3-8 皇帝の裁定
「俺の騎士に気色悪いことをしてくれるなよ」
冷静だが怒気を孕んだ声が聞こえ、ビリーは後ろに強く引き寄せられた。落ち着く温かさに包まれる。
後ろから覆いかぶさるようにアズールに抱きしめられていた。ジーンから受けた嫌な感触が、穏やかな体温によってすべて上書きされていく気がする。アズールの癒しの手には精神にも干渉する力があるのかもしれない。
ジーンは喉をさすり、苦々しい顔をした。目玉だけを動かしてアズールを見遣る。
アズールは以前にも見せた、冷ややかで厳しい皇帝としての空気をまとう。
「らしくないな、ジーン・フリン。まさかこんな簡単に尻尾を出してくれるとは。腹に据えかねることでもあったのか」
「いつもと変わらず雑事に追われる日々ですよ。耳の長いお方が帝位についたおかげで性質の悪い輩が我が物顔で帝都を闊歩するようになったので。ドロップイヤーは獣人族の中でもさらに下等と蔑まれるだけのことはありますね」
ジーンは自分の耳たぶを引っぱってみせた。アズールに対する叛意を隠そうともしない。
(ジーンは何を考えているんだ。自分が罪に問われないとでも思っているのか。……それにしてもあいつの顔むかつく)
すかしたジーンの顔面に靴底をめり込ませたい。そう思えど、アズールに抱きすくめられているため叶わない。
「アズール様、そろそろ放していただけませんか」
ビリーは声を潜めてお願いする。
「放せばジーン・フリンに手を出すだろう」
「手ではなく足を出します」
「意外と血の気が多いな。おとなしく抱かれていろ」
アズールはため息を漏らし、視線をジーンの方へと戻した。
「お前の舌こそ長すぎて無駄に回るようだな。聞いてもいないのにぺらぺらと気持ちよく喋ってくれたおかげで充分な言質は取れた。証人もいる。その様子では余罪も山ほどあるのだろう。執政官《父親》に泣きつく準備はいいか」
湖水の瞳に凍てついた光が宿る。
「アズール・アーリム・アッルーシュ・アルカダルの名において、帝国騎士団副団長ジーン・フリン、お前を査問会にかける」
アズールは皇帝として朗々と宣告した。
「この期におよんで、俺を『他人の空似だ』などとは言うまいな」
「……皇帝陛下の名を騙ることはそれだけで重罪です。ご本人でなければ、とんでもないペテン師でしょう」
ジーンは息を吐きだし、大仰に肩をすくめてみせる。
諦めたような雰囲気を出しているが、瞳の奥が暗く揺れるのがビリーには見えた――気がした。
「拘束はしない。謹慎し、沙汰を待て」
「ご厚情をたまわり、感謝申しあげます」
ジーンは白々しく最敬礼をする。
「最後に一つ、聞きたいことがある」
背を向けたジーンに、アズールは投げかけた。
「四年前、お前はあそこで何をしていた」
ジーンはばっと音がするほどの勢いで振り返り、化物でも見たかのように目を見開く。
「心当たりのある顔だな」
ビリーを抱くアズールの手に力がこもった。
わけがわからずビリーはアズールの顔を見上げる。
「もしも俺の推測が当たっているのなら、お前のことを決して許しはしない」
プリムと相対していた時よりもさらに鋭利な声と視線だった。それだけで人を殺せそうな気さえする。
「ちがう。俺だけが悪いんじゃない」
ジーンは笑みになり損ねたものを口元に浮かべ、もつれる足で夜闇の中へと溶けていった。
(ジーンのやつ、どれだけやらかしてるんだろう。皇帝暗殺の件も自白してくれると話が早いんだけど)
そんな楽観的なことを考えながら、ビリーはジーンの消えた方向を見続けた。不規則な足音が完全に聞こえなくなるまで警戒は解かない。
「……蹴る相手ももういないので、いい加減放してください」
ジーンがいなくなってから遅れること十数秒、ビリーは仕方なく自ら申し出た。
アズールはまだビリーのことを抱きしめたままでいる。アズールから自発的に離れてくれるのを待ったが、一向にその時が訪れない。
「うん」
アズールは弱々しく頷き、ビリーの後頭部に額を押し当てた。
「もう少し、このままで」
ゆらぎのある声だった。聞いていると不安になる。
「ジーンとの間に何があったんですか」
答えないだろう、と思いながらビリーは尋ねた。
「直接、何かあったというわけではない」
それ以上アズールの言葉は続かなかった。
ビリーはアズールの手に自分のそれを重ねた。被毛の一部が血で固まっている。
まさか怪我をしたのかと血の気が引いたが、すぐに原因に思い当たった。ジーンに斬られた男の姿がない。彼の傷を癒した際に付着したものだろう。
(……あれは?)
路地の奥で一瞬何か光ったように見えた。袋小路の方向だ。
ならず者たちと交戦してから時間が経っている。彼らが意識を取り戻していてもおかしくない。
「アズール様――」
いったんここを離れましょう。
そう言ったつもりだった。
ひゅっ! と軽い何かが風を切る音が聞こえる。
ビリーは反射的にアズールの身体を突き飛ばした。糸のような細いきらめきが二人の間を絶つ。
ビリーは迷わず抜刀し、そのまま下から斜め上へと斬り上げた。刃が硬質な何かをはじく音がする。
腕に刺しぬかれたような鋭い痛みが走った。手のひらほどの長さの針が深々と刺さっている。路地の奥で光ったものの正体はおそらくこれだろう。
無造作に針を引き抜く。血と、嗅ぎ覚えのある甘い匂いが鼻をついた。肉をえぐる痛みに心臓のあたりがさっと冷える。
針の先端にはギザギザの返しが付いていた。こういった形状の暗器は、毒が用いられていることが多い。
視界が二重写しになり、ビリーは己の散漫さを後悔した。
襲撃者の中に一人だけ、ならず者らしからぬ妙に姿勢の良い男がいるのはわかっていた。侮らずにもっと注意を払っておくべきだった。アズールに遠慮などせず、奴らの衣服を剥いで縛りあげるべきだった。
ビリーは獣の咆哮のような声をあげ、前方へと駆ける。あの男だけは始末しておかないとアズールに危険がおよぶ。
男は思ったよりも近くにいた。ビリーが向かってくるのは予想外だったのか、進退に迷って身体を硬直させている。
一本の槍のように腕と剣を突き出した途端、ビリーの目の前で帳が下りた。夜の闇とは違う漆黒で何も見えなくなる。剣の切っ先が肉に刺さる感覚だけはあった。
逃げてください、アズール様。
発したはずの言葉は、漆黒の中に溶けていった。
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