第36話 川の字で寝るまで
アパートに着いて桜井は玄関のドアを開けた。
開けたとたんに、待っていましたとばかりに弟のアキラが子犬のように飛びついてきた。
「美柑! 遅いよー。腹減ったぞー」
「ただいま。遅くなってごめーん」
「アキラくん、お姉さんは具合が悪いんだから……」
サトシは、桜井に飛びついてきたアキラをなだめながら言った。
桜井の後ろにサトシがいるとわかると、アキラは喜んでサトシにも飛びついた。
「おじさーん、おじさんも遅いよ。電話くれてからずっと待ってたんだよー」
姉はその様子を見て、桜井に抱き着くアキラはサトシに懐いていることがわかった。
「あら、本当に子犬みたいにかわいい弟さんね!」
アキラは、桜井の他にサトシ先生と知らない女性が立っているのに気が付くと、サトシにしがみついたままで言った。
「うわ! 誰? 美人さん……」
「あらいやだ、美人さんだなんて……、正直ないい子ね。わたしは、サトシ先生のお姉さんでーす」
「すっげ! 美人。ってか、なんだかハンバーガーの匂いがする」
サトシはアキラの嗅覚の良さに驚いた。
(この子の前世は、やはり犬だったかもしれない……それにしても、何度会ってもアキラくんってかわいい子だな)
サトシはアキラの目線まで体を低くして話し始めた。
「この美人な姉さんが、アキラくんのためにハンバーガーを買ってきてくれたんだよ。
今日はひとりでよく頑張ったね。これは、そのご褒美だ」
「やったー!」
「サトシ、言っとくけどワリカンだからね」
姉は、しっかり伝えるべきことは伝える。
「それにしても、アキラくんってサトシの小さい頃に似ているわ」
「え、俺はこんなに可愛くなかったぞ」
「小さい頃は、それなりに可愛かったんだけどねぇ。それが、どこでどう間違えたのか……」
そんな会話が繰り広げられている間、桜井は玄関にずっと立っていられなくて、思わず座り込んだ。
「う、痛っ……」
「おい桜井、大丈夫か? アキラくん、お姉さんを寝かせてあげないと……」
「わかった。じゃ、布団敷かなきゃな。おじさん、押入れから布団を出すのを手伝って」
「布団? そうか、ベッドじゃなく布団か」
「そこは、この美人なお姉さんにまかせなさい!」
サトシの姉は、靴を脱いで家の中に遠慮なく入って、テキパキと行動し始めた。
「サトシは、桜井さんを運んでちょうだい。アキラくん、押入れはどこ? この美人なお姉さんが布団を敷いてあげます!」
「うわーい、助かる! こっち、こっちだよ」
アキラに先導されて、姉はせまいアパート部屋の奥まで入って行った。
和室の押入れを開けて、布団を敷き始めている声が玄関にいるサトシにまで聞こえてくる。
アキラが「これが、美柑の枕だよ」などと姉に教えている間、サトシは玄関で桜井を支えているしかなかった。
痛みに耐えながら、桜井はサトシに申し訳なさそうにしていた。
「先生、帰ってください。こんな狭い家で……」
「何を今さら、この家のことはもう知っているから」
「でも、アキラが駄々をこねる前に帰ってください。あの子しつこいから先生を困らせちゃう」
「そんなこと言ったって、レイコ姉さんをここへ置いたまま帰れないだろ。桜井、今は遠慮するな。余計な心配するんじゃない」
桜井を布団に寝かせると、サトシは帰ろうとした。
だが、引き留められた。
サトシを引き留めたのは、桜井でもアキラでもなく、姉だった。
「アキラくんがひとりでご飯なんて可哀そうじゃない。そんな鬼みたいなこと、わたし出来ないわ」
「いやいや、桜井がいるだろ。レイコ姉さん、帰るぞ」
「だって、桜井さんは具合が悪くて横になっているのよ。こんな状況を見て見ぬふりなんて無理。ここでわたしたちも一緒に食べましょうよ、サトシ。ハンバーガーだって、温かいうちに食べたほうがおいしいわ」
「ここで? 一緒に?! いや、帰るべきだと思う」
サトシは姉の提案をきっぱりと却下した。
ところが、アキラがレイコ姉さんのことを気に入った様子で、その提案に飛びついた。
「いいね! そのアイディア、採用! ふーん、レイコ姉さんという名前かぁ。美人なお姉さんにぴったりな名前だね」
「ま、アキラくんったら、口説くのがお上手」
「僕は、おじさんとレイコ姉さんと一緒に食べたい! ねえ、そうしようよ。おじさん!」
「何で、俺だけおじさんなんだ。サトシお兄さんにはならないのかよ。もう、しょうがないなぁ。食べたら帰るからね」
「やったー!」
“食べたら” までは聞こえたが、“帰るからね”はアキラの耳に確実に届いていない。
