剣の柄が滑り落ちた。納刀音が静かな厨房に響いた。
「まぁ、フィラントさん!」
満面の笑顔で名前を呼ばれて目が合った。血が逆流するように体が熱くなり、安堵もあって腰を抜かしそうになった。
「良かった。お怪我は無いのですね!」
エトワールが駆け寄って来る。『急襲して来る者は敵だ』と体が反応するよりも早く、凍結したように固まる。
眩しい笑顔が目の前にあり「良かったです」という柔らかな声が耳をくすぐる。ますます全身が硬直した。
「旦那様は色男になりましたね。おお、こんなに凛々しくなって」
エトワールの隣にいる老婆がフィラントに笑いかけながらしわがれ声を出した。誰だこの老婆は。
フィラントは慌てて警戒体制に戻った。エトワールに見惚れたり、距離の近さに動揺している場合では無い。
「ナタリアさん、それでは次の場所へ行きましょう。何か思い出すかもしれませんもの」
エトワールは老婆に近寄って、優しい手つきと笑顔で彼女の腰を抱いた。
「奥様、そんなまるで人をボケ女みたいに。私はちゃんと覚えていますよ」
「フィラントさん。この方は迷子なんです。庭に地下通路があって、そこから来たみたいで」
「……はぁああああ⁈ ち、地下通路⁈ そんなものは見取り図には無かったのに。なぁ! フォン!」
それではこの屋敷の警護はザルではないか。フィラントは慄いた。フォンも目を大きく見開いて頬を引きつらせている。
「ナタリアさんは以前ここで働いていたみたいなんです。行きましょう。名前以外も思い出しましょうね」
エトワールがナタリアと調理場を出て行こうとしたので慌てて止めた。そして、ナタリアという老婆の腕を掴んでエトワールから遠ざけた。
「エトワール様。見知らぬ徘徊者は警戒するべき相手です」
「そう言われましても、最初は怖かったけど、もう慣れてしまいました」
この発言に、フィラントは髪を掻きむしった。最初は怖かっただなんて、警備不備のせい——自分のせいだ。
「ナタリアさんは頭を使い過ぎた御老人で、大丈夫ですよ」
「奥様はまた旦那様と喧嘩ですか? 夫婦円満の秘訣はですね」
「あら、また始まってしまいます」
ナタリア婆さんは、エトワールに向かってぶつぶつ語りを始めた。エトワールは嫌な顔一つしないで、ナタリアの両手を握って傾聴して、彼女の夫や子供の名前を尋ねた。
「やだわ、奥様。私の息子はほら、オットーよ。よちよち歩きから腕白になって、奥様がお祝いしてくれたじゃないですか」
「そうでしたね。オットー? フォン、オットーにお母様はいらっしゃる?」
「分かりませんが、同じ名前なので連れて来ます」
馬で行った方が早そうなので、フォンが使用人に頼む前に自分が行くと手を挙げた。
屋敷を出ると、玄関から少し離れたところで料理長オットーと遭遇した。汗だくで息を荒げている。
「料理長さんだよな? どうした?」
「ああ、サー・フィラント。こんばんは。お嬢様を送ってくださったんですね」
「いや、あの、それよりどうした?」
「それがボケている母が行方不明でして。たまにあって今夜もで。探すから、明日は休ませて欲しいと執事に頼みに来ました」
「その母親の名前がナタリアなら、厨房にいて、エトワール様を奥様と呼んでいる」
「えっ⁈ ああっ! ここでまた働くようになって、一回だけ現れたことがあるから確かに! 母さん!」
状況が噛み合っているので、政敵の暗躍ではなさそう。オットーが走り出したのでついていく。
太っているのでドテドテと聞こえそうな走り姿を眺めながら後ろに続き、息子と母親の再会を見守った。
エトワールはとても温かい目と慈しみに溢れた微笑みで親子を見つめていて、さらに破顔した。
「無事にご家族が見つかって良かったです。フィラントさん、早かったですね」
「捜索のために休みが欲しいと来た彼と、屋敷の前で会いました」
「そうでしたの。天のお導きですね」
エトワールは手を合わせてニコッと笑った。
