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その最弱は力を求める  作者: コトユエロテイ
第2章【正義争奪の罪人達へ】
26/43

13.【自傷勇者】

喰らう。

アカネ・アーバリシアの月界の本質は、そこにない。それなのに、彼女の月界の前では、使用者の限られる特級魔術『インフェルノ』ですら虚無となる。

崩壊の音色は、確かに。

殺刃の音色は、確かに。

灰燼への回帰は、確かに。


アニマ・アルサーの音色は、回帰は、確かに。


「特殊魔装『クー・タ・グラス』。」


『クー・タ・グラス』の刀身が、蒼の輝きに濡れる。跳ねる斬撃そのものの威力。それが、刀身に宿る輝きに顕著に表れていた。

それこそ、必殺の名を冠する、特殊魔装『クー・タ・グラス』の本質にして、真髄。

完全なる魔装掌握によって煌めいた刀身の輝き。それこそが、魔装に認められた証拠。

即ち。


「僕を忘れるなよ。アニマ・アルサーは、絶対に消えないっ!」


かつての雷撃が。雷撃に匹敵するほどの衝撃が。これまでの自分の経験も、自我も、自分を自分だといえる要素の何もかもが、上から塗り替えられて、上書きされて、そうして、誰にも知られることなく殺されていく。そんな、どうしようもなくおぞましい感覚が。

人から忘れ去られる。世界から忘却される。そんな、おぞましい感覚。

だが、それに対する恐怖が、なによりもアニマ・アルサーの魂をこの世界に縛り付ける。絶対に消えたくない。そんな執念にも近い根源が、その咄嗟の人格スイッチを可能にした。

アニマ・アルサーが駄目なら、その背後に控えたエンガン・ソウが立ち塞がる。

その勇者擬きが駄目ならば、その裏側で燻っていたアニマ・アルサーが立ち向かう。

アニマ・アルサーという人間は、たった一つの掛けがえのない命の中で生きているわけじゃない。

彼は、二つの魂を抱えているのだ。

アルサーの手の中には、自分だけでない他人の命までも、存在してしまうのだ。


「才能と、覚悟。厄介な特性だ。」


誰もが嫉妬し、怨嗟を投げる。そんな才能に魂を浸した正義の味方気取りと。

誰もが悲観し、匙を投げる。それでも、努力の果てに己を犯した覚悟の騎士と。

どちらも、これ以上ないほどの力を持っている。しかし、互いが互いに、彼らは足りないのだ。


「ちょっとはマシになれよ、僕。」

「いいね。君は、さっきの彼とは違う。思ってた以上に、見所があるよ。」


アカネの魔装が駆動する。回転して刃先が装填。完全な刀身の形を作る。蒸気を吹きながら完全に結合した刃。無詠唱での魔装起動。もはや驚きはない。その代わり、アルサーの鋭い太刀筋が、アカネの首を撫でるように添えられる。


「ッ!」


まるで害意というものをこそぎ落とした太刀筋。それは、アカネの無意識を侵食した。

この剣に斬られても、死なないのではないか?

