勇者の記録 (1)
異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~
朝食の席で、アルテフェインが言った。
「今日は資料室へ行く」
それだけだった。説明はなかった。理由もなかった。アルテフェインはそう言ってから、スープを一口飲んで、席を立った。
ミレナンが慌てて残りのパンを口に詰め込んだ。
「待ってください先生、まだ——」
「遅い」
「食べる時間くらい——」
「歩きながら食べろ」
ミレナンがパンを抱えたまま立ち上がった。
シュウが「大変だな」と言った。
ミレナンが「慣れました」と言った。頬がパンで膨らんでいた。
リアがすでに立っていた。エルクも席を立った。
資料室は塔の二階にあった。
昨日入った研究室とも、観測装置の地下室とも違った。扉を開けた瞬間、空気が変わった。
古い紙の匂いだった。
それだけではなかった。木と、金属と、何か別のものが混ざっていた。長い時間が積み重なった場所の匂いだった。
部屋は縦長だった。天井が高かった。壁の両側に棚が並んでいた。棚には資料が詰まっていた。羊皮紙の束。金属板に刻まれた記録。魔導結晶に情報を封じたとおぼしき小さな球体。大きさも素材も形も違うものが、年代順に並んでいた。一番古いものは、棚の奥の奥に、ガラスケースに入って保管されていた。
部屋の奥まで続いていた。
どこまで続いているのか、入り口からは見えなかった。
「広いな」とシュウが言った。
「勇者召喚の記録だけで、この部屋の三分の一を占めている」
アルテフェインが言った。
エルクは棚を見た。羊皮紙の束の背表紙に、年代が刻まれていた。読める文字と読めない文字が混ざっていた。ミレナンが隣に来て、小声で教えた。
「一番古いのは、四百年以上前です」
「四百年」
「勇者召喚は、レグルスが始めたわけじゃないんです。もっと前から——いろんな国が、いろんな形でやっていた記録が残っています」
エルクは棚の年代を追った。
四百年前。三百年前。二百年前。百年前。五十年前。
途切れなかった。
四百年間、ずっと続いていた。
「全員、帰れなかったのか」
エルクは棚を見たまま言った。
アルテフェインが答えた。
「帰還の記録は、一件もない」
部屋が静かになった。
シュウが棚の前に立っていた。一つの羊皮紙の束を見ていた。取り出してはいなかった。ただ見ていた。その横顔が、いつもと少し違った。笑っていなかった。
アルテフェインが部屋の奥へ歩いた。
「こちらだ」
棚の列を三つ抜けた先に、少し広い空間があった。大きなテーブルが置かれていた。テーブルの上に、資料がすでに広げられていた。アルテフェインが事前に準備していたらしかった。
「勇者の記録を見せる」
アルテフェインが言った。「直近五十年分だ。それ以前は別の機会にする」
四人がテーブルを囲んだ。
資料は分厚かった。羊皮紙だけではなかった。金属板の記録もあった。魔導結晶に封じられた映像記録らしきものもあった。
「見ろ」
アルテフェインが一枚の羊皮紙を広げた。
表に数字が並んでいた。エルナト語だったが、ミレナンが読んだ。
「召喚数……百九十三名」
ミレナンの声が、少し低くなった。
「うち、戦死が——」
ミレナンが止まった。
「何人だ」とシュウが聞いた。
ミレナンが答えた。「百十二名」
「行方不明は」
「……四十七名」
「精神崩壊は」
「二十九名」
シュウが計算した。エルクも計算していた。
「帰還者は」
「ゼロ」
ミレナンが静かに言った。
テーブルの上の資料が、ただ紙になった気がした。百九十三という数字が、数字ではなくなった気がした。一人ずつ、名前があった。番号があった。召喚された日があった。死んだ日があった。
エルクは自分の番号を思い出した。
A-271。
自分の前に、二百七十人がいた。
その全員が、この部屋のどこかに記録されている。
「シュウ」とエルクが言った。
シュウは資料を見ていた。答えなかった。
「シュウ」
「……わかってる」シュウが言った。「わかってるよ」
笑わなかった。
いつもなら何か言う。冗談でも、軽口でも。でも今は何も言わなかった。
ただ、資料を見ていた。
しばらく、四人は資料を読んだ。
シュウが一枚の羊皮紙を手に取った。
「これ、なんて書いてあるんだ」
ミレナンが覗いた。
「えっと……勇者A-103の記録です。召喚時年齢、十七歳。固有スキル、《炎操作》。レグルスで三年間戦闘任務に従事。その後——」
ミレナンが一瞬止まった。
「消耗による廃棄」
シュウが羊皮紙を置いた。
「廃棄って書いてあるのか」
「……はい」
「人間の記録に、廃棄って書くのか」
誰も答えなかった。
アルテフェインが静かに言った。
「レグルスの記録はそう書く。使えなくなった道具の処理として記録する」
シュウが椅子に深く座り直した。腕を組んだ。天井を見た。
「俺、教師だったんだ」
誰も何も言わなかった。
「前の世界で。小学校の教師。子供に字を教えて、計算を教えて——そういう仕事してた。なんで覚えてんだろ、それだけはちゃんと」
シュウが天井から目を離した。
「子供が笑うのが好きだった。それだけは、はっきり覚えてる」
シュウはテーブルの上の資料を見た。
「A-103が十七歳だったなら、俺の前の世界だと高校生だ。三年間戦って、廃棄されたなら——二十歳だ」
ミレナンが何かを言いかけた。
言葉が出なかった。
「笑えないな」とシュウは言った。「さすがに笑えない」
アルテフェインが立ち上がった。
「別の棚を見せる」
部屋の奥へ歩いた。一番奥の棚の前で止まった。他の棚より古かった。木が黒ずんでいた。鍵がかかっていた。
アルテフェインが杖を棚に向けた。光が走った。鍵が開いた。
「禁書庫だ」アルテフェインが言った。「エルナトの最高評議会のみが閲覧を許可されている」
「なぜ見せてくれるんだ」とエルクが聞いた。
「お前たちが知る必要があるからだ」
それだけだった。
棚の中から、アルテフェインが一冊の記録を取り出した。他のものより厚かった。表紙に文字が刻まれていた。ミレナンが読んだ。
「……残響の継承者、記録」
エルクは前に出た。
アルテフェインがテーブルに記録を置いた。開いた。
最初のページに、番号ではなく名前が書かれていた。継承者の名前だった。それぞれに記録があった。発現年齢。能力の規模。最終記録。
全員の最終記録に、同じ言葉が書かれていた。
「制御不能」
そして。
「封印」または「消滅」。
エルクはページをめくった。
最後から二番目のページに来たとき、手が止まった。
そこだけ、記録の量が多かった。他の継承者より、何倍も詳しく書かれていた。
そして——名前の部分が、削り取られていた。