「フォン、私はオットーの気遣いを好んでいるので、お母様と暮らしながらここで働けるように配慮して差し上げて」
「仰せのままに」
「オットー、明日にでも面談しましょうね。寒いからこちらをお母様に」
エトワールはナタリアに自分のショールを掛けた。ずっと慈愛の天使だからキラキラと輝いている。ずっと眺めていたいが、地下通路を確認しなければ。
「お休みなさい、オットー、ナタリアさん」
柔らかなエトワールの声に、オットー親子が笑顔とお礼を返して去っていく。
「フィラントさんはお仕事でお疲れなのに、さらにですね」
勝手口から出ようとしたら、エトワールが駆け寄ってきて見上げられた。何かにブスブス刺さる、愛らしい目遣いから目を背ける。
「いえ。仕事はしていましたが、疲れていません」
「仕事だったのなら、お食事はまだですか?」
「あの。その。一緒にだなんて思っていなくて。誤解でエトワール様を待たせてしまい、夕食が遅くなり……」
驚いたことに、唇に触れそうな距離でエトワールの指が交差した。
「すみませんは禁止ですよ」
「……あっ、はい。あの、でも」
「怪我ではなく誤解で良かったです。あの……いえ。会いにきて心配してくれて嬉しいです。ありがとうございます」
ほんの少し眉尻の下がった笑みに戸惑う。この表情と今の感謝の言葉はどういう意味だ。
「感謝されることなんて何もしてなくて、むしろ迷惑をかけたのにあの、ありがとうだなんてなぜですか?」
「さあ? なぜでしょうね。フィラントさん、夕食がまだなら、良かったら寛いでいって下さい。すぐ作りますので」
フィラントは自分の耳を疑った。
「作る?」
「ええ。スープはもうありますので、あとはサンドイッチを作ります」
「サンドイッチを作る?」
エトワールが? 俺のために? いつから夢を見ているのだろうか。寝た記憶はない。
「まあ、フィラントさん。サンドイッチは作るものですよ。木に生えていると思っていました?」
愉快そうに笑うエトワールに戸惑う。人差し指で親指の腹に爪を立てたが痛い。自覚通り、夢ではなさそうだ。
「そんなわけありません」
「フィラントさんって、冗談を言うんですね。具材は何がいいですか? 昼間と違って明るさが足りないので、切って挟む感じになりますけれど」
干し魚、干した貝、干し肉、野菜を並べられて、慌てて断ろうとしたが、気づいてしまった。断らなければ白天使が作ったサンドイッチを食べられる。食べたい。このような幸運はきっと二度とない。
「それなら……この干し魚でお願いします」
「なるべく早く作るので、休んでいて下さい。フォン、案内して」
「いえその前に地下通路を確認します」
「フォン。フィラントさんはお疲れですから、門番にお願いして」
「かしこまりました。サー・フィラントはこちらへ」
自分の仕事だと主張する前にフォンに応接室へ連れて行かれた。で、説教された。約束を破るほど仕事を詰め込むな、働き過ぎではないかと。
「いえ、そもそも俺も行くなんて思っていなくて」
「なんでまたそんな勘違いを。まあいい。エトワール様は無事で、屋敷の見取り図に無い地下通路が今のうちに見つかったのは幸運だ」
「ええ。帰る前に屋敷中をもう一度、慎重にしかと調べます」
「敬語を使うな。約束の内容を勘違いするなんて仕事のし過ぎだから、私と君の部下でする。しっかり休みなさい。で、散々待たせたのに料理をしてくれるエトワール様を接待するように」
フォンに置いていかれた。応接室に一人になったので、頭を抱えて小さく唸る。
(俺の接待をさせるなんて、エトワール様を疲れさせるのに『俺がエトワール様の接待』ってなんだ)
なんだと言っている場合ではない。接待される前に接待しないとエトワールの心労が溜まる。認識違いで待たせたお詫びをすることが接待だから……こんな時間には何も買えないし、どこの店にも連れて行けない。
うんうんと悩んだけど、何をどうしたら良いのか皆目、見当がつかない。
そこへ、食欲を刺激するスープの匂いが届いた。