剣の腕前ならば、アルサーはアカネより数段上。アカネも、剣の完全防御には至らない。すんでのところで割り込ませた刃で、かかる刀身を弾き飛ばす。

そんな勢いすら利用して、アルサーが回る、回る。回ル。

ひたすらに、遠心力を湛えて。その刃の重みを確かに乗せて、アルサーの魔装が再びアカネの首筋を撥ねるために音を超えた。

ガァン!と。完全に静止したのは、アルサーの魔装だった。


「結界術ッ……」


ここまでだ。アルサーには、努力しかない。

完全なる才能任せの魔力に関して、彼には到底たどり着けない境地。そこに、アカネはいるのだ。

努力は、どんな研鑽の果てであっても、才能には掠らない。アカネの持論も、アルサーの持論も、同じだった。

つまり、アルサーの見事な剣撃も、持ちえなかった才能の分だけアカネの首からは遠い。

それでも、止まることはできない。


「ず……っ……ッ!!」


苦悶の表情で敢えて間合いを詰める。結界に阻まれた刃を微かに置き去りに、アルサーの身体だけがアカネに接近する。そして、結界の持続時間が過ぎる。

結界が途絶える。

刃が、爆ぜる。


特殊魔装『クー・タ・グラス』


解き放つは、魔装の真髄。その特殊魔装の象徴ともなる、核の魔力機巧。どんな魔装にも搭載された、その魔装の代名詞。

アルサーの魔装は、蒼の輝きを纏いながら加速する。その速度は、もはや人の域にない。

まさに、必殺。

力よりも、太刀筋よりも、能力よりも、なにもかもの力を置き去りにして、ただただ速さのみで敵を狩る。それこそ、アルサーの魔装の真髄。アルサーの、悪足掻きの中の希望。

完全超加速。

アルサーの魔装は、アカネの眼前で結界によって阻まれていた。そこで結界が途切れ、再び剣の軌跡が迫ったとしても、所詮その距離からの加速では大した力は出ない。しかし、『クー・タ・グラス』の魔装の力ならば、一切の溜めを必要とせずに最大の速度を叩きこむことができる。


「巧いな、青年。だけれど、ミカミくんには敵わない。」

「は……ぁ……?」


黒く。しかしその光沢をアクセントとして美しい曲線美を描くナイフが、その超速の斬撃を完全に打ち消した。


「二対一は卑怯だろ?アニマ・アルサー。」


ミカミ・アキトの参戦だった。



初めての邂逅で四対一の攻防を仕掛けたとは思えないほど清々しい声で、息を切らしたミカミ・アキトがアカネに迫った死に待ったをかけた。

それは、絶望の音色だった。

それは、歓喜の音色だった。

白髪の。黒髪の青年が、硬直したアルサーの顔面にナイフの切っ先を差し込む。しかし、騎士としての本能が、剣士としての矜持が、そんな終幕を許さない。

それを危なげなく回避して、アルサーが距離をとる。

アルサーの切り札は、『クー・タ・グラス』の超加速だった。さすがのアカネでも、初見でこの魔装の本質を見抜けるほど反則はしていない。ゼロ距離からの斬撃で、アルサーの勝利は確定していたはずだった。

それなのに。


「あ、……なた、は……ッ!」


アルサーの脳裏に深く刻まれたその男が、変わることのない。というより、その凶悪さを増した淀んだ瞳と、尚隠しきることのできない首の傷跡をチラつかせながら、何かの魔力を動かした。それに呼応するようにアキトのこめかみで雷となって弾ける魔力。

それは、攻撃拒否。

かつての賢者への冒涜によって始まった完全なる防御の力が、アルサーの斬撃の力を完全に消し去った音だった。


「久しぶりだな。覚えててくれたか?」

「……ッ、これを、この惨劇のことを言いたかったのか!?」


アルサーの脳裏で反芻される、ミカミ・アキトという名前。

まるで置き土産のようにアルサーの脳内に巨大なクレーターを残していったそれを、その自己紹介を、アルサーは寸分の違いなく思い出せる。

あのおぞましい邂逅を、アルサーは忘れたことがない。

彼の初仕事になる名前。彼の人生に刻まれる名前。そして。


「世界に……刻まれる、名前……!」


世紀の大犯罪者として、この世界に名を轟かせる、アタモスファータの長。


「ミカミ……アキトオオオオオ!!」


吶喊。しかしそれは、既に騎士の剣撃の範疇にない。咆哮したのは、騎士としてのアルサーではなかった。それは、騎士でも、宿り木でも、小枝でもない。ただの、アニマ・アルサー。

皮肉なことに、ミカミ・アキトという存在によってのみでしか、その魂を開放できなかった。


「ミカミくん。私は後方支援が好きだなぁ。」

「お前が任せてくれるなら。」

「もちろん。私は、君を信じてる。」


アルサーの刃の切っ先が、刀身に常時発動されている斬撃の増幅機巧が、なにより、アルサーという人間の、どこから湧き上がってくるのかもわからない、正体不明の激情が。

しかし尚。

アキトとアカネの一年には届かない。


「任された。」


逆手に握ったナイフが、アルサーの顔面をぶちぬいた。

首ごと撥ねるつもりで振りぬかれた白刃。しかし、それは寸前で特殊魔装に阻まれて、ほんの数本の髪を巻き込んだだけで終わった。

たとえ魔力に強化された身体でも。アルサーには才能があったわけじゃない。彼には、努力と研鑽の果ての強さしかない。ならば、そんな強さを捨てて飛びかかってきたアルサーに、なんの力がある?

