第14話:「歌は歌わないのかい?」――言葉の壁と、ズキリと痛む胸
冒険者ギルドの夜は、今日もむせ返るような熱気とエール酒の匂いに包まれていた。
昼間の討伐を終え、泥と血にまみれた鎧を脱ぎ捨てた冒険者たちが、ジョッキを片手に大きな声で笑い合っている。
私はいつものように、酒場の片隅にある一段高くなった木箱のステージに腰を下ろしていた。
周囲の喧騒に負けないよう、少しだけ強めのストロークでギターを弾く。
ジャカジャカ、ジャーン。
明るくリズミカルなコード進行の曲だ。
私の手元を見つめながら、何人かの冒険者がジョッキでテーブルを叩いてリズムを取ってくれている。
言葉は通じなくても、音楽があればこの空間の一部になれる。
それが嬉しくて、私は自然と笑みを浮かべながら演奏を続けていた。
曲が終わり、アルペジオで静かに音を落としていく。
最後の和音がギルドの空気に溶けて消えると、わぁっ、と割れんばかりの拍手が湧き起こった。
「今日も最高だったぜ、お嬢ちゃん!」
「明日も魔物討伐、頑張れそうだ!」
チャリン、チャリンと、足元のギターケースに銀貨や銅貨が投げ込まれる。
私は立ち上がり、胸の前で両手を合わせて深く頭を下げた。
『ふむ。今日の演奏は少し荒削りだったが、この暑苦しい連中にはちょうど良かったかもしれんな』
足元で丸くなっていた黒猫が、大きな欠伸をしながら薄く目を開けた。
『さあ、今日の仕事は終わりだ人間。早く宿に帰って、俺に極上のマタタビを独り占めさせろ』
相変わらずの偉そうな口調に、私はクスッと笑って頷いた。
ギターをケースにしまおうとしゃがみ込んだ時、大きな足音がこちらに近づいてくるのが分かった。
「おう、お嬢ちゃん! 今日もいい音だったな!」
現れたのは、顔に大きな傷のある大柄な冒険者、ガルドさんだった。
彼の後ろには、いつものように厳つい顔をした常連の冒険者たちもぞろぞろとついてきている。
私は嬉しくなって、満面の笑みでペコリとお辞儀をした。
ガルドさんはニカッと白い歯を見せて笑うと、自分の喉を指差し、それから私の顔を見て、両手を口の前に当てて何かを叫ぶようなジェスチャーをした。
「……?」
私が首を傾げると、ガルドさんはもう少しゆっくりと、身振り手振りを交えて繰り返した。
「お嬢ちゃんのその楽器、本当にいい音なんだがよ。……歌は、歌わないのかい?」
言葉の意味は、完全には分からない。
けれど、彼が自分の喉を指差して、メロディを口ずさむような仕草をしたことで、何を言いたいのかは痛いほどに理解できてしまった。
『歌』だ。
私の演奏に合わせて、声を出して歌ってほしい、と言っているんだ。
その瞬間。
私の胸の奥が、冷たい刃物でえぐられたようにズキリと痛んだ。
――お前の声、なんか変。気持ち悪い。
――空気読めないの? 黙っててよ。
元の世界での、冷たい笑い声と、蔑むような視線。
教室の隅で息を潜め、誰にも言葉を届けられなくなったあの日の記憶が、黒い泥のように頭の中に溢れ出してくる。
「あ……」
喉の奥がヒュッと鳴って、空気がうまく吸えなくなった。
声を出そうとすると、喉がギュッと締め付けられて、透明な壁に阻まれたように言葉が奥でつっかえてしまう。
ガルドさんたちは、ただ純粋な興味と好意から聞いてくれただけだ。
私の音楽をもっと楽しみたい、もっと私のことを知りたいと思ってくれているからこその言葉だった。
それなのに、私は。
「……っ、ごめんなさい……」
掠れた空気が漏れるだけで、言葉にはならない。
私はギターケースを抱え込むようにして俯き、ギュッと目を閉じて首を横に振った。
震える手でギターのネックを握りしめる。
これがないと、私は誰とも繋がれない。これがないと、私はただの空っぽな人間になってしまう。
ギルドの空気が、ふっと静まり返るのを感じた。
「お、おい……どうしたんだ、お嬢ちゃん? 俺、なんか悪いこと言っちまったか?」
ガルドさんの慌てたような、困惑した声が頭の上から降ってくる。
違うの。ガルドさんは何も悪くない。
悪いのは、過去の傷から逃げて、いつまでも声を出せない臆病な私なんだ。
申し訳なさと情けなさで、視界が涙で滲んでいく。
その時だった。
『……おい貴様ら。俺の専属楽士を困らせるんじゃない』
低く、静かな、けれど底知れぬ威圧感を孕んだ声が響いた。
私の足元から、黒猫がゆっくりと立ち上がり、ガルドさんたちを見上げていた。
『こいつは今、この木箱の音だけで十分に気持ちを伝えているだろう。これ以上、何を求めるというのだ』
黒猫の琥珀色の瞳が、鋭く細められる。
ほんの少しだけ解放された伝説の魔獣としてのプレッシャーに、屈強な冒険者たちでさえ思わず息を呑んで後ずさった。
「い、いや、俺たちはただ……もっとお嬢ちゃんのことを知りたかっただけで……」
ガルドさんがタジタジになりながら言い訳をする。
黒猫はフンと鼻を鳴らし、それから私の方を見上げた。
『おい人間。下を向くな』
「……っ」
『お前は、この街の連中をお前の音色で癒やしてきた。それは誇るべきことだ。無理に鳴く必要なんてない。お前は、お前のペースで音を紡げばいいんだ』
その言葉は、ぶっきらぼうで偉そうだったけれど。
今の私にとっては、どんな優しい慰めよりも心に響いた。
「……」
私は袖口で乱暴に涙を拭い、顔を上げた。
そして、心配そうにこちらを見ているガルドさんたちに向かって、もう一度深く頭を下げた。
『ごめんなさい。今はまだ、歌えません』という気持ちを込めて。
「お、おう……悪かったな、無理に聞いちまって」
ガルドさんは大きな手で頭を掻きながら、申し訳なそうに眉を下げた。
「お嬢ちゃんの楽器だけでも、俺たちは十分に癒やされてるからよ。明日も、また聴かせてくれよな」
その不器用で温かい気遣いに、私は小さく頷いて、精一杯の笑顔を作った。
『よし、話は終わりだ。さあ人間、帰るぞ。俺の腹の虫が限界を訴えている』
黒猫が私のズボンの裾を軽く咥えて引っ張る。
私は慌ててギターケースの蓋を閉め、背中に背負った。
夜の冷たい空気が心地よい帰り道。
石畳を歩きながら、私はふと夜空を見上げた。
赤と青の二つの月が、優しく街を照らしている。
(いつか……)
声が出ない私を、そのまま受け入れてくれる優しい人たち。
そして、いつも守ってくれる不器用な相棒。
この人たちのために、いつか自分の本当の「声」で、感謝の気持ちを伝えられる日が来るのだろうか。
私は胸の奥のズキリとした痛みを抱えながら、小さく息を吐き出した。
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次回お楽しみに。




