宿の夜
ちょっぴりダークな異世界転生ファンタジー。
勇者は一人ではない。
番号を与えられ、量産され、戦場へ送られる世界。
“勇者A”と呼ばれた少年は、
モブのまま消えていくのか。
それとも・・・英雄になるのか。
『異世界ゆうしゃA ~亡国の残響~』
長老の家を辞したのは、夜が深まりかけた頃だった。
《ようこそ旅人の宿場町サーツクへ》
エルクは看板を目にした。
サーツクか。そういえば街の名前聞いてなかったな。
山五つ。
数ヶ月の道のり。
その言葉を頭に転がしながら歩いた。石畳の上に宿の灯りが落ちている。風は冷たいが、どこからか薪の燃える匂いが漂っていて、その温もりだけが夜気の中に溶けていた。
「……数ヶ月か」
シュウが呟く。
「長いな」
「長い」
「でもまあ、行くしかないよな」
「行くしかない」
「お前それ以外言わないの?」
「それ以外ない」
シュウが盛大にため息をついた。それでも足取りは重くなかった。文句を言いながらも前へ向く。それがシュウという人間だ、とエルクは思う。
雨燕亭の扉を押すと、温かい空気が溢れ出してきた。薪の爆ぜる音。暖炉の火だけが揺れている静かな食堂。昼間の喧騒が嘘のように、今は落ち着いていた。
「お帰り」
カウンターの奥から、店の主人が顔を出した。
昼間、三人が帰ってきた時に深々と頭を下げていた男だ。年の頃は五十前後。がっしりした体格で、日焼けした顔に人のよさそうな皺が刻まれている。昼間の興奮が落ち着いた今は、穏やかな顔をしていた。
「長老のとこ、行けたのかい?」
「ええ」
リアが答える。
「エルナトまでの道を聞いてきました」
「そうかい。遠いだろう、やっぱり」
「山を五つ、と言われました」
「……そりゃ大変だ」
店主は少し眉を下げた。心配しているような顔だった。
「まあ、今夜は風呂入ってゆっくりしな。この宿の自慢だからね、温泉は」
シュウの顔がぱっと輝いた。
「入ります」
温泉は宿の裏手にあった。
小さな浴場だが、源泉がそのまま引かれているらしく、湯の色がわずかに白濁している。硫黄の匂いが鼻をくすぐり、立ち込める湯気が全身を包んだ。
「……生き返る」
湯船に沈んだシュウが、天井へ向かって呟く。
「異邦喰いと戦った後に温泉はずるい。疲れが全部抜けてく」
「それが温泉というものだ」
「哲学的なこと言うな」
エルクは湯に背中を預けた。石造りの縁が少し硬い。だが全身の力が、重力に引かれるように下へ落ちていく。肩の張り。足の痛み。剣を握り続けた右手のこわばり。それが少しずつ、湯の中へ溶けていく。
《残響》も、今はおとなしかった。
戦場でも死者の濃い場所でもない。拾う記憶がない。聞こえる声がない。ただ温かい湯と、シュウの間延びした声と、湯気が天井に溜まっていく音だけがある。
久しぶりだった。
何かを考えるのをやめていい、と思える時間が。
「なあ、エルク」
シュウが湯の表面を指先で叩く。小さな波紋が広がって、消えた。
「今日、怖かった?」
「怖かった」
「俺も」
シュウはそれだけ言って、また天井を見上げた。
「でも、生き残ったな」
「生き残った」
「それでいいか」
「それでいい」
二人は少しの間、黙っていた。湯気が揺れる。暖かい。それだけで十分だった。
「ところで女湯はどっちかなぁ?」
エルクは聞こえないふりをした。
温泉から上がると、店主が食堂のテーブルに紅茶を用意してくれていた。
湯気の立つカップが三つ。素朴な陶器だったが、温かみのある色をしていた。
リアはすでに席についている。大剣をカウンターに預けて、両手でカップを包むように持っていた。いつもは手の届く場所に剣を置いておくのに。それだけ、今夜は気が緩んでいるらしい。
エルクは向かいに腰を下ろした。紅茶を一口飲む。ほんのり甘い。山の薬草でも混じっているのか、後味にかすかな草の香りが残った。
奥の厨房から、店主の妻らしき初老の女性が顔を出した。白いエプロンに、目尻に深い皺が寄る人のよさそうな顔をしている。
「口に合うかい? この辺の山草を混ぜてるんだよ。疲れに効くからね」
「美味しいです」
