勇者の記録 (2)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
「消されている」
エルクが言った。
削り取られた跡だった。丁寧に削られていた。名前だけではなかった。出身の記録も。召喚年の記録も。すべて削られていた。残っているのは、能力の記録と、戦果の記録だけだった。
戦果の記録は、異常だった。
ミレナンが読んだ。声が少し揺れていた。
「レグルス北方戦線——単独制圧。魔王軍第三軍との交戦——撃退。古代遺跡群の封印——成功。門への接触——」
ミレナンが止まった。
「門への接触、記録」とエルクが続きを促した。
「……門への接触、記録抹消」
「抹消されているのか」
「はい。ここだけ、別の手で書かれています。後から書き足されたみたいに」
アルテフェインが記録を覗いた。しばらく見ていた。
その表情が、珍しく動いた。
わずかだった。だが確かに動いた。眉が、ほんの少し寄った。
「おかしい」
アルテフェインが言った。
「何がですか」とミレナンが聞いた。
「この記録は、私が管理していた。誰も触れないはずだった」
「でも消されています」
「わかっている…だからおかしいと言っている」
アルテフェインは記録を閉じた。
「なぜ今になって、記録が改竄されている」
独り言のような声だった。誰かへ向けた言葉ではなかった。自分自身への問いだった。
シュウがエルクの隣に来て、小声で言った。
「誰が消したんだろうな」
「わからない」エルクが小声で返した。「でも——消したかった理由がある」
「その名前が、都合が悪い誰かがいるってことか」
「多分な」
ミレナンが手帳を取り出していた。何かを書いていた。書きながら言った。
「残っている記録から、ある程度は推測できます。戦果の規模から見て、この人の残響の強度は歴代で最大です。単独で古代遺跡の封印ができたなら、門への干渉も——」
「ミレナン」
アルテフェインが静かに言った。
ミレナンが止まった。
「今日はそこまでにしろ」
「でも先生、あと少し分析すれば——」
「今日はそこまでだ」
アルテフェインの声に、何かがあった。怒りではなかった。命令でもなかった。
止める理由がある。そういう声だった。
ミレナンは口を閉じた。手帳を閉じた。
エルクはアルテフェインを見た。老人は記録を棚に戻していた。その背中が、少しだけ——疲れているように見えた。
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資料室を出た。
廊下を歩きながら、シュウがミレナンに並んだ。
「さっき書いてたこと、俺に教えてくれるか」
ミレナンが少し驚いた顔をした。
「え、何をですか」
「消された記録の分析。先生がいないとこで聞いていいか」
「……先生が止めたのには理由があると思いますけど」
「だから先生に聞かないで、お前に聞く」
ミレナンが少し考えた。眼鏡を直した。
「シュウさんはなぜ知りたいんですか」
シュウが少し間を置いた。
「俺たちに関係があるかもしれないから」
「関係って」
「その人が何者だったか。その人に何があったか。俺たちと同じように召喚されてきた人間が、五十年前に何を見て、どうなったか」シュウが言った。
「知りたい。それだけだ」
ミレナンはしばらくシュウを見ていた。
シュウはいつもと少し違う顔をしていた。笑っていなかった。でも暗くもなかった。ただ、真剣だった。
ミレナンが言った。「……後で、先生がいないときに」
「ありがとう」
「お礼はまだ早いです。私も、全部はわからないので」
「わかるとこだけでいい」
ミレナンが頷いた。小さく、だが確かに頷いた。
夕方になった。
アルテフェインは塔に残った。四人は外に出た。
街の夕暮れは、朝とも昼とも違う顔をしていた。魔導灯が一斉に明るくなり始める時間だった。石畳が橙色と青白い光に同時に染まって、不思議な色になっていた。
「腹減った、飯にしよう」とシュウが言った。
「昨日の店でいいか」とエルクが聞いた。
「近道知ってます」とミレナンが言った。
リアが静かに言った。「地図で行け」
「……はい」
食堂に入った。
昨日と同じ席に座った。ミレナンが注文した。
シュウが「今日も任せる」と言った。ミレナンが「お任せください」と言って、少し嬉しそうにした。
料理が来るまでの間、しばらく誰も話さなかった。
今日見たものが、まだ頭の中にあった。
百九十三名。帰還ゼロ。廃棄。消された名前。
シュウが水を一口飲んだ。
「なあ、ミレナン」
「はい」
「さっきの続き、聞いていいか」
ミレナンが手帳を取り出した。テーブルの上に置いた。
「消された記録の人について、残っている情報から推測できることを話します」ミレナンが言った。
「ただし、あくまで推測です。先生が止めたのは、不確かな情報で混乱させたくないからだと思うので」
「わかった」
「まず、戦果の規模から、この人の残響の強度は歴代最大です。エルクさんとの比較はまだできませんけど、少なくとも記録に残っている中では」
「それで」
「門への接触記録が抹消されています。でも抹消される前の痕跡が少し残っていて——」
ミレナンが手帳を開いた。
「接触回数が、複数回あります。一度だけじゃない」
エルクが前に乗り出した。
「複数回、門に触れたということか」
「そう読めます」
「それで壊れなかったのか」
「最終記録には制御不能とあります。壊れた、というより——」
ミレナンが少し間を置いた。
「変わった、という感じに読めます。精神崩壊とも、発狂とも少し違う」
「変わったとは」
「わかりません」ミレナンが正直に言った。
「そこから先は記録が消されているので」
シュウがテーブルに肘をついた。
「名前が消された理由は」
「それも推測ですけど」ミレナンが言った。
「名前が残ると、その人を追える。その人が今どこにいるか、何をしているか、調べられてしまう」
「つまり」
「その人は、まだどこかにいる可能性がある、ということです」
テーブルが静かになった。
料理が運ばれてきた。
シュウが一口食べた。「うまい」と言った。
いつものシュウの声だった。でも目が、少し違った。
「ありがとな、ミレナン」
「お役に立てたかどうか」
「立ててる」シュウが言った。「十分立ててる」
ミレナンが少し照れた顔をした。眼鏡を直した。
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夜になった。
食堂を出て、宿への道を歩いた。四人で並んで歩いた。
途中で、リアが足を止めた。
「少し話せるか」
エルクを見ていた。
シュウがミレナンを見た。ミレナンが察した。
「私、宿に先に戻ります」とミレナンが言った。「シュウさん、送りますね」
「俺が送る側じゃないのか」
「……あ、でも夜は少し自信なくて——」
「行くぞ」シュウがミレナンの背中を押した。「またな」
二人が歩いていった。ミレナンが何か言っていた。
シュウが何か言い返していた。声が遠くなった。
リアとエルクが残った。
街の広場だった。中央に光の噴水があった。夜になっても消えていなかった。青白い光の粒が、静かに上がって、弾けて、落ちていた。
「今日の資料を見て、どう思った」
リアが言った。問いかけではなかった。何かを確認する言い方だった。
「帰れないかもしれない、と初めてはっきり思った」エルクは答えた。
「思ってたことが、数字になった感じだ」
リアが噴水を見た。
「私が勇者召喚を止めたい理由を話したことはなかったな」
「ああ」
「話す」
リアはそれだけ言って、少し間を置いた。
「幼い頃、魔物に襲われたことがある」
リアが言った。
「私は七歳だった。護衛が二人いたが、魔物は強かった。護衛が倒された。私は逃げた。でも追いつかれた」
エルクは黙って聞いた。
「そこへ、勇者が来た」
リアの声が、わずかに変わった。
「名前は聞かなかった。顔もよく見えなかった。ただ——笑っていた。魔物の前で、私に向かって笑っていた。大丈夫だ、勇者だからな、と言った」
リアが光の噴水を見ていた。
「あの人は強かった。魔物を倒した。私を助けた。それだけで行ってしまった。名前も聞けなかった。礼も言えなかった。でも——あの笑顔が、ずっと残っていた」
「だから」
「だから勇者に憧れた」リアが言った。
「あの人みたいに、誰かを救える人間になりたいと思った。そしてレグルスで見た。勇者が使い捨てにされているのを。番号で管理されているのを。消耗したら廃棄と記録されるのを」
リアが光から目を離した。エルクを見た。
「あの人は英雄だった。私にとっては確かに英雄だった。なのに——誰も覚えていない。記録にも残っていない。英雄だった人間が、ただ消えていく」
「だから許せない」
「そうだ、勇者を消耗品みたいに扱う国を、私は許せない」リアが言った。
エルクは噴水を見た。
光の粒が上がって、弾けて、落ちていた。
「その人の名前、知りたいと思うか」
「知りたい」リアが即座に言った。「ずっと知りたかった」
「今日の消された記録——あの人かもしれない」
リアが少し黙った。
「可能性はある、と思っていた」リアが言った。
「アルテフェインは何か知っているかもしれない」
「知っていると思う」リアが言った。「あの人は、知っていて止めた」
「聞くか」
「聞く」リアが言った。「ただし——今日じゃない。今日聞いても、あの人は話さない」
「なぜわかる」
「昔から知っているから」
エルクはリアを見た。リアは前を向いていた。
「昔から?」
「子供の頃、会ったことがある。王都に出入りしていた賢者がいた。それが先生だった」
「アルテフェインが王都に」
「勇者の記録を集めるために来ていた」リアが言った。
「私は子供だったから、詳しい話は聞かなかった。でも——先生はあの記録の人を知っている。確信がある」
エルクは少しの間、噴水を見ていた。
「お前が今日の資料室で、あの記録の前でどんな顔をしていたか、知ってるか」
リアが少し間を置いた。
「どんな顔をしていた」
「懐かしそうな顔をしていた」
リアは何も言わなかった。
否定もしなかった。
光の噴水が、夜の中で静かに輝いていた。青白い光の粒が、上がって、弾けて、落ちていった。
宿に戻った。
部屋に入る前に、エルクは廊下の窓から塔を見た。
塔の先端が青白く光っていた。その地下で、門が脈を打っている。
消された名前がある。
五十年前の勇者がいた。
その人は門に触れて、変わった。
どこかにまだいる可能性がある。
エルクは窓から離れた。
・
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・
一方その頃。
レグルス聖王国。
白銀の回廊を、一人の男が歩いていた。
白銀の法衣。赤い法冠。足音がなかった。廊下に人影はなかった。夜の王宮は静かだった。
ライディスが執務室の扉を開けた。
部下が一人、中で待っていた。
「報告を」
ライディスが椅子に座った。
「エルク・レインおよびリア・エ・アルヴェインは、昨日エルナトへの入国を確認しました。現在、賢者の塔へ頻繁に出入りしています」
「アルテフェインのところへ行ったか」
「はい。上位賢者との接触が確認されています」
ライディスは少し間を置いた。
「他に」
「エルナトに別の門が存在する可能性が——」
「わかっている」
ライディスが遮った。
部下が黙った。
ライディスは窓の外を見た。夜の空だった。星が出ていた。
「そうか」
口元が、かすかに動いた。
笑ったのかもしれなかった。そうでないのかもしれなかった。その表情に感情はなかった。計算があるだけだった。
「引き続き監視を続けろ」
「はい」
「それと——」
ライディスが部下を見た。
「エルナト内部への工作を始める。準備をしろ」
部下が一瞬、表情を動かした。
「エルナトへの工作、ですか」
「そうだ」
「エルナトは中立国です。工作が発覚すれば——」
「発覚しなければいい」
ライディスが平坦に言った。
「発覚しないようにやれ。それがお前たちの仕事だろう」
部下が頭を下げた。
「……承知しました」
扉が閉まった。
ライディスは一人になった。
執務机の上に、一枚の羊皮紙があった。ライディスはそれを手に取った。
文字が書かれていた。エルナト語だった。
ライディスは読んだ。
読み終えた。
羊皮紙を、炎の中に入れた。机の端に置かれた小さな魔導灯の炎だった。羊皮紙が燃えた。灰になった。
「同じ力だ」
ライディスは灰を見ながら言った。
「伝説の勇者と、同じ力だ」
灰が、崩れた。




