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異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~  作者: 小城乃ひかり
第三章 賢者の国

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勇者の記録 (2)

異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~

「消されている」

エルクが言った。


削り取られた跡だった。丁寧に削られていた。名前だけではなかった。出身の記録も。召喚年の記録も。すべて削られていた。残っているのは、能力の記録と、戦果の記録だけだった。


戦果の記録は、異常だった。


ミレナンが読んだ。声が少し揺れていた。

「レグルス北方戦線——単独制圧。魔王軍第三軍との交戦——撃退。古代遺跡群の封印——成功。門への接触——」

ミレナンが止まった。


「門への接触、記録」とエルクが続きを促した。

「……門への接触、記録抹消」

「抹消されているのか」

「はい。ここだけ、別の手で書かれています。後から書き足されたみたいに」


アルテフェインが記録を覗いた。しばらく見ていた。

その表情が、珍しく動いた。

わずかだった。だが確かに動いた。眉が、ほんの少し寄った。

「おかしい」

アルテフェインが言った。


「何がですか」とミレナンが聞いた。

「この記録は、私が管理していた。誰も触れないはずだった」

「でも消されています」

「わかっている…だからおかしいと言っている」

アルテフェインは記録を閉じた。


「なぜ今になって、記録が改竄されている」

独り言のような声だった。誰かへ向けた言葉ではなかった。自分自身への問いだった。


シュウがエルクの隣に来て、小声で言った。

「誰が消したんだろうな」

「わからない」エルクが小声で返した。「でも——消したかった理由がある」

「その名前が、都合が悪い誰かがいるってことか」

「多分な」


ミレナンが手帳を取り出していた。何かを書いていた。書きながら言った。

「残っている記録から、ある程度は推測できます。戦果の規模から見て、この人の残響の強度は歴代で最大です。単独で古代遺跡の封印ができたなら、門への干渉も——」

「ミレナン」

アルテフェインが静かに言った。

ミレナンが止まった。

「今日はそこまでにしろ」

「でも先生、あと少し分析すれば——」

「今日はそこまでだ」

アルテフェインの声に、何かがあった。怒りではなかった。命令でもなかった。

止める理由がある。そういう声だった。


ミレナンは口を閉じた。手帳を閉じた。

エルクはアルテフェインを見た。老人は記録を棚に戻していた。その背中が、少しだけ——疲れているように見えた。

資料室を出た。


廊下を歩きながら、シュウがミレナンに並んだ。

「さっき書いてたこと、俺に教えてくれるか」

ミレナンが少し驚いた顔をした。

「え、何をですか」

「消された記録の分析。先生がいないとこで聞いていいか」

「……先生が止めたのには理由があると思いますけど」

「だから先生に聞かないで、お前に聞く」

ミレナンが少し考えた。眼鏡を直した。


「シュウさんはなぜ知りたいんですか」

シュウが少し間を置いた。

「俺たちに関係があるかもしれないから」

「関係って」

「その人が何者だったか。その人に何があったか。俺たちと同じように召喚されてきた人間が、五十年前に何を見て、どうなったか」シュウが言った。

「知りたい。それだけだ」

ミレナンはしばらくシュウを見ていた。


シュウはいつもと少し違う顔をしていた。笑っていなかった。でも暗くもなかった。ただ、真剣だった。

ミレナンが言った。「……後で、先生がいないときに」

「ありがとう」

「お礼はまだ早いです。私も、全部はわからないので」

「わかるとこだけでいい」

ミレナンが頷いた。小さく、だが確かに頷いた。


夕方になった。


アルテフェインは塔に残った。四人は外に出た。

街の夕暮れは、朝とも昼とも違う顔をしていた。魔導灯が一斉に明るくなり始める時間だった。石畳が橙色と青白い光に同時に染まって、不思議な色になっていた。

「腹減った、飯にしよう」とシュウが言った。

「昨日の店でいいか」とエルクが聞いた。