エルクが言うと、女将は嬉しそうに目を細めた。
「昔はこれ目当てに来る旅人もいたくらいでね」
「昔は、今と違ったんですか」
エルクが聞くと、女将の目に少し遠い光が浮かんだ。
「違ったねえ。温泉が有名でね、道が整備されてた頃は毎日お祭りみたいだった。宿屋もたくさんあってね。食堂、露店、土産物屋。にぎやかだったよ。朝から晩まで人が絶えなくてね」
「今は?」
「今はこの通り」
女将は静かな仕草で手を拭いた。
「魔物が山に出るようになってから、旅人が来なくなった。山道を避けるようにってお触れも出てね。そりゃそうだよ、命がかかってるんだから。でも……またいつかあの頃の賑わいが戻るといい、ってずっと思ってるよ」
諦めでも愚痴でもなかった。ただそう信じているような声だった。
エルクは紅茶をもう一口飲んだ。温かい。それだけで、少し胸が痛かった。
「戻りますよ」
シュウが言う。
「俺たちが異邦喰い倒したんで、また旅人来ますって」
「あんたたちが来てくれてよかった」
女将は笑った。目尻の皺がさらに深くなる。
「本当によかった」
女将が奥へ引っ込んで、食堂が静かになった。
薪が爆ぜる音だけが小さく響いている。シュウはすでに半分眠そうだった。瞼が重そうに揺れている。
「先に寝る」
「早い」
「美味い飯も食べたし、温泉とお茶のコンボは人間を眠らせる。自然の摂理だ」
シュウはそれだけ言って、足取り重く階段を上っていった。
残ったのはエルクとリアだった。
しばらく、何も言わなかった。
カップの中の紅茶が、少しずつ冷めていく。暖炉の火が揺れる。それ以外は静かだった。
「……レグルスも、昔は違ったのか」
エルクは言った。特に意図があったわけではない。女将の話を聞いて、なんとなく浮かんだ言葉だった。
リアは少しの間、テーブルの木目を見ていた。
「……私が子供の頃は、今より戦争色が薄かった」
静かな声だった。
「勇者召喚はあった。だが今ほどの数ではなかった。少なくとも、番号で呼ぶようなことはしていなかったと思う」
「変わったのはいつ?」
「魔王軍が大きくなるにつれて。前線が崩れて、損耗が増えるにつれて」
リアは指先でカップを包むように持った。
「気づいたら変わっていた。気づいた時には、もう誰も声を上げていなかった」
「……お前は声を上げようとしてるんだろ」
リアは答えなかった。
否定もしなかった。
それがエルクには、答えと同じだった。
「女将さんが言ってたな。またあの頃の賑わいが戻るといい、って」
「……そうだな」
リアは窓の外を見た。夜のサーツクは暗かった。街灯はなく、宿の窓から漏れる光だけが石畳を照らしている。遠くに山の稜線が黒く浮かんでいた。
「戻るといい」
リアはもう一度、小さく言った。
祈るような言葉だった。
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夜が明けた。
朝の空気は冷たく、澄んでいた。
部屋の小窓から、山の稜線が見える。昨夜は暗くて輪郭しか見えなかったが、今は朝の光の中にくっきりと浮かんでいた。あの向こうに山がまだ四つある。そのさらに向こうにエルナトがある。
階段を下りると、店主がすでに食堂に立っていた。女将が焼きたてのパンを包んでいる。
「道中食べな」
押しつけるように渡してくれた。
「ありがとうございます」
店主が戸口まで見送りに出てきた。
「本当に助かった。ありがとうよ」
昨夜と同じ言葉だったが、朝の光の中で聞くと、また少し重さが違った。
シュウが振り返る。
「また来ます。次は観光客として」
「待ってるよ。その頃には道も直ってるといいね」
店主は口元を緩めた。それで十分そうだった。
三人はサーツクの石畳を歩き、町の外れへ向かう。朝の霧がまだ低く漂っていた。背中に雨燕亭の温もりを感じながら、エルクは前を見た。
山道の入口が、霧の中に口を開けていた。
「行くか」
「行くしかないな」
リアは黙って前を向いた。
三人は山へ踏み込んでいった。
ーー現在分かっている情報ーー
旅人の宿場町サーツク
街道の宿場町、旅の途中で体を癒す。
レグルス領。