それでも、サトシ姉弟は天真爛漫で無邪気なアキラの喜びように、今さら帰るとは言えない状況になった。
桜井を布団に寝かせたまま、サトシはアキラと一緒にハンバーガーを食べながら、ふと思った。
(とても、へんな絵面だと我ながら思う。
生徒を寝かせて、教師が生徒の弟と自分の姉と一緒に食事をしている。これは法的に何も問題はないが……、保護者の方がいらっしゃらないのに、勝手に家に上がり込んでいいのだろうか。ってか、勝手に上がり込んだのは、これで二回目だな。すみません、桜井の親御さん)
サトシの後ろには和室があって、そこで桜井は布団に横になっていた。
(桜井こそお腹がすいているんじゃないか? 声をかけたら、また同情だとか何とか言って怒り出すだろうか)
姉とアキラくんは、小学校の話で盛り上がっている。
何の教科が好きとか、給食はどうとか、他愛のない話である。
サトシは、桜井が気になって後ろを振り向いた。
「桜井、お腹が空いてないか? 少しでも食べられないか?」
「ううーーん、無理かも」
「そうか、俺は食べたら帰るからな。後で元気になったら温め直して食べろよ」
「はい。でも先生? いつもの先生モードじゃないんだけど、いいんですか?」
「今は引き続き、絶賛特別大サービス実施中だ」
桜井はそれを聞いて笑った。
サトシにとって、今日見た桜井の笑顔は二回目だった。
その笑顔を見てサトシはホッとした。
(俺に断られてショックで立ち直れないかと心配したが、笑ってくれた。とりあえず、よかった)
しばらくすると、今度はアキラが眠くなったから布団を敷いてと言い始めた。
「僕の布団は、美柑の隣に敷いて」
「しょうがないなあ。じゃあ、おじさんが布団を敷いてあげるよ。レイコ姉さん、ちょっと待ってってもらえる?」
「いいわよ、待っている間にテレビつけて観てもいい? 今話題のドラマがちょうどやってて、見逃せないのよ」
「ああ、いいよね、アキラくん」
アキラくんは眠い目をこすりながら頷いた。
「すぐアキラくんを寝かすから……待っていてくれ」
アキラの布団を敷いて、寝かそうとするとアキラは言った。
「おじさん、何かお話して」
「お話? おじさんはそういうのは苦手だな」
「こら、アキラ。サトシ先生を困らせるんじゃないの。先生はもう帰るんだから」
「嫌だ! おじさんのお話を聞きたい。美柑だってお話を聞いた方が寝られるだろ」
「バカ、姉ちゃんは高校生なんだから、お話くらいで寝られるわけないでしょ」
「嘘だねー。言っていたじゃん。英語の授業中は、英語を聞いているだけで眠くなるって」
「げっ! アキラ、あんた余計なことを……」
「そうなのか、桜井。それは心外だな、俺の授業はそんなにつまらないか」
「そうじゃありません。先生の音読を聞いていると夢見心地になるという意味です」
「そうか。眠くなるわけじゃないんだな」
すると、アキラが提案した。
「じゃあ、やってみようよ。僕もおじさんの英語で眠くなるのか試したい。英語の教科書を読んでみて」
「ああ、いいだろう。桜井、カバンを開けて英語の教科書を取るぞ。いいか?」
「こちらこそ、いいんですか? 先生のイケボ音読を聞いても」
「当たり前だ。夏期講習のつもりでイケボのイングリッシュ、リスニングの練習だ!さてと、教科書のどの長文を読もうか……」
サトシは英語の長文を音読し始めた。
(アキラくんには分からないかもしれないが)
サトシは自信たっぷりに音読を続けた。
音読を初めて三分もたたないうちに、桜井は寝息をたてはじめた。
(なんだ、桜井。お前、本当に寝ているじゃないか。イケボで夢見心地ってマジで寝る意味か)
「おじさん、ビコーズの次は何?」
「え? アキラくん、まだ聞いていたのか、英語わからないのに?」
「小学校でも英語の授業があるんだよ。聞くのはなんとなくわかる。気になるよビコーズの次」
「おお、わかった」
アキラにせがまれて、サトシは英語の音読を続けた。
そのころ、姉はテレビドラマについ夢中になっていた。
ドラマを最後まで見終わったところで、和室が静かになっていることに、姉は気が付いた。
「サトシ―、帰るよー」
和室を覗くと、桜井、アキラくん、サトシ、三人が気持ちよさそうに眠っていた。
「何これ、まるで川の字じゃない」
姉はあきれながら、サトシに毛布をかけてやった。
サトシも今日は一日、いろいろとあって疲れたのだろう。
弟思いの姉は、マックのゴミを片付け、サトシをそのままにして、そっと桜井の家を出た。




