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そんな日常を、あなたは想像できる? 出来ない、とカンタはいった。僕の想像力なんてミジンコレベルのもんだ。なんたって、数時間前まで妻の浮気の可能性すら頭の片隅にも浮かばなかったんだから。しかしそんなことはどうでもいいとして、君は何が言いたいんだい? 僕には分からないよ。人は常に選ばなければならない、とエアードールはいった。あなたは選ばなければならない、私を手放すか手放さないか。おれの手、このほんのわずかな距離が事物をおれに掲示し、永遠にそれから引き離している、とマロニエの下でサルトルはいった。おれは何も持っていない。光と同じくらいに、世界と密接につながっているが、それでも光と同じように、そこから追放され、石や水の表面を滑っていく。もう黙っていてくれ! とカンタ叫んだ。眼を閉じたって、耳をふさいだって、生はあなたを捉えてやまない、空気嫁はぽつりとつぶやいた。分別のつく十代に達した者ならば、誰でも疑い始めるものだ。人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇の底で花を開き、実を結ぶのではないのかと、とヘンリー・ジェームスが息子に手紙を書きながらいった。夜のみだらな鳥が飛んできてカンタの肩にとまった。その、夜鳴き鳥に似た鳴き声をもつ鳥はカンタの耳元でうるさいほどに囀った。四十人の老婆も、奇形の楽園も、醜悪な幼児退行者も、すべては過ぎ去る運命だ。カンタは頭を振って鳥を追い払った。そういう見方は、自分の弱さを甘やかし、正当化するだけのもんだ……狐狸庵先生は死海のほとりでなじられている。豹は深い森の中を走っている。すでに皇居のお濠も、冬枯れした桜も、どこにも見当たらなかった。息苦しいほどの枝がカンタのを頭上を幾重にも覆い、その深い闇の中を豹は口角泡をとばして疾走していた。正路(そんなものが最初からあったのであれば)は失われていた。情事の終わり、堕ちた偶像は、第三の男によって、喜劇役者に任命され、事件の核心にせまる、と空気な何かがいった。キャプテンの敵は第十の男に密使を送り、権力と栄光を確かにせんと内なる私が言葉をあぐね、負けた者がみな貰うと何かのドールが言葉を継いだ。五月蠅い! とカンタは叫んだ。五月蠅い、もう喋るな! 何もかもが無意味だ! 何が千夜一夜だ、何がバーラタ族だ! 何もかもが無意味だ、一千一秒の枠の中で切り取られる人生なんてもうまっぴらだ! なにがポスモダだ、なにが不条理だ、なにがマジックリアリズムだ、そんなものなんて単なる金稼ぎの道具じゃないか! 何も与えてくれない文字の羅列になんの意味があるんだ! カテゴライズのカテゴライズのカテゴライズのカテゴライズ……無限に続く合わせ鏡の幻想にいかほどの価値があるのか。もう結構だ! 俺がこんな状況になっているのに誰も助けてくれない! 勝手に期待をし、勝手に裏切られ、勝手に逆恨みをする、それこそ人間の醜悪の極地なのでは、と空気的な何かが言った。責任の放棄だ! だぁ! あ! a! 誰が勝ち誇って他人を裁けるののだろう、と遠藤周作はいった。哀れな想像力は仮足の限界より彼方へ一センチたりとも行くことができないものだ、とカメラを首にかけたコルタサルは硝子越しに猫と遊びながらいった。人間も、とヘンリ・マイルズは聞きたくもない話を聞いてい。あなたは盛り場で歪つに映る鏡をご存じでしょう。その中に彼自身の美しく強く正しい姿をみるのです。結局のところ、とカフカはいった。僕らははそれほど失ってはいない。結構だ、失っていようがいなかろうが自分というものはここにいて、苦しみはいつまでもついてまわってくるじゃないか! 無責任な観測者は、いつかその報いを受ける、と絹と明察のスリングショットがいった。あなたは選ばなければならない、とエアー的空気的=嫁的なパチンコが呟いた。凡庸さの奇妙な点は、とドライデンがいった。紆余曲折を経て別の凡庸さにたどり着くところにあります。豹がか細い遠吠えをあげた。それに含まれるなんとも言えぬ悲しみがカンタの胸を打った。だからといって……とカンタは言いよどんだ。俺にどうしろってんだ。カンタはカツラをかぶった空気嫁の頭を撫でた。その時、探して……わたくしを見つけて……風の中で戯れる言葉が確かにカンタには聞こえた。彼女の声はカンタの心を震わせた。そうか……とカンタは何かが分かった気がした。彼女は自分にとってのベアトリーチェでもなければ、ペネロペイアでもない、下手をすればモリーですらないのかもしれない。でもそれでいいのだ。それでよかったのだ。空気嫁は何も言わなかった。肩から垂れた水着と、カツラが風に揺れていた。カンタはコートを脱ぐと、振り落とされないようそれで豹の首に空気嫁をしばりつけた。空気嫁はもう何も言わなかった。肩から垂れた水着と、カツラが風に揺れていた。選ぼう、選択しよう、自分がしなくてはならないのは、これだ、とカンタは不安定な豹の背中から魑魅魍魎へと向き直ると、大きく深呼吸した。行ってくるよ、とカンタは残すと、有象無象渦巻く魑魅魍魎の中へダイブした。
誰かが自分を揺すっていた。
うっとうしいなと思いながらカンタが目を開けると、シュウサクがいた。
「死んでないですよね!」
シュウサクが叫んでいた。
唾が飛ぶとカンタがシュウサクを突き飛ばすと、肩に積もった雪がさらさらと音をたてて流れ落ちた。
カンタはあたりを見回した。見覚えのない建物の階段に座っていた。
「ここはどこだ?」
カンタはいった。
「うちのマンションの前っすよ」とシュウサクはいった。「カンタさんから電話があったと思ったら突然わけのわからないことを言いだすし、そうかと思ったら勝手に切れて、折り返してみたら通じないでしょ? それでご自宅に電話をかけてみたらいきなり奥さんは泣き出すし、もう何がなんだかですよ。それで方々探し回った挙句にカンタさんはこんなところにいるし……」
シュウサクの後ろには妻がいた。心配そうに胸の前で両手を組んでいた。
何かをまくし立てているシュウサクを横に、ここから始めなくてはならないのか、とカンタは思った。何も終わらなければ、何も始まっていない。
これを徒労感とでも表現すべきなのだろうか? カンタにはわからない問題だった。ただ、伸ばされた妻の手を取り、とても温かいと感じただけだった。
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