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君の景色を語れるくらい抱きしめ合ったのに、愛の部品が足らなかったのだろう。結果、こんな真夜中に、自分でも訳の分からない行動を取るはめになっているのだ。カンタはとりあえず、と考えた。家を出ていなかければならないだろう。二人をたたき起こして家から追い出すなんて度胸はカンタにはなかった。妻と自分、どちらかが出ていかなければならないとしたら自分だった。だが、そのためには着替えの服をとりにまた寝室へ戻らなければならない。先ほどぶちまけた洗濯物でも良かったが、折角畳んでしまったのだ、カンタの体臭の染みこんだ服はここに置いていこう。これくらいなら後を濁すことにはならないだろう。そうと決まれば、カンタは抜き足差し足忍び足で寝室の扉の前まで戻り、そっとドアノブを掴んだ。扉の向こうの二人の安眠ぷりを考えれば、こんな配慮は無用の長物なのかもしれないが、先ほどの寒風で頭は冷え、せめて、今は、無駄な争いはしたくないと考えらえるくらいには冷静になっていた。扉を開けると、ムッとした空気がカンタを襲い、思わず寒暖差(か先ほど飲んだビールの酔いのせい)で頭がクラクラする。おうおう、相変わらず健やかに寝てやがる、とカンタが唾棄した。こちらがどんな思いでいるか、こいつらには思いもよらないのだ。クソったれ、と苦々しく思っていると、妻の隣に寝ていた愛人がむくりと起き上がり、カンタと目が合った。カンタは息を飲み頭が真っ白になった。それは相手も同じだったようで、お互いがお互いの状況を理解できず、静かなパニックに襲われたのだ。妻をはさんで、上半身素っ裸の愛人と、一見泥棒紛いの寝取られ男が、サイドテーブルの明かりをたよりに対峙していた。妻の規則正しい寝息だけが寝室を支配し、時よ止まれ、お前は美しい、とカンタがなんとなく心の中で唱えると、愛人は口を開いて何かを言おうとした。カンタは咄嗟に中指(人差し指だったかな?)を口の前に立て、静かにしろとジェスチャーをした。どうやら相手には通じたようで、愛人は黙って頷いた。これで一安心である。カンタは自分とクローゼットを交互に指さし、着替える動作をした。何の反応もない所は同意の印だと勝手にカンタは解釈し、クローゼットから必要なものを手にとっては戻し、また手に持ってはクローゼットに戻し、一つ一つ吟味していく。いや、正確には吟味するふりをする。今の自分には、何が必要で何が必要でないか分からないのだ。例えば大事に着ているこの妻の手編みのセーターを持っていくべきなのか否か、それすら分からない。