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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅰ 佑磨⑨

 電車の中が比較的空いてきた頃に、俺は降車した。この駅で降りる人は俺しかおらず、都会にもかかわらず、随分と寂れた印象を抱いた。と言うのも、乗車した時の駅が時間ゆえか否かは知れないが、大混雑を来していたからだ。故に俺は、現地に着く前から既に疲労困憊していた。プラットホームが人の波でうねりうねって人酔いしそうであったのに加えて、避ける事の出来ない運命とでもいうかのような満員電車に見舞われたのだ。こんな状況の中で大荷物を抱えていたら、もしかすると、行先に辿り着く前に倒れ込んでしまっていたやも知れない。

 何を隠そう、俺はパンパンのリュックサックを背負ったまま山登りをする事を、早々に諦めていたのである。今日の日照りが半端ないというのも理由の一つではあるが、やはり駅の人込みを目の当たりにしたのが一番の決め手だろう。

 席が空いていないというのは、想像したくなくても、嫌でも想像がついてしまう。これで荷物を持ち歩いては、缶詰め状態の電車の中で、人に押された自分の荷物で押し潰されること間違いなし。直感的にそう思ったのだ。

 そういうわけで、俺は切符を買う前にコインロッカーへと荷物を預けに向かったのだ。その折、予備として入れ込んでいたポシェットをリュックから取り出して、必要最低限の物、少なくとも、これから向かう場所で使いそうな物だけを中に詰め込んだ。勿論、黒い傘は持ち歩き続行だ。こんな快晴日和に持って出歩くのも多少違和感があるが、これがなければ話が始まらない。話にすらならない。何のための遠出だという事になる。

 大荷物とおさらばすると、まるで俺の肩に憑いていた悪霊が祓われたような、そんな解放感が得られた。最初からこうすれば良かったと後悔したのはさておき、身軽になった俺は満員電車に臨んだのである。案の定、初めのうちは電車が揺れるごとに押しつ押されつを繰り返し、車内の二酸化炭素濃度が急上昇していっていた。しかし、主要な駅を過ぎるごとに、人口密度が愕然と下がっていく。当然の摂理の如く席にも空きが出てきて、残りの二時間は、ゆったり座って旅路を進むことが出来たのである。

 降車した駅を出ると、昨日口コミで見た言葉通りの、「閑散した」町並みが広がっていた。田舎のように、田園風景の中にどこまでも続く一本道が待ち構えていたわけではないので、さほど気が遠くならずに済んだ。

 インターネットで調べたマップを、頭の中に思い浮かべる。現在地から目的地までは、北西方向を進んでいけばいいらしい。マップの隅々まで記憶している俺は、時折道路標識を確認しながら、着々と歩を進めていった。こういう時は、記憶力がいいと何かと便利なものである。地図を持ち歩かなくてもいいとかそういう事ではなく、単に迷う心配が少ないから便利なのだと言いたいだけだ。

 暫く両サイドに寂れた街並みが通り過ぎていた光景も、いよいよ緑が増えてきていた。フラットだった道のりも、若干傾斜が付き始めている。俺はそろそろ山に入らんとしているのだろうかと頭の片隅で考えつつ、それでも前進して行った。ここまで来て引き返す馬鹿はいない。

 日射に弱い俺にとって、帽子は必需品だ。そんな必須アイテムが仇をなす日が来ようとは思いもしていなかった。俺は被っていた帽子を一度外し、帽子にこもった熱と湿気――つまり蒸れを発散させた。午前中に洗った髪が、今頃になって乾き始めたのだ。

 太陽は南中しようとしていた。俺は南から山の方向へ歩いて行っているので、直射日光が容赦なく頭上に降り注いでくる。お陰で暗い色をした俺の帽子が、自然の法則に従って熱を吸収していくのである。その熱により、髪に含まれていた余計な水分が蒸発していったのだ。――帽子の中で。

 故に俺は、蒸れては外し、日光に眩暈を覚えては被るを繰り返した。インドア派の俺が一日にこう、何度も眩暈を覚える機会は滅多に無かったものだから、時折吐き気を催した。吐かなかっただけ褒めてもらいたい。

