10
ああ、思えばこのセーターを編んでいた妻は可愛かった。食後テレビを見ながら編み棒を動かしている妻の姿に心ときめき、誰のを編んでいるんだい、と答えなんて分かりきっているのにあえて尋ねて好い気になっていたころがピークであった。妻も妻でわざとらしくはぐらかし、それがまたカンタの自尊心をくすぐった。だから君の顔を見つめたよ、だから君の顔を見つめたよ、どんなに君の瞳が僕を疑っても、僕はこの瞳で嘘をつく、なんて調子乗って心の中で歌ったものだが、その瞳で嘘をつかれていたのは、カンタの方であった。あの子の事をいえなかったのは妻の方で、あの子の影を見せなかったのは妻だったのである。キッと振り返り、呆然と自分の所作を見ている愛人に中指の一つでも立ててやりたい衝動に駆られたが、それではあまりにも情けない。思わず力の入ってしまった手を離し、伸びてしまうとセーターを畳んだ。やっぱりこれは持っていこう。自分にとっては大事なものなのだ。幸せだった生活の欠片なのだから。推理小説を最後から、めくれるような筈はないが、もしそんな事が出来ていたのなら、自分たちは違う結果になっていたのだろうか? 分からなかった。しかし一つの結末がカンタの前に提示されてしまったのだ。自分はこの先妻を愛せるだろうか、とカンタは目を閉じた。妻の不貞を知った後まで変わらずにいられるだろうか? しかし考えてみても瞼の裏に浮かぶのは、新婚当時の妻の笑顔で、どれもとても輝いていた。こんな子が、たかだか数年後に自分を裏切って他の男の腕に抱かれているのだ。最後からページをめくったところで、こんなことが信じられるだろうか? ああ、とカンタはものの哀れを思った。カンタにあんな無邪気な笑顔を浮かべていた子が、今やこんなことになるんなんて……とりあえず誰かに文句を言いたい気分だったが、いったい誰に言えばいいのだろう? 神様か、お釈迦様か、それとも現実的にこの二人か? 多分この二人に文句をつけるのが筋なのだろう。が、悲しいかな、カンタはそれでも妻を愛していた。こんな痴態を前にしても、妻への愛は燃え続けていた。そんな……あんまりだよ、こんなのってないよ。妻が好きだったアニメの台詞を呟いてみて、本当にあんまりすぎる現実にカンタはげんなりした。どうなってるんだ、やっぱりこのセーターもいらないのではないか、捨て置いてこの場を立ち去ろうか。だが、やっぱりカンタの心はこのセーターを求めていた。どんな状況になったって、これは、妻が手間暇かけて編んでくれたセーターなのだ。見よ、この見事なニコちゃんマークを。多少左にズレているとはいえ、これを編むにはさぞ大変だったであろう。




