三つ巴 (1)
『異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~』
誰も動かなかった。
ライディスの右手に凝縮された風の魔力が、空気を震わせている。追跡部隊の剣が、四方から三人へ向けられている。崖の手前。退路なし。
エルクは剣を握ったまま、ライディスを見た。
斜面の中腹に立つその人物は、急いでいなかった。急ぐ必要がないからだ。包囲は完成している。消耗した三人を相手に、このまま待てばいい。それをわかっている目だった。
「下ろせ」
ライディスが言った。
剣を、という意味だった。
誰も下ろさなかった。
ライディスは特に表情を変えなかった。
「無駄だと言っている」
「……知ってる」
エルクは答えた。
「それでも下ろせない」
「なぜだ」
「お前に捕まる気がないから」
ライディスは少し間を置いた。
「合理的ではないな」
「合理的な状況じゃない」
追跡部隊の包囲が、じりじりと縮まる。一歩。また一歩。剣の間合いが近づいてくる。
ライディスは右手を下ろした。
魔力が霧散する。
代わりに、一歩前へ出た。斜面を降りてくる。追跡部隊が自然に道を開ける。ライディスを中心に、部隊全体が再配置される。
その動きの統率が、恐ろしかった。
命令なく動く。呼吸を合わせるように動く。長い時間をかけて作られた信頼関係が、その動きに出ていた。
「A-271」
ライディスが近づきながら言う。
「お前に聞きたいことがある」
「答える義理はない」
「義理の話をしていない」
ライディスは三人の手前、十歩ほどの位置で止まった。
その目が、エルクを見た。値踏みするような目ではなかった。もっと別の——検証するような目だった。
「《残響》は今も動いているか」
エルクは答えなかった。
「動いているな」
ライディスは確認するように言った。
「この状況で、包囲の人間全員の状態を把握している。私の魔力の動きも読んでいる。違うか」
「……」
否定できなかった。
《残響》は今もノイズを拾い続けている。追跡部隊の緊張。ライディスの魔力の流れ。斜面の岩の記憶。山全体の古い戦場の残滓。それらが絶え間なく流れ込んでくる。制御しながら、必要な情報だけを拾おうとしている。
「やはりそうか」
ライディスは静かに言った。
「前回の継承者は、この段階まで保たなかった」
「前回?」
エルクは聞き返した。
ライディスは答えた。
「《残響》の器は過去にも複数存在した。だがすべて同じ末路を辿った」
「どんな末路だ」
「暴走。精神崩壊。自我の喪失。全部壊れた。」
平坦な声だった。
「《残響》は強すぎる。受け取る情報量が、人間の器の容量を超える。だから壊れる。それが正常な結果だ」
エルクは黙っていた。
「お前はまだ壊れていない」
ライディスの目が、細くなった。
「それが異常だと理解しているか」
「……理解している」
「ならば」
ライディスは一歩、また前へ出た。
「なおさら確保しなければならない」
「なぜだ」
「聞きたいか」
ライディスは少しの間、エルクを見た。
それから——話した。
「教えてやる、勇者召喚とは選別だ」
静かな声だった。
「価値ある器を探すためのな」
「器?」
「異世界人そのものに価値はない」
リアが、その言葉で息を詰めた。シュウの目が変わった。エルクは動かなかった。
「召喚された者のほとんどは凡庸だ。固有スキルも持たない。戦場で消耗して終わる。それは最初からわかっている。だが稀に——異世界の情報を、この世界へ定着させる能力を持つ器が現れる」
「固有スキルのことか」
「表面はそう見える。だが本質は違う」
ライディスは続けた。
「固有スキルとは、器に定着した異世界の情報が、個別の能力として発現したものだ。《レプリカ》も《残響》も、その発現の結果に過ぎない」
シュウが、自分の右手を見た。
「……俺の《レプリカ》も」
ライディスは視線をエルクへ戻した。
リアは大剣を下ろさず、いつでも動けるように構えている。
でも、動けない。四方を追跡部隊に囲まれ、眼前にはライディス。動いた瞬間に殺されると分かっていた。
ライディスは淡々と語る。なぜこんな情報を与えるのか。リアは疑問に思った。
「器の産物、その中で《残響》は別格だ。異世界の情報を受信するだけでなく、観測する。過去も。未来の可能性も。別の世界線も」
「別の世界線」
「残響は世界の外側を受信する」
ライディスはその言葉を、はっきりと言った。
「過去も未来も、別世界もな」
エルクの頭の中で、何かが繋がった。
死者の声だと思っていた。戦場の記憶だと思っていた。だがそれは——別の世界で起きたことの情報だったのか。別の世界線で死んだ者たちの記録が、この世界のエルクへ流れ込んでいたのか。
「だから最強の兵器だ」
ライディスは続けた。
「敵の動きを読む。戦況を予測する。別世界の戦闘技術を取り込む。《残響》が完全に制御できれば、魔王軍など問題ではない」
「……それが目的か」
「そうだ」
迷いがなかった。
「魔王を倒し、この世界に平和をもたらす。そのために《残響》は必要だ。お前がどう思おうと関係ない。残響は世界のために使われるべき力だ。たとえお前という器が——その過程で壊れるとしても」
「壊れるとしても、か」
「それが器の役割だ」
エルクは剣を握り直した。
怒りではなかった。
恐ろしいと思った。
この人間は、本気でそう信じている。世界のためという論理の中に、エルクという一人の人間が存在していない。番号で管理される勇者と同じように——ライディスの世界では、すべてが数字だった。
「断る」
エルクは言った。
「断れる立場ではない」
「断る」
もう一度、言った。
ライディスは表情を変えなかった。
「そうか」
右手が上がった。
「話して聞き入れるとは思っていない、私の意思と、貴様の置かれた立場の情報を与えた。」
追跡部隊が動き始めた。
「あとは力ずくで貴様を回収する。」
ーー現在分かっている情報ーー
器:異世界の情報・能力を、 この世界へ定着させるための“受け皿”。
器に定着した異世界情報が、 個別能力として発現する。