刹那の膠着状態。眼球の動き数ミリで、その硬直が終わりを告げた。

遠心力をひたすらに喰らい、腹の中を力で満たして、それでも足りない分を純粋な肉体の強度で彩って、アキトの回し蹴りがアルサーの腹へと激突する。

さすがの鍛え方。アルサーに直接的なダメージはなかったように見える。しかし、アキトがしなければならないのはそんなことではない。

やることは、時間稼ぎ。


「ミカミくん、ありがとう。『仮想宵闇(ルナ・テクション)』。」


光が、消失した。

闇属性魔術分類2。中級魔術『仮想宵闇(ルナ・テクション)』。

アカネの詠唱によって結合した魔力たちが、光の中に内包された魔力たちを喰らい始めた。

かつては己だったそれらを喰らって、それによってもたらされていた光すら食い荒らして。それでも飽き足らない魔力の奔流は、やがて人にまで侵食を始める。

空間は、闇に満たされた。


「何も見えない、聞こえない。怖いよな?怖いだろ?」


吹きすさぶ暴風のような魔力の濁流が、わずかに開けた視界に雪崩れ込む。刻一刻と闇を深めていく魔力の中から、この視界不良の状況をまるで顧みない声が、余裕綽々の態度で投げかけられる。

魔力にかき消されず、むしろ馴染むような底冷えする声音。アキトの声。それは、彼自身もこの闇の中にいるという証明に他ならない。

しかし、そんな彼の声帯の振動に、精神の振動は感じられない。怯えだとか、恐怖だとか、そんな振動は、一切。

恐怖心の欠如。アルサーの頭の中には、そんなイカれる一歩手前といっていいアキトの状態が、酷く歪に感じられた。

だが、そんなアルサーの心を透かしたように。そのとてつもない視界不良の中で、誰よりも周りを見渡している人物が、その考えを否定した。


「俺も怖いよ、こんな暗闇。先が見えない、どうなるのかがわからない、どうしようもない。わかるぜ、痛いくらいに。」


闇の中。目は視界ではなく恐怖を取り込み、意識は自我ではなく本能を震わせる。それは、アキトも同じ。

先の見えない。どうなるのかわからない。どうしようもない。

その通りだ。


「だからこそ。慣れちまったな、そんなの。」


暗雲が晴れる。顔面を地面に擦り付けてしまうのではないか、そんな場違いな懸念を抱いてしまうほどの前傾姿勢で、アキトのナイフがアルサーに迫っていた。

気配、音、空気、何もかもの情報を一切遮断して、それでも漏れ出る情報を最低限悟らせないために、アキトは眼下の視界不良を逆手に取った。吹きすさぶ魔力の終着地。やがてただの魔力に還る闇に、アキトは潜り込んだ。

届かないはずの刃を、届かないはずの手を、一年間という助走を経て届かせる。

そんなアキトの努力の果て。


たった一瞬の才能が、彼の一年を押し潰した。



いつまで、そこで蹲ってやがる。


恐怖心のど真ん中、その先にある精神にすら貫通する、アカネという女の弾丸。それは、容易にエンガン・ソウの正義感に亀裂を走らせ、義侠心を抉った。

煮えたぎっていた闘志は鍋ごとひっくり返され、悪に向けられていた怒りという熱湯が、恐怖となって自分を焼く。その恐ろしいほどの自傷行為は、彼の並外れた正義感と、並外れた世界知らずによるものだった。

正義とは。命を懸けて正義を奪い合う彼らの前で騙っていい内容ではなかった。


おい。


陰鬱とした内心と、肺腑の中で爆発してしまいそうなほどに肥大化した燻った自己主張。いずれも孤独な自慰行為。されど届くことのない、お得意の鼓動。

初動を失った彼には、孤高というには醜くて、徒党を組めない狼のような、生ごみのような価値しかない。

結局のところ、彼を動かすのはその腐敗したポーズでしかない。


お前だよ、聞こえてんだろ!


