軍務卿ライディス (2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
エルナトは、今日も明るかった。
石畳に魔導灯の光が反射していた。空に輸送艇が流れていた。広場では子供たちが走っていた。光の噴水が昼間でも輝いていた。
四人は街を歩いていた。
ミレナンが先頭だった。
今日は珍しく地図を持っていなかった。
「今日は覚えているので大丈夫です」
「本当に?」とシュウが聞いた。
「この道は毎日通っています」
「毎日通っていて、昨日迷ったんじゃないのか」
「昨日は、少し考え事をしていたので」
「今日は考え事をしないのか」
「します」
「じゃあ迷うじゃないか」
ミレナンが口をへの字にした。
「失礼ですね」
シュウが笑った。今日は笑っていた。
昨日の資料室とは違う顔だった。切り替えが早いのか、あるいは切り替えようとしているのか、エルクにはわからなかった。
どちらでもいい、とも思っていた。
魔導市場を抜けた先に、見慣れない区画があった。
「魔導書店です」ミレナンが言った。
「エルナト最大の書店で、魔導学院の学生も研究員も全員ここで本を買います」
建物は三階建てだった。外壁に魔法陣が刻まれていた。
扉が自動で開いた。
中に入ると、天井まで本棚が並んでいた。梯子が各棚についていた。梯子が——動いていた。棚の上を、梯子が滑るように移動していた。客が梯子の上に乗ったまま、棚の本を眺めていた。
「便利だな」とシュウが言った。
「魔法で動かしています。目当ての本を声で言うと、その本の棚まで連れて行ってくれます」
「試していいか」
「どうぞ」
シュウが梯子に乗った。「えーと……料理の本」と声で言った。
梯子がゆっくりと動いた。棚の列を二つ越えた先で止まった。シュウの目の前に、料理の本が並んでいた。
「すごい」シュウが言った。
「なんでも揃ってるのか」
「学院の図書室にないものも、ここに来れば大体あります」
シュウが本を一冊手に取った。
「買おうかな。前の世界じゃ、料理したことなかったけど」
「前の世界?」ミレナンが聞いた。
「ああ、俺と——エルクはこの世界に来る前に、別の世界にいたんだ」
ミレナンが少し黙った。
「……その話、もう少し聞いてもいいですか」
「いいけど」シュウが本を棚に戻した。「難しい話はできないぞ。俺もよくわかってないから」
「難しくなくていいです。ただ、どんな世界だったか、知りたい」
シュウが梯子から降りた。
「そうだな」少し考えた。「明るかった。夜でも明るかった。街全体が光ってた」
「魔導灯があったんですか」
「魔法じゃない。でも光ってた」シュウが言った。
「なんていうか——ここに似てるんだよな、エルナトが。だから少し懐かしい気がする」
ミレナンが手帳を取り出した。
「メモしていいですか」
「好きにしろ」
ミレナンが書き始めた。真剣な顔だった。
書きながら「他には?」と聞いた。
「乗り物があった。地面を走る乗り物。魔導列車みたいなやつ」とシュウが答えた。
「音がしたか」とミレナンが聞いた。
「した。結構うるさかった」とシュウが答えた。
二人が話していた。
エルクはその横で、書店の棚を見ていた。
見ていたが、本は見ていなかった。
何かが——引っかかっていた。
昨日からだった。正確には、今朝から。街を歩いていると、どこかから視線を感じた。《残響》の反応ではなかった。もっと物理的な何かだった。
誰かがいる。
エルクは棚の隙間から、書店の外を見た。
通りを歩く人々が見えた。普通の人々だった。
でも——
一人だけ、動いていない者がいた。
屋台の影に立っていた。こちらを向いていた。
目が合った瞬間、その人物は向きを変えた。
人混みに消えた。
エルクは棚から離れた。何も言わなかった。
魔法カフェは、浮遊庭園の近くにあった。
石造りのこじんまりとした店だった。入り口に魔導灯が吊るされていた。扉を開けると、温かい空気と甘い匂いが来た。
「ここ、エルナトで一番有名な店です。魔法で温度を管理しているので、飲み物がいつでも最適な温度で出てきます」
「最適な温度って」とシュウが言った。
「熱い飲み物は熱く、冷たい飲み物は冷たく。最後の一口まで変わりません」
「それだけで有名なのか」
「エルナトの人は、こういうものに価値を感じます」
四人が席についた。ミレナンが全員分を注文した。
温かい飲み物が来た。エルクには名前のわからない飲み物だった。色は濃い橙色だった。一口飲んだ。甘かった。果実の味がした。
リアが窓の外を見ていた。
街が見えた。普通の街の昼だった。
「お前たちにとって、ここはどう見える」リアが言った。
「いい街だと思う」エルクが答えた。
「レグルスと比べて」
「比べるまでもない」
リアが窓から目を離した。
「そうだな」
「でも」エルクは続けた。
「完全に安全だとは思っていない」
リアがエルクを見た。
「誰かに見られている気がする。今日ずっと」
リアの目が、少し鋭くなった。
「ライディスの手が届いているか」
「わからない。でも可能性はある」
ミレナンが二人の会話を聞いていた。飲み物を持ったまま、置いていた。
「……先生に話すべきですか」
「今夜話す」エルクが言った。
シュウが飲み物を飲み終えた。「うまかった、お代わりできるか」とミレナンに聞いた。
「できます」とミレナンが答えた。シュウが「頼む」と言った。
場が少し緩んだ。
エルクは緩んだ空気の中で、窓の外を一度だけ見た。
屋台の影はなかった。
でも——いなくなったわけではないと思っていた。
・
・
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夜になった。
四人は塔へ向かった。
