第37話 お泊りの翌朝に
(なんだか寝にくい布団だな)
サトシは寝返りを打つ。
そこからか、ふわっとみそ汁の匂いがしてくる。
ゆっくり目を覚ますと、目の前に、大人の女性の寝顔があった。
(誰? まさか、俺は人妻とやっちまったのかぁぁぁぁー?!)
サトシは飛び起きて、自分がどこに寝ていたのかを思い出すために、部屋を見回した。
(桜井の家だ。ということは、この女性は桜井のお母さん? おいおいおいおいおい……)
サトシは、思わず自分の服装が乱れていないか確認した。
どうやら、過ちは犯していないっぽい。
ほっと一安心……している場合ではない。
受け持ちの生徒の家で、うっかり寝ている所に保護者が帰って来て、しかもその保護者がサトシの隣で寝ているのだ。
パニックにならないわけがない。
(とにかく、落ち着かなければ……、レイコ姉さんは? まさか、俺を置いて帰ったのか)
サトシはメガネがないことに気が付いた。
メガネを探して居間に行くと、台所に桜井が立って朝ご飯の支度をしていた。
「桜井、台所に立って大丈夫なのか? すまなかった。先生は、どうやら寝てしまったようだ」
「ん?」
売プロン姿の桜井は振り向いて、サトシにむかって微笑んだ。
「おはようございます、サトシ先生。あら、メガネが無くてもかっこいいですね。メガネはテーブルの上です。メガネしたまま寝てたから、わたしがそっとはずしておきました」
「そうか。ありがとう」
「朝ご飯できています。新聞はそこに。コーヒーを先に飲みますか?」
「ああ、じゃコーヒーを」
と、言いながらサトシはテーブルについた。
「違う! そうじゃない。教え子の家にお泊りしてしまったんだぞ。待て、落ち着け俺………、そうだ、桜井、体調の方はもう大丈夫なのか?」
「それ、さっきも聞きましたよ。もう、だいぶ楽になりました。大丈夫です」
「そうか、それはよかった」
と言いながら、桜井が差し出したコーヒーを受け取ると、ゆっくりと新聞に目を通した。
「コーヒーありがと………、違う! そうじゃない。どうもこの家にいると、俺はくつろいでしまう。教え子の家に泊ってしまったぁ! 俺はどうしたらいいんだ」
すると、桜井の母が目を覚まして、和室から這い出してきた。
「あのぅ、もうちょっと静かにしてくれない? お母さん、帰って来たのは夜中の3時だから」
「あ、お母さま! 誠に申し訳ございません。昨夜は、弟さんを寝かしつけている間にわたしが寝落ちしてしまいまして……」
「サトシ先生? あらやだ、何を謝っているんですか、先生ったら。わたしが、美柑をよろしくと頼んだんですもの、先生が娘を家まで送ってくれて当然じゃないですか。まあ、まあ、美柑だけじゃなく、アキラまで面倒見てくださったのね。大変だったでしょう?」
「大変だなんて、そんなことはありません。それよりも、わたしが寝ていて驚いたんじゃないですか?」
「そりゃあね、最初にこの部屋で寝ている先生を見た時は、正直言って驚きましたけど。
でも、あんまり気持ちよさそうに寝てらしたから、起こさずにそっとしておきました」
「本当に、申し訳ございません!」
サトシは桜井の母に土下座をして謝った。
「止してください。せっかくだからサトシ先生、朝ごはんでも食べて行ってくださいな」
「いえ、もうこれ以上、ご迷惑をかけるようなことは……」
サトシは桜井の母に、バッタのごとく何度も頭を床にこすりつけて平謝りし続けた。
「お母さん、もういいよ。サトシ先生も謝らなくていいから。はい、先生、これ」
桜井はサトシにお弁当箱を差し出した。
「お弁当まで作ったのか」
「迷惑なら置いて行っていいですよ」
「迷惑だなんて……」
保護者の見ている前で、余計なことはするなと弁当を突き返すことなどできるはずがない。
それどころか、サトシは桜井にお弁当を作ってもらって、内心嬉しくてしょうがなかった。
「ああ、これはこれはお手数をおかけしました。どうもありがとう」
桜井の母は、アキラを起こすために和室へと戻った。
桜井はというと、まるでサトシが家にいることが当たりまえのように、いつもどおり手際よく朝の配膳をしている。