結局は、勇者なんて言う壮大な肩書きを、目標は高く、なんていう戯言に任せて名乗ってしまったのが間違いだったのだ。あんな大言壮語の所業を、実力ありし者が認めるはずがない。見咎めないはずがない。


いい加減にしろよ。


この世界に居場所などない。エンガン・ソウは、無力で、薄汚くて、救い難い。もはや誰にも必要とされず、出来るのは精々面倒ごとを増やすぐらい。最早いない方がマシ。いてももたらすのは損失だけ。

差し出した手は拒まれて、差し出される手は未だ知らない。

悲観に悲観を重ねて。折り重なった不安の数だけ混入していく躁鬱の音。地層のように積み重なって、断面だけは美しい。されど、色合いに華がない。

ああ、なんと不機嫌な人生だったか。

そうして、エンガン・ソウは悲観した。そうして、そうして。


「聞けって言ってんだよ!エセ勇者ッ!!」


差し伸べてもいない手が、勝手に取られて引き摺り出され。


「人の人生無茶苦茶にしといて、今更常識人ぶってんじゃねえ。お前は人を食い荒らす災害だ!害悪だ!!なら、こんな時くらいは役に立ちやがれ!」


負の感情の泥沼の、さらにその根底の泥濘の、底の底の底。わざわざそんな感情に塗れてまで、そんなドブ水を飲んでまで、ゲボを掻き、拳を突きつけ、罵声を撃った。

曰く、お前の力が必要だ、と。


「もう、アニマ・アルサーは、俺一人じゃないんだ。」


明滅した。まるで雷鳴に貫かれたような衝撃が、極光が、精神ごと視界を晴らす。

アニマ・アルサーたちの攻防は、外の世界を見られない闇の中だからこそ、内の世界で決着したのだ。



明滅する視界の中で、一瞬、アルサーが目を剥いた。しかし、そこにはなんの気負いもない純粋無垢な瞳。正義感に輝いた、完全なる善意の塊。

そこから叩きつけられるのは、純然たる魔力。濃度も、規模も、能力も、何もかもが規格外。果たして、そんな反則が許されるものなのか。まさか、どうして、そんな声が聞こえてきてもしょうがない。

それでも、彼らだけは言う。これが、アニマ・アルサーであると。これこそが、自分たちの姿であると。

歪でも、異常でも、異形でも、それこそが、彼らの姿。

騎士でも、勇者でも、ましてや人間ですらない。ソウと、アルサー。その先に、アニマ・アルサーという存在がある。

だから。


「束ね。『インフェルノ』。」


火属性特級魔術『インフェルノ』。

そもそもの魔術適性が規格外であるソウが、詠唱込みの全力で放つ、火属性魔術最強の技。こんな密閉空間でそんなものがぶっ放されれば、アキトたちはおろか、自分の身すら危ない。

顕現するのは、地獄のような業火の炎上。守るべきはずのエンテンシャーすら巻き込む、自爆と変わらない愚行。

だがしかし、その教訓は既に得た。

彼は、才能しかないエンガン・ソウではない。それでいて、努力しかないアニマ・アルサーでもないのだ。

彼らは、努力を得て、才能を持ちし、騎士。そして、勇者である。アニマ・アルサーである。

努力によって培われた魔力操作が、本人の意志すら介入させなかった魔術の炸裂をたった一点に集中させる。まるで特殊魔装の必殺の一撃。

アキトの咄嗟の回避。というより、爆風に耐えられなかった貧弱な体が吹き飛んで、その灼熱の光線から回避。しかし、アカネによって非常用に張られていた結界を突き抜けた魔力の余波によって、肩口を抉り取られる。

鮮血が舞う。


「ミカミくんッ!!」

「馬鹿ッ!自分の防御を!!」


爆裂。周囲の魔力を食い荒らして、一気に凝縮した瞬間、さらに結合を増やし、元来の破壊力が解き放たれる。内側から爆ぜるエネルギーは、魔力という枷すら解き放って世界に拡散する。爆発の威力は、その中心で溶ける炎だけでアカネを呑み込んだ。


