婚約者の尻拭いをしていたら、婚約破棄されました
午後のハミルトン伯爵家の応接間には、庭園から甘い花の香りが流れ込んでいた。
磨かれた銀の茶器に、焼きたての菓子。
窓辺には父と義母が並んで座り、向かいには婚約者と義妹が並んでいる。
そんな、どこにでもある穏やかな午後──のはずだった。
「エリシア。君との婚約を破棄する」
婚約者のカイルが、突如そんなことを言い放った。
その手は、私の義妹の肩に回されている。
私の席に座ったコレットは、困ったように眉を下げているが、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
その身体は、肩を抱くカイルのほうへぴったりと寄せられていた。
「……理由を伺っても?」
「君にも分かっているはずだ。君は魔法の名門・ハミルトン家の長女でありながら、まともに魔法一つ使えない。先日の実技試験でも、的を焦がすのが精いっぱいだったそうだね」
それは事実だった。
同じ的を、妹の炎は台座ごと吹き飛ばした。
試験官が慌てて消火する隣で、コレットは満点をもらっている。
私が半日練習しても届かない威力を、妹は退屈そうにあくびをしながら出せる。
得意不得意の問題だ。コレットとそこで張り合うつもりはない。
「君はいつも工房に籠もって図面ばかり描いている。舞踏会に出ても華がないし、人前で誇れる才能もない。僕の隣には、コレットのような女性がふさわしい」
「カイル様。お姉様だって、頑張っていらっしゃるんですのよ? その──私ならすぐにできる魔法を、半日も練習なさって」
コレットが彼をたしなめるフリをしながら、くすくすと笑った。
それから私の手元を見る。
呼び出しが急だったので、指に付いたインクを落としきれていない。
爪の脇に青い筋が残っていた。
「でも……今のお仕事はお姉様に合っていると思うの。職人の皆さんに混じって働いていても、全然気になさらないんですもの」
「ええ。私も、あの仕事は好きよ」
私の答えに、妹が瞬きをした。
どうやら、もっと傷ついた顔を期待していたらしい。
(付き合ってられないわね)
この婚約は、家同士で決められたものだった。
カイルの実家は王都で魔導具商会を営んでいて、ハミルトン家の工房で作った商品も多く扱っている。
婚約には、両家の結びつきを強める意味もあった。
最初から恋愛感情はなかったし、彼のほうも私を好きだったわけではないと思う。
それでも、私なりに関係を作ろうとはしていた。
工房で魔導具を作ることは、今では私にとって大事な仕事だ。
もっとも、最初から自分で望んで始めたわけではない。
(あれは──いつだったかしらね)
婚約したばかりの頃、カイルが商会の上客から受けた特注品を、工房に確認もせず「我が商会なら、すぐに用意できる!」と安請け合いしたことがあった。
ところが実際に話を聞いてみれば、要求された要件は簡単に作れるものではなかった。
普通なら、安請け合いをしたカイルが頭を下げるべき場面だろう。
ところが父に命じられたのは、なぜか私だった。
『婚約者なのだから、カイル君の失敗くらい支えてやれ』
そう言われて工房に送り込まれたのが、始まりだった。
最初は本当に、カイルの尻拭いをするだけのつもりだった。
職人たちと図面を見て、試して、うまくいかなければ原因を探して、また直す。
残念ながら、カイルの安請け合いはそれ一度では終わらなかった。
客にいい顔をしたいのか、「そのくらいなら作れる」「もっと使いやすくできる」と勝手に話を進めては、あとから工房に難題を持ち込んでくる。
そのたびに、私と職人たちで頭を突き合わせた。
できないなら、どうすればできるのか。
思いついた方法を図面にして、試して、失敗したらまた直す。
そうやって、一つずつ形にしていった。
大変だった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
舞踏会で愛想笑いを浮かべているより、職人たちとああでもないこうでもないと言いながら、一つのものを完成させるほうがずっと楽しかった。
カイルには、自分が何をしているのかくらい知ってほしかった。
だから何度か工房へ誘ったけれど、カイルは一度も来なかった。
どうやら彼は、自分が持ち込んだ仕事が、どうやって商品になっていくのかには興味がないらしい。
彼が興味を示すのは、舞踏会で目を引くものや、派手な魔法ばかりだった。
そして今は、それを全部持っているコレットの隣にいる。
──なら、もういい。
こちらに歩み寄るつもりのない相手に、いつまでも時間を使う価値はない。
そう思うようになってからは、カイルと会うより工房へ向かう日のほうが増えていた。
「婚約破棄の件、承知いたしました」
私はカイルに向き直り、左手の指輪を抜いた。
小卓に指輪を置くと、コレットが身を乗り出した。
「まあ、そんな簡単によろしいんですの?」
「ええ。今さら私が何を言っても、変わらないでしょう」
「ごめんなさい。お姉様の婚約者を奪うようなことになってしまって──でも、お姉様が悪いんですのよ? カイル様を放って、毎日工房に籠もってばかりいらっしゃるから」
そう言うコレットの表情は、ちっとも申し訳なさそうではなかった。
コレットは昔からそうだった。
人の持っているものほど欲しがるくせに、決して自分の手で奪ったようには見せない。
父に甘え、周囲には笑顔を振りまき、最後には相手のほうから差し出させる。
そういうところだけは、本当に上手い。
コレットの視線が、小卓に置かれた指輪に向いた。
「……とても、綺麗な指輪ですわね」
「コレット。君にはこれより大きな石を使った指輪を用意するよ。お披露目の席で、誰の目にも留まるようなものをね!」
「そんな立派なものを? うれしいですわ、カイル様!」
(……ちょろいわね)
もう“元”婚約者とはいえ、さすがに心配になる。
変な詐欺に引っかからないといいけれど。
そんなことを考えていると、カイルがわずかに眉を寄せた。
「……ずいぶんと簡単に受け入れるんだな」
「お二人で、もう決めていらしたのでしょう?」
そう返すと、カイルはなぜか不満そうに口を結んだ。
自分から婚約を破棄すると言ったのに、何が気に入らないのだろう。
私を呼ぶ前に、父と義母にも話が通っているのだろう。
二人とも、さっきから一度も口を挟まなかった。
「では、工房へ戻ります。王宮に納める携帯型保冷箱の試作品が、まだ完成していないので」
「待ちなさい。話はまだ終わっていない」
父がようやく顔を上げた。
「今後、ハミルトン家の工房に足を踏み入れることは許さん。お前は今日中に、この家を出ていきなさい」
「……は?」
「今回の婚約破棄は、すべてお前の責任だ」
思わずカイルとコレットを見た。
二人はさっきから、肩を寄せあったままだ。
──これのどこが、私の責任なのだろう?