「先生、もう出勤時間じゃないですか? よかったらみそ汁だけでもいかがですか?」
「ああ、みそ汁か、飲みたいな」
とかなんとか言いながら、結局みそ汁だけでは止められず、サトシは朝ご飯をペロリとご馳走になった。
「あ、ゴミ出ししなきゃ。今日は燃えるゴミの日だわ」
桜井はゴミ袋にゴミをまとめて、玄関までゴミ袋をひきずりながら持っていく。
「先生が出そうか?」
「ダメですよ。他のおばさんたちに先生の姿を見られちゃまずいでしょ」
「だけど、そんな重いものを持って大丈夫なのか?」
「うーーん、確かに手伝ってもらいたいけど……。じゃあ、こうしよ。誰かに見つかったら、お母さんのお客さんのふりをしてください」
「お客さんのふりだな、わかった。ゴミ置き場の場所を教えてくれ」
サトシと桜井は、町内のゴミ置き場までゴミを持って一緒に歩いた。
ゴミ置き場にゴミを出していると、危険予測通りに、近所のおばさんが現れた。
「おはよう、美柑ちゃん。いつも偉いわねー。あら、この方は?」
「おはようございます。あ、母のお客さんです」
「あら、美柑ちゃんのお母さんったら、また新しい彼氏ができたの? 美柑ちゃんも大変ねえ」
「あ、おはようございます。どうも、新しい彼氏です……美柑ちゃんのお母さんの」
サトシは、桜井のことを初めて下の名前で呼んだ。
しかも、ちゃん付けで。
呼び慣れない呼び方と、本性を隠している罪悪感で胸がドキドキしていた。
「おはようございます。あら、お若いのに、しっかりした方ね……。美柑ちゃんはとてもいい娘さんなのよ。お母さんはお忙しい方でしょ。家の事はほとんど美柑ちゃんがやっていてね。お母さんと再婚してくださる方が、早くできたらいいのにって……」
近所のおばさんの話とは、世間一般的に長くなると相場は決まっている。
桜井はサトシをおばさんのお喋り攻撃から守ろうと、小声で言った。
「このおばさんに捕まると、話が長いから早く逃げてください」
「だって、アパートにカバンが……」
「ええ! カバンを持って出なかったの?」
桜井は渾身の演技で、攻撃をかわすことにした。
「やだー、お母さんに叱られるから早く戻ろうよ、おじさん!」
桜井はサトシを無理やりアパートの玄関まで引っ張って戻った。
そして、家の中に入るなりサトシを怒った。
「先生、演技が下手すぎ!」
「桜井だって、おじさんはないだろう。おじさんは!」
「だってさ、わざわざ新しい彼氏ですなんて挨拶するお客さんって、変じゃないですか。あのままだとバレちゃうところでしたよ」
サトシは桜井におじさんと呼ばれたのは二回目だった。
そう、初めて桜井と会った時も、サトシはおじさんと呼ばれたのだ。
「わかった、わかった。では、おじさん先生は、そろそろ出勤します」
「はい、カバンとお弁当ね。行ってらっしゃい」
「ん、ありがとう。行ってきます。って、何なんだ! この自然な流れは」
そう言いながら、行ってらっしゃいと言われてお弁当を渡されて、悪い気がしない。
サトシは、戸惑いながらも桜井に送り出されて、アパートを出た。
(確か……俺は昨夜、桜井の告白を断ったはず。それなのに、どうしてこんな流れになっているんだ? 桜井の家にいると、どうも自然にこうなってしまうんだなぁ。レイコ姉さんに電話して、どうして起こしてくれなかったのかと問い詰めないと……)
そんなことを考えながら、サトシは学校に向かって歩いていた。
(もしかして、これはレイコ姉さんの作戦だったりして)
桜井の家に勢いで上がり込んで、眠ったサトシを起こさずにそのまま置いて帰った姉。
この一連の流れは、姉の作戦かもしれないと思いながら、それでもなぜか姉を責める気がしない。
そして、渡されたお弁当を見るたびに、つい口元が緩んでしまう。
それに、さっきまで近所のおばさんの前で必死に演技していたことを思い出すと、サトシは可笑しくてしょうがない。
「美柑ちゃん……か」
(桜井のことを、いくら演技とはいえ美柑ちゃんと呼んでしまった。ダメだ。早く先生モードに切り替えなければ……。自分の教え子なんだぞ……)
サトシの中で、教職に忠実であろうとする自分と、桜井と一緒にいても悪くないなと思う自分がせめぎ合っていた。