「今のは……」


確実に、力任せのソウの魔術ではなかった。しかし、努力しかないアルサーには、到底発動できる魔術ではなかった。考えられるのはただ一つ。

彼らは、見つけてしまった。この状況を打開する方法を。


「どうだよ。二対一で負ける気分は。」


補い合って、補完して。

アニマ・アルサーはミカミ・アキトに意趣返しをした。些か凶悪な笑顔で。それでいて、人生で一番、楽しそうに。

心底、楽しそうに。



敵に背を向ける行為。それは、油断だとか慢心だとか、そんな言葉ですら生温い、戦場への冒涜ともいえる行為だ。しかし、それが絶対の手だというのを、アキトは知っていた。

だから、そこで剣を構えるアルサーの殺意にすら、アキトは無防備な背中を晒す。一瞬で、その距離は消失するだろう。一太刀で、趨勢は傾くだろう。

アキトの次の一手が、この戦況を大きく変えるだろう。

放て、全力の叫び声で。


「疑似月界ッ!!」


炎が裂けた。


「任せてくれ、ミカミくん。『葬喰の聖域エルダー・サンクチュアリ』。」


詠唱の断片を詠唱してもらい、詠唱時間を短縮する、分割詠唱。魔力振動や春刹と関係のない月界だからこそ使うことのできる、月界術師にしか通じない、絶対の合図。

アカネ・アーバリシアの月界が、解き放たれる。


喰らえ。喰らえ。喰らえ。


死を喰らい、廃して喰らい、絶対悪の糧とする。魔道すら穢し、喰らい尽くす。


支配の声は未だ轟き、死廃の声は未だ届かず。


世界すら葬る聖域に、たった一片の歓喜の念を。


爆発的に爆発した爆発が、まるで何かに喰われたかのようにたった一瞬で消失した。

莫大な量の害意の塊と、底に入り混じったほんの少しの歓喜が、実力という単純な理においてのみ発動する、守るための、戦うための、愛を喰らうための、月界。

一度目の『インフェルノ』と、二回目の『インフェルノ』。明らかな威力の向上と、戦闘スタイルの確立。同じ魔術であっても、その二つの魔術の間には、隔絶された何かがあった。

ただ、それは。アルサーたちだけとは限らない。

一度目の、青年を想う妄想から生み出された月界と、目の前で己を叫ぶ愛しい青年を見て生み出された月界。

二度目の月界の発動は、完全なものだった。

なんの手加減もない。なんの余地もない。なんの悲観もない。

あったのは、純粋な殺意と、愛情だけ。


果たして、ミカミ・アキトを得たアカネの月界は、どれほどの力になるだろうか?


一瞬。押し寄せる津波のように、アカネを起点とした深淵の無い闇が、何もかもを覆っていく。

壁も、地面も、天井も。彼も、疑念も、喧騒も。何もかも。


「君たちは頑張ったよ。でも、頑張りすぎた。」

「一緒に戦おうって切り替えたその気概は認めるよ。だけどさ、結局、お前らは分断されたら足りないものだらけだってこと、忘れんなよ?」


まるで刺すような声が、悪意を悪意に馴染ませて、煮込んだ悪意に悪意を注ぎ、悪意の器を浸したら、もはやそれは当たり障りのない侮蔑。人間の純粋な悪意というものが、理性の枠を超えて漏れ出て、拳という形をとって精神を殴りつける稚拙な悪意。

そんな吐き捨てるような声を置いて、アキトの姿が微かにぼやける。漆黒の中に巻かれる青年の影を睨みつけ、アルサーの意識が刈り取られる。

根絶する。隔絶する。

自分の魂という概念を、アルサーは初めて自覚した。



暗闇。自分の魂に誰かの魂が上書きされる感覚。アルサーがこれまでの人生の中で一番の衝撃を受けた感覚だ。これまでの自分の経験がまるで蝗害のように蝕まれて、灰燼に帰す。宝物のようにため込んだ経験値が、誰にも奪われることなど許されない記憶が、喰い荒らされて、啄まれて、踏みつけられて、凌辱される。

自分の積み上げてきた資産が徐々に喰らわれて、なかったものにされることへの焦燥感。

己の身体から、生命の脈動たる血液がダクダクと流れ出していくかのような、純然たる死への恐怖。

味わったことのない苦痛に対する、ある種の諦観。徒労感を積み重ねた、絶望感。

彼は、宿木といわれる器だった。

時は数十年前。とある魔力学者の娘が、知らない人格を扱うようになった。それまでの娘の姿は一切なく、持ちえなかった魔法の才能すら開花させた。しかし、その後の少女はこれまでの少女とは全く別人。まるで、これまでの全てを忘却の彼方へと消し去り、違う魂を注がれた。そんな、奇妙で不気味な、おぞましい事件。

最悪、魔力災害と肩を並べていた可能性もある、害悪な事象。しかし、その事件は魔力災害という迫害の対象ではなく、宿木という名の才能の象徴へと姿を変えた。

同じ超常現象に対してどうしてそこまで待遇の差があるのかと問われれば、そこに、どれほどの利用価値があるのかだけだ。



アルサーの目が覚めた時、そこにあったのは暗闇だった。

ただ純粋に、暗闇。まるで、この世界から隔絶されたように、何もない暗闇。どういうわけだか自分

の周りにはうっすらと光が淡く散りばめられており、若干ではあるが暗闇への認識を助けてくれる。

たがしかし、状況の不可解さは依然変わらない。

なんとかソウと共に協力して、才能と努力を両立させた戦闘に持ち込んだところまではよかった。

確かにあの瞬間、エンガン・ソウとアニマ・アルサーの才能と努力は、アカネとアキトを圧倒した。追い込んだ。ただ、それが駄目だった。

追い込まれた。自分の状況をそう達観して、簡単に割り切れる人間が、そこにはいてしまったのだ。

確実に取ったと思った敵の首。しかし、それはあくまで着込んでいた鎧に過ぎず、それによって押さえつけられていたとてつもない中身を、アルサーは解き放ってしまった。

一番警戒する必要のある、月界という反則を、許容してしまった。それが、この惨状を生み出した。

ただ、それでも理解はできていたつもりだった。

この状況に対して不可解は感じる。不思議だとも感じた。しかし、アルサーの中には一定の安堵、というよりも、納得のような理解が、確かに共存していた。

裂かれ際。闇にまぎれたアキトは云った。


分断されれば不利なのは、変わらない。


考えてみれば、当然の帰着だった。

アキトがアカネと分断されてアルサーと戦うというのは些か難しすぎる。それと同様に、アルサーがソウの才能と分断されてアカネと戦うというのも、難しいものだった。

アキトは、自分の一番されて嫌なことを、あの一瞬で導き出して、あろうことかそれを実現すらしてしまったのだ。驚嘆すべき思考力と、茫然すら覚える意地の悪さ。

アルサーの中から普段からうるさいほどに聴こえてくるソウの声が、今は一切聞こえなかった。


「月界に僕を取り込んで、あいつと分断する……やられた……」


もし、これがアキトの思想の反映だとすれば、この月界に取り込まれたのはアルサーの魂だけ。アルサーの身体に残ったソウは、アキトと戦わされているのだろう。そちらの分には、アルサーは特に問題を感じていない。問題なのは、いつだって自分だ。

もし、本当にこのままならば。今から、アルサーが刃を交えないといけない相手は、ただ一人。


「さて、君は、どんな正義を語ってくれるんだい?」


暗闇を引き連れるように。確実に視認できる女がいた。しかし、本能がそれを視認するのを拒絶した。それと戦う。そんな未来を否定した。考えたくなかった。


アカネ・アーバリシアとの邂逅を、考えたくなかった。



「おい……おい!どうしたんだ?僕が外に出ていていいのか?」


普段、ソウがアルサーの身体の実行権を握ることはない。強いて言えば、先ほどのアカネとの戦闘ぐらい。しかし、アカネの月界の闇に呑み込まれた瞬間、心臓を繰り抜かれたような喪失感が、どうしようもなく肺にわだかまっていた。