「近道知ってます」とミレナンが言った。

リアが静かに言った。「地図で行け」

「……はい」


食堂に入った。

昨日と同じ席に座った。ミレナンが注文した。

シュウが「今日も任せる」と言った。ミレナンが「お任せください」と言って、少し嬉しそうにした。

料理が来るまでの間、しばらく誰も話さなかった。


今日見たものが、まだ頭の中にあった。

百九十三名。帰還ゼロ。廃棄。消された名前。


シュウが水を一口飲んだ。

「なあ、ミレナン」

「はい」

「さっきの続き、聞いていいか」


ミレナンが手帳を取り出した。テーブルの上に置いた。

「消された記録の人について、残っている情報から推測できることを話します」ミレナンが言った。

「ただし、あくまで推測です。先生が止めたのは、不確かな情報で混乱させたくないからだと思うので」

「わかった」


「まず、戦果の規模から、この人の残響の強度は歴代最大です。エルクさんとの比較はまだできませんけど、少なくとも記録に残っている中では」

「それで」


「門への接触記録が抹消されています。でも抹消される前の痕跡が少し残っていて——」

ミレナンが手帳を開いた。

「接触回数が、複数回あります。一度だけじゃない」


エルクが前に乗り出した。

「複数回、門に触れたということか」

「そう読めます」

「それで壊れなかったのか」


「最終記録には制御不能とあります。壊れた、というより——」

ミレナンが少し間を置いた。


「変わった、という感じに読めます。精神崩壊とも、発狂とも少し違う」

「変わったとは」

「わかりません」ミレナンが正直に言った。

「そこから先は記録が消されているので」


シュウがテーブルに肘をついた。

「名前が消された理由は」

「それも推測ですけど」ミレナンが言った。

「名前が残ると、その人を追える。その人が今どこにいるか、何をしているか、調べられてしまう」

「つまり」

「その人は、まだどこかにいる可能性がある、ということです」

テーブルが静かになった。


料理が運ばれてきた。

シュウが一口食べた。「うまい」と言った。

いつものシュウの声だった。でも目が、少し違った。

「ありがとな、ミレナン」

「お役に立てたかどうか」

「立ててる」シュウが言った。「十分立ててる」

ミレナンが少し照れた顔をした。眼鏡を直した。

夜になった。

食堂を出て、宿への道を歩いた。四人で並んで歩いた。


途中で、リアが足を止めた。

「少し話せるか」

エルクを見ていた。


シュウがミレナンを見た。ミレナンが察した。

「私、宿に先に戻ります」とミレナンが言った。「シュウさん、送りますね」

「俺が送る側じゃないのか」

「……あ、でも夜は少し自信なくて——」

「行くぞ」シュウがミレナンの背中を押した。「またな」

二人が歩いていった。ミレナンが何か言っていた。

シュウが何か言い返していた。声が遠くなった。


リアとエルクが残った。

街の広場だった。中央に光の噴水があった。夜になっても消えていなかった。青白い光の粒が、静かに上がって、弾けて、落ちていた。


「今日の資料を見て、どう思った」

リアが言った。問いかけではなかった。何かを確認する言い方だった。


「帰れないかもしれない、と初めてはっきり思った」エルクは答えた。

「思ってたことが、数字になった感じだ」


リアが噴水を見た。

「私が勇者召喚を止めたい理由を話したことはなかったな」

「ああ」

「話す」

リアはそれだけ言って、少し間を置いた。


「幼い頃、魔物に襲われたことがある」

リアが言った。

「私は七歳だった。護衛が二人いたが、魔物は強かった。護衛が倒された。私は逃げた。でも追いつかれた」

エルクは黙って聞いた。


「そこへ、勇者が来た」

リアの声が、わずかに変わった。


「名前は聞かなかった。顔もよく見えなかった。ただ——笑っていた。魔物の前で、私に向かって笑っていた。大丈夫だ、勇者だからな、と言った」

リアが光の噴水を見ていた。


「あの人は強かった。魔物を倒した。私を助けた。それだけで行ってしまった。名前も聞けなかった。礼も言えなかった。でも——あの笑顔が、ずっと残っていた」


「だから」

「だから勇者に憧れた」リアが言った。

「あの人みたいに、誰かを救える人間になりたいと思った。そしてレグルスで見た。勇者が使い捨てにされているのを。番号で管理されているのを。消耗したら廃棄と記録されるのを」