 次第に傾斜が急になっていった。いつの間にか、分かれ目の無い、それこそ一本だけの道路が続くようになった。田舎の田園風景と違うのは、道が一直線に続いているのではなく、傾斜に沿って曲がりくねっているところだろうか。地面がコンクリートで固められているだけ、マシな方だと思う。道幅からしても、車両がぎりぎり通れるくらいはある。もしかすると、例の店まで自動車で行くことが可能なのかもしれない。

 そんな考えを抱いていたのは、俺が行き止まりに達するまでの間だった。灰色のコンクリート道が唐突に途切れている。その先は如何にも山道というような道で、その道の始まる場所には『車両お断り』の看板が立てられている。幸いだったのは、その道が獣道ではなく、ある程度整備されていたことだ。コンクリートで固める、なんて御大層な整備は勿論なかったが、歩くには傾斜が急すぎる場所などは階段らしき物が設置されており、比較的登りやすかった。

 とは言え、俺の体力をみるみる奪い取っていった事には変わりない。ポシェットの中から何度ペットボトルを取り出した事か。仕舞いには、一々取り出したりなおしたりするのが面倒になったので、傘を持っていない方の手で持ち歩いた。

 途中から、何故こうも足取りが重いのだろうと朦朧とする意識下で考えていると、昼時をとうに過ぎている事に気が付いた。時刻は十二時五十七分。少し休憩を入れるかと、階段道に腰を下ろした。

 ポシェットから今朝買い足しておいた、昼用の軽食を取り出した。食べるのが簡単な焼きそばパンと、腹持ちのよさそうなあんパンだ。俺は腹の空き具合と、これからの上下運動の事を考えて、焼きそばパンの方を選んだ。ここで胃を重たくしてしまっては、今度こそ物理的に戻しかねない。

 昼食を終えて再び歩き出すこと十分。休憩を入れた場所から目的地まではそう遠くなかったらしく、アンティーク調の建物が視界に入ってきた。俺は中身が三分の二無くなったペットボトルの蓋を開け、中の液体を喉に流し込む。それからしっかりと蓋を閉め、ポシェットの中に仕舞った。店の小さな看板に〝 Σχολή 〟の文字が書かれているのを見ると、俺は右手に持った黒い傘を握りなおし、店の戸に手をかけた。

 カラン、とドアに取り付けられたベルが鳴る。その音に反応した店の者が、こちらの方を向いた。目がかち合ったのは、後ろで一つに括った金髪女だった。青い瞳と顔の彫りの深さからしても、とても日本人には見えなかった。とは言え、最近はハーフやクオーターと言った人も普通にいるので、安易に外国人だとは言えない。

 深い茶色のエプロンを身に着けたその女は、俺に気付くや否や「いらっしゃい」と声をかけてきた。土方のように愛想の良い人ではなかったが、さっぱりとした雰囲気と声質にはどこか好感を持てた。

「オーダー、ではさすがに無いわよね。……迷子、にしては焦った様子が見られないけれど。あなた、此処に何か用でもあるの」

 女ははきはきと喋る。流暢な日本語なので、もしや日本国籍なのではと思ってみたりもしたが、どことなく片言だったので、やはり外国人だろうかと思いなおす。それにしても、彼女の判断の速さや無駄のない話し方は、聞いていて清々しいものがある。女に対する俺の中の好感度が、また一つ、上がった。

「用がなければこんな辺境地になんか足を運ばない。俺は聞きたいことがあって此処に来たんだ。生憎、この店はホームページは愚か、電話の回線もないようだからな」

 多少皮肉気に言ってみたが、女は憤る様子を見せるどころか、慣れた顔つきで返答した。

「そうね。でもまぁ、それが店主のやり方なんだから仕方ないわ。お陰で、バイトの身からすれば、電話対応に追われなくて逆に助かっているわ」

「あんたバイトなのか。……なら、これを見せても分からないな」

 俺の呟きに、女は小首を傾げた。「分からないって、何が?」と言って、何かの作業を中断して俺の方へ近づいてくる。そこで漸く、俺の持ち物に気が付いたようだった。

 今まで興味のなさそうな顔をしていた女が、一変して真剣な顔つきになった。無言で俺の手から傘を取り、暫し興味深げに眺める。

「……ここでオーダーメイドされたものね。間違いないわ。これでも、筆跡の鑑定には自信があるのよ。この