帰る場所 (1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
白い部屋が、まだ残っていた。
目を開けていても、残っていた。研究室の石造りの天井を見ているのに、その向こうに白い天井が透けて見えるような感覚だった。
点滴の管。機械の音。白いシーツ。
そしてあの写真。
エルクは床に座っていた。壁に背をもたせかけていた。シュウが隣に座っていた。リアが少し離れたところに立っていた。ミレナンがエルクの顔を覗き込んでいた。
「顔色悪いですよ」
「わかってる」
「水、持ってきましょうか」
「いい」
ミレナンが引き下がった。でも離れなかった。心配そうにしていた。
アルテフェインは観測儀の前にいた。光の粒の動きを読んでいた。エルクたちの方を向いていなかった。
「シュウ」
エルクが隣に言った。
「うん」
「お前も何か見えたか」
シュウが少し間を置いた。
「見えた」
「何が」
「体育館」シュウが言った。
「子供たちが走ってた。笛の音がした。俺が笛吹いてたのかもしれない。わかんないけど」
エルクは天井を見た。
シュウが続けた。
「校庭があった。桜が咲いてた。入学式だったのかな。親御さんたちが写真撮ってた。子供が泣いてた。緊張してたんだろうな」
「覚えていたのか」
「覚えてたわけじゃない。見えた。さっき急に。でも見えた瞬間に、全部知ってる気がした」
しばらく、二人は黙っていた。
ミレナンが二人を交互に見ていた。何かを言いたそうだったが、言わなかった。空気を読んでいた。
シュウが膝を抱えた。
「なんかさ」
シュウが言った。
「帰りたくなってきた」
初めて言葉にした。
それまでずっと、その感情はあったはずだった。エルクにも、シュウにも。でも言葉にしなかった。言葉にすれば、帰れないかもしれないという事実が、より重くなる気がしていた。
でもシュウは言った。
「帰りたい」
ミレナンが小さく息をのんだ。
リアは何も言わなかった。
ただ窓の方を向いた。夜のエルナトの光が、窓の外に広がっていた。
アルテフェインが振り返った。
観測儀から離れて、部屋の中央に来た。
「落ち着いたか」
エルクが立ち上がった。
「聞いていいか」
「聞け」
「元の世界に、帰れるのか」
部屋が静かになった。
アルテフェインは答えなかった。
長い沈黙だった。何かを考えているのか、言葉を選んでいるのか、エルクにはわからなかった。
ただ待った。
アルテフェインが口を開いた。
「分からん」
それだけだった。
「分からない、ということか」
「そうだ。帰還成功の記録はない。一件もない。四百年分の記録の中に、一件もない」
「門があれば帰れないのか」
「門は帰還装置ではない」アルテフェインが言った。
「昨日も言った。門は世界と世界を繋ぐ境界線だ。開けば融合する。お前が元の世界へ渡れるかどうかと、門が開くかどうかは、別の問題だ」
「別の問題」
「そうだ。門が開いても、お前が元の世界へ帰れる保証はない。むしろ——」
アルテフェインが少し間を置いた。
「世界が融合すれば、元の世界そのものが変わる。帰るべき世界が、帰った瞬間には別の世界になっているかもしれない」
エルクは観測儀を見た。
無数の球体が浮かんでいた。光の粒が動いていた。
「では、どうすれば」
「まだわからない」アルテフェインが正直に言った。
「私が五十年かけて研究してきたが、帰還の方法はまだ見えていない。門を閉じることはできるかもしれない。しかし帰ることと、閉じることは、これもまた別の問題だ」
シュウが床を見ていた。
ミレナンが手帳を持っていたが、開かなかった。
アルテフェインが三人を見た。
「聞く」
「お前たちは、帰りたいか」
重かった。
問いとして重かった。答えを求める問いではなかった。自分自身に向き合わせる問いだった。
シュウが即答しなかった。
エルクも答えられなかった。
リアが黙っていた。
ミレナンだけが、静かに三人を見ていた。
答えは出なかった。
出なかったまま、夜が深くなった。
研究塔の屋上へ続く階段を、エルクは一人で上った。
アルテフェインが「屋上がある」と言ったわけではなかった。
ただ、上へ行きたかった。螺旋階段を上り続けたら、小さな扉があった。押したら開いた。
外に出た。
夜風が来た。エルナトの夜だった。魔導灯の光が眼下に広がっていた。塔の頂に近い場所からだと、街全体が見えた。光の網が、地平線の手前まで続いていた。
空に星が出ていた。
エルナトの星は、東京の星より多かった。光害がない分、空が暗かった。その分、星が多かった。
足音がした。
振り返った。
リアだった。
「ここにいたか」リアが言った。
「見つかったな」
リアが隣に来た。街を見た。しばらく二人で黙っていた。
「帰りたいか」
リアが聞いた。
「さっきアルテフェインに聞かれた」エルクが言った。
「お前の答えを聞いている」
エルクは街を見た。
「帰りたい、という気持ちはある」エルクは言った。
「ずっとあった。でも——さっき、病院の光景を見てから、その感情が変わった気がする」
「どう変わった」
「帰りたい、が——帰らなければいけないに、なった気がする」
リアが少し黙った。
「写真の女性か」
「多分、俺の知っている人間だ」エルクが言った。
「残響じゃない。記憶だ。でも名前が出てこない。顔は見えた。でも声が出てこない。その人が——あの病院にいる誰かと関係している気がする」
「ベッドにいたのが、お前かもしれないと思っているか」
エルクは答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
リアが星を見た。
「私には帰る場所がある」
「王都がある。故郷がある。国がある。たとえレグルスに追われていても——この世界に、私の帰る場所はある」
「羨ましいな」
「そうかもしれない」リアが言った。
「でも——勇者には、ない」
エルクがリアを見た。
「召喚された者たちには、帰る場所がない。記録にある二百人近くも、帰れなかった。帰る場所を持ったまま、帰れなかった。だから帰してあげたい。みんなを」
「みんな、か」
「お前も。シュウも」
エルクは前を向いた。
街の光が広がっていた。静かだった。
「お前はどうする。俺たちが帰った後」
リアが少し間を置いた。
「勇者召喚を止める。それだけだ」
その答えは迷いなかった。でも——その前の沈黙が、少しだけ長かった。
エルクはそれに気づいたが、何も言わなかった。
風が来た。
リアの赤みがかった髪が揺れた。
街の光が、二人の足元まで届いていた。