何をするにもその違和感が邪魔をして、あんなに握りたいと渇望した肉体の実行権にすら不信感を抱くほどだった。

そんなソウに、やけに枯れた声が響いた。


「さて、お前の相手は俺だ。エセ勇者。」


空虚な胸を押さえていたソウに、落ちる影の輪郭はやけに複雑だった。

白に混じった黒髪と、世界を諦観する淀んだ瞳。首元のおびただしい量の傷跡と、決して相いれないであろう類の笑みが張り付いた顔面が、その雰囲気をより危うげなものにする。

重心から見て右足に何かしらの暗器。左手に持った特殊魔装『アカネ』と、右手に持っているのはフロム職員専用の量産魔術杖(イニシエスト)

完全武装の青年だ。


「っ!君は、……先ほどの女性と、彼をどこにやった!早く教えるんだ。」

「話聞けねーのかハゲ。あ・い・て、わかるか?俺がお前と戦うって言ってんの。」


だが、ソウの着眼点はそこにない。なぜだかわかってしまう相手の武装より、なにより。彼は、自分の文字通り半身であるアルサーの所在が気になってしょうがない。体に風穴があいたようなその感覚に、もう既に限界を迎えている。そんなソウの様子を察したように、アキトは余裕を滲ませながら油断を排斥した。

ソウは、アキトのことを未だに敵だと認めていない。だから、ここまで油断しながらアキトに対して無防備な態度を示せるのだ。もしアキトが凄腕の剣士だったのなら、ソウの首はアルサーの身体は、既に宙をまって塵芥にまぶされていたことだろう。


「そういうのだよ、そういうの。お前も、やっぱりそういうタイプだ。」


自分が全く相手にされていないことを悟りつつ、しかしそれに対して激高の色を示すわけでもなく、アキトはなれたように苦笑い、全く笑っていない瞳でソウを射抜いた。


「なあ、いつまで勇者気取りなんだ?所詮転生しただけの、日本の一般人がさ。」


それは、少なからずソウにだけ向けられた感情ではなかった。しかし、ソウが受け取った衝撃はどんな感情にも当てはまらない、複雑なものだっただろう。きっと、ソウは全く予期していなかった。

当然だ。見ようともしていない相手が同郷の人間だなどと、誰が気付ける。

しっかりと見ていた、しっかりと分析して、ねめつけて、観察して、そうやって限界の限りを尽くしたアキトだったからこそ、それを知ることができた。感じ取ることができた。


「ま、……さか、君も……?」

「お前と同じにしてんじゃねえよ。こっちはそんな才能も恵まれた肉体も貰ってねえよ。」


やっと、アルサーにも理解が及んだのだろう。アキトのその言い回しが、どうしようもなくそういうものだと、わかったのだろう。


「なあ、どんな気分だ?小説みたいに無敵で、漫画みたいに痛快で、映画みたいにハッピーエンドで、ドラマにみたいにメルヘンチック。どんな気分だ?」


言葉が、出ない。


「俺は最低の気分だよ。小説みたいに陰鬱で、漫画みたいにボロボロで、映画みたいなデッドエンドで、ドラマみたいに都合が悪い。どうにかなっちまいそうだ。」


アキトの中で、どこにぶつけるでもなく。どこかにぶつけるにはこの世界の人間には難解すぎる鬼哭の如き濁流の感情が、その矛先をやっと見つけたとソウに剥く。


「欲しかったな、才能も。掬いたかったな、人を。言ってみたかったな、自称勇者。」


その最弱の嘆きが、これまでにないほど最悪な形で顕現する。


「なってみたかったな、勇者に。」


ドクン、ドクン。鼓動が、これまでにないほどの速度で心臓を滅多打ちにしていくのが理解できた。

脂汗が、冷や汗が、ぐっしょりと全身を濡らす。まるで、悪事が見つかった子供のような心境で、やめてくれ、とそんな懇願すら出てきそうなほどにボコボコにされた心情で。

ソウの指先が、アキトの唇が、震える。


「なってみてえな……英雄に。」


到底そう見えないほどに濁った瞳で、ミカミ・アキトは屈託のない笑顔でソウを見た。自称勇者は、声を失くした。

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