リアが光から目を離した。エルクを見た。

「あの人は英雄だった。私にとっては確かに英雄だった。なのに——誰も覚えていない。記録にも残っていない。英雄だった人間が、ただ消えていく」


「だから許せない」

「そうだ、勇者を消耗品みたいに扱う国を、私は許せない」リアが言った。


エルクは噴水を見た。

光の粒が上がって、弾けて、落ちていた。

「その人の名前、知りたいと思うか」

「知りたい」リアが即座に言った。「ずっと知りたかった」


「今日の消された記録——あの人かもしれない」

リアが少し黙った。

「可能性はある、と思っていた」リアが言った。


「アルテフェインは何か知っているかもしれない」

「知っていると思う」リアが言った。「あの人は、知っていて止めた」

「聞くか」

「聞く」リアが言った。「ただし——今日じゃない。今日聞いても、あの人は話さない」

「なぜわかる」

「昔から知っているから」


エルクはリアを見た。リアは前を向いていた。

「昔から?」

「子供の頃、会ったことがある。王都に出入りしていた賢者がいた。それが先生だった」


「アルテフェインが王都に」

「勇者の記録を集めるために来ていた」リアが言った。

「私は子供だったから、詳しい話は聞かなかった。でも——先生はあの記録の人を知っている。確信がある」


エルクは少しの間、噴水を見ていた。

「お前が今日の資料室で、あの記録の前でどんな顔をしていたか、知ってるか」

リアが少し間を置いた。

「どんな顔をしていた」

「懐かしそうな顔をしていた」

リアは何も言わなかった。

否定もしなかった。

光の噴水が、夜の中で静かに輝いていた。青白い光の粒が、上がって、弾けて、落ちていった。


宿に戻った。

部屋に入る前に、エルクは廊下の窓から塔を見た。

塔の先端が青白く光っていた。その地下で、門が脈を打っている。

消された名前がある。

五十年前の勇者がいた。

その人は門に触れて、変わった。

どこかにまだいる可能性がある。

エルクは窓から離れた。


一方その頃。

レグルス聖王国。

白銀の回廊を、一人の男が歩いていた。

白銀の法衣。赤い法冠。足音がなかった。廊下に人影はなかった。夜の王宮は静かだった。

ライディスが執務室の扉を開けた。


部下が一人、中で待っていた。

「報告を」

ライディスが椅子に座った。

「エルク・レインおよびリア・エ・アルヴェインは、昨日エルナトへの入国を確認しました。現在、賢者の塔へ頻繁に出入りしています」

「アルテフェインのところへ行ったか」

「はい。上位賢者との接触が確認されています」


ライディスは少し間を置いた。

「他に」

「エルナトに別の門が存在する可能性が——」

「わかっている」

ライディスが遮った。


部下が黙った。

ライディスは窓の外を見た。夜の空だった。星が出ていた。

「そうか」

口元が、かすかに動いた。

笑ったのかもしれなかった。そうでないのかもしれなかった。その表情に感情はなかった。計算があるだけだった。


「引き続き監視を続けろ」

「はい」

「それと——」

ライディスが部下を見た。


「エルナト内部への工作を始める。準備をしろ」

部下が一瞬、表情を動かした。

「エルナトへの工作、ですか」

「そうだ」

「エルナトは中立国です。工作が発覚すれば——」

「発覚しなければいい」

ライディスが平坦に言った。

「発覚しないようにやれ。それがお前たちの仕事だろう」


部下が頭を下げた。

「……承知しました」

扉が閉まった。

ライディスは一人になった。


執務机の上に、一枚の羊皮紙があった。ライディスはそれを手に取った。

文字が書かれていた。エルナト語だった。

ライディスは読んだ。


読み終えた。

羊皮紙を、炎の中に入れた。机の端に置かれた小さな魔導灯の炎だった。羊皮紙が燃えた。灰になった。

「同じ力だ」


ライディスは灰を見ながら言った。

「伝説の勇者と、同じ力だ」

灰が、崩れた。

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