「私は何度も、伯爵令嬢としての務めを果たせと言った。それを聞き入れず、とうとう家が結んだ婚約まで破綻させた」
「お言葉ですが、工房に最初に行けと言ったのは──」
「黙れ。家が結んだ婚約まで破綻させておいて、まだ言い訳をするつもりか!」
言い訳て。
カイルが勝手な約束をしたから後始末をするために、私を工房へ送り込んだのはお父様でしょうに。
そこで仕事を覚えたら、今度は工房に入り浸った私が悪いというのか。
「今日限り、お前をハミルトン家の娘として面倒を見るつもりはない。荷物をまとめて出ていけ」
あまりにもな言い方に、さすがに腹が立った。
家から追い出したいのなら、好きにすればいい。
けれど、工房の仕事まで放り出せと言われるのは話が別だった。
「……王宮に納める携帯型保冷箱はまだ未完成です。こちらはどうすれば?」
「お前一人いなくなったところで、工房は困らん。そんなものは職人にやらせればいい」
「──そうですか」
そんなもの、ね。
「そうですわ! お姉様なんかいなくても、わたくしが完成させてみせます。魔力なら、お姉様よりずっとありますもの!」
「さすがコレットだ。魔法もろくに使えない誰かと違って、君は何をやらせても優秀だな!」
「まあ、そこまで言ってはお姉様がお可哀想ですわ」
コレットが嬉しそうにカイルを見上げる。
カイルも満更でもなさそうに、その視線を受け止めた。
……ところ構わずいちゃつくな、このバカップルめ。
(まあ、本人がそこまで言うのなら──)
たしかにハミルトン家の職人は優秀だ。
途中で任せることになるのは少し不安だったが、親方たちは私よりずっと経験豊富なベテランだ。
(うん、基礎となる図面はできている。昨日までの試験結果も記録に残してあるし、親方ならそこから完成まで持っていける──よね)
「かしこまりました。それでは、あとは皆さんにお任せします」
私は父に一礼した。
「試作品には未完成と書いた札を付けてあります。昨日までの試験結果も工房に残してありますので、親方に確認してください」
「そういう指図も、もう必要ない」
父が面倒そうに手を振った。
「ご心配なさらなくても大丈夫ですわ、お姉様」
コレットが胸を張る。
「すぐに完成させて、王宮には、わたくしから説明してみせますから!」
「頼もしいな。楽しみにしているよ、コレット」
「ふふっ。カイル様ったら」
(ごめんなさい、親方。あとはお願いします)
心の中で、頑固一徹の親方に手を合わせる。
「では、失礼いたします」
「あ、お父様!」
背後から、弾んだ声が聞こえてきた。
「お姉様のお部屋、私の衣装部屋にしてもよろしいかしら?」
「まあ、それがいいわ」
それまで黙っていた義母が、そこで初めて口を開いた。
「これからは王宮へ出る機会も増えるでしょうし、今の部屋では手狭ですものね」
「そうなの、お母様。新しいドレスもたくさん必要になりますもの!」
「今度のお披露目には、新しいものを仕立てましょう。あなたには明るい色がよく似合うわ」
「本当? うれしい!」
「僕も楽しみだよ。コレットなら、きっと誰より目を引くだろうな」
「もう、カイル様ったら!」
私を蚊帳の外に、ずいぶんと楽しそうだ。
「あ。でも――」
コレットが、今さら私を思い出したように振り返った。
「戻ってきたくなったら、いつでもおっしゃってくださいね? お屋敷のお仕事くらいなら、お父様もきっと用意してくださいますわ」
「まあ、コレットったら。本当に優しい子ね」
義母まで感心したように微笑んでいる。
……もういいか。
「では、失礼いたします」
私は何も答えず、応接間を出た。