アルテフェインは研究室にいた。観測儀の前に立っていた。四人が入ってきても振り返らなかった。
「来たか」
「話がある」エルクが言った。
「今日、誰かに見られていた」
アルテフェインが振り返った。金色の目が、エルクを見た。
「確信があるか」
「ある」
「見た目は」
「一瞬しか見えなかった。レグルスの軍服ではなかった。私服だった」
アルテフェインは少し間を置いた。
そこへ、塔の下の方から音がした。
扉が開く音だった。続いて、複数の足音だった。階段を上る音だった。
「来たな」アルテフェインが静かに言った。
リアが大剣に手をかけた。
「待て」アルテフェインが言った。
「戦う必要はない」
足音が止まった。研究室の扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、二人だった。
レグルスの軍服ではなかった。黒い簡素な服だった。武器を持っていなかった。両手を見せていた。敵意を見せない姿勢だった。
一人が口を開いた。
「アルテフェイン殿。軍務卿ライディスより、伝言をお届けに参りました」
アルテフェインが無言で続きを促した。
「残響の器を、レグルスへ引き渡していただきたい。世界を守るために必要なことです」
部屋が静かになった。
アルテフェインの目が、細くなった。
「世界を守る」
老人が繰り返した。声のトーンが、わずかに変わっていた。
「あの男は」
アルテフェインが言った。
「まだ諦めておらんか」
その声に、初めて感情があった。
怒りだった。
静かな怒りだった。声を荒げてはいなかった。でも確かに、怒りがあった。
使者が少し怯んだ。「私どもはただ伝言を——」
「わかっている」アルテフェインが遮った。
「帰れ。ライディスに伝えろ」
「……なんと伝えますか」
「断る、と伝えろ。それだけでわかる」
使者が頭を下げた。二人は出て行った。
足音が遠くなった。扉が閉まった。
沈黙があった。
エルクが口を開いた。「ライディスは、残響を何に使おうとしているんだ」
アルテフェインが観測儀の前に戻った。立ったまま、光の球体を見た。
「あの男は、門を知っている」
「知っている」とエルクが言った。
「だが、半分しか知らない」アルテフェインが言った。
「ライディスはこう考えている。残響で門を開く。異世界の力を引き出す。その力で魔王軍を殲滅する」
「門を開くことの意味は知っているはずだ」
「知った上で構わないと思っているかもしれない。彼には——止まれない理由がある」
「止まれない理由」
アルテフェインは観測儀を見たまま答えなかった。
エルクは少しの間待った。
「俺はまた兵器扱いか」
エルクが言った。
誰も答えなかった。
答えなくてよかった。
答えがわかっていた。
召喚された日から変わらなかった。番号で管理されたときから変わらなかった。
A-271。
兵器の番号だった。
そのとき。
観測儀が光った。
一瞬だった。だがはっきりした光だった。球体の内部で、何かが弾けた。
同時に、塔全体が揺れた。
かすかだったが、確かに揺れた。床の石が振動した。棚の資料が一冊落ちた。観測儀の光の粒が乱れた。
「何だ」とシュウが言った。
アルテフェインが観測儀に駆け寄った。
「門だ」
エルクの頭の中で、《残響》が爆発した。
暴走ではなかった。
だが、これまでとは違った。
情報が来た。声ではなかった。映像だった。
白い部屋だった。
天井が白かった。壁が白かった。ベッドが白かった。
病院だった。
ベッドに誰かが横たわっていた。顔が見えなかった。白いシーツに覆われていた。点滴の管がついていた。機械の音がした。一定のリズムで鳴っていた。
ベッドの脇の棚に、小さな機械が置かれていた。
薄い板だった。
画面があった。
その画面に、写真が映っていた。
三人が写っていた。
一人はエルクだった。
もう一人はシュウだった。
二人は笑っていた。
三人目は、女だった。
エルクの知らない女だった。でも——知っているような気がした。
写真の中のエルクと、その女が、並んで立っていた。
「エルク」
リアの声だった。
映像が消えた。
エルクは研究室にいた。床に片膝をついていた。いつ崩れたのか、わからなかった。
「大丈夫か」シュウが隣にいた。
エルクは答えなかった。
頭の中に、白い部屋が残っていた。機械の音が残っていた。三人の写真が残っていた。
「今、何を見た」
アルテフェインの声だった。
老人が目の前にいた。金色の目が、エルクを見ていた。
エルクは口を開いた。
でも言葉が出なかった。
白い部屋。病院。点滴。機械の音。三人の写真。知らない女。自分と並んで立つ、知らない女。
帰りたいと思っていた。
その感情は、ずっとあった。あの世界へ帰りたい。
でも——あの世界に、帰るべき「自分」がいるかどうか、考えたことがなかった。
あの病院のベッドに、誰かが横たわっていた。
顔の見えない誰かが。
「エルク」
シュウがもう一度言った。
エルクは顔を上げた。
「……見えた」
エルクは言った。
「向こうの世界が、見えた」
「何が見えた」
答えられなかった。
なぜなら——初めて、「元の世界の自分」が存在するかもしれないと思ってしまったから。
召喚される前の自分が。
誰かと並んで写真を撮った自分が。
そしてあのベッドで眠っている誰かが——自分かもしれないと、思ってしまったから。
「後で話す」
エルクは立ち上がった。
膝が少し震えていた。
アルテフェインはエルクを見ていた。金色の目が、何かを見透かすように光っていた。
老人は何も言わなかった。
聞かなかった。
ただ——観測儀に向き直った。
「門の活性化が、加速している」
静かに言った。
「急がなければならない」
観測儀の中で、エルナトの点が、強く、強く、脈を打っていた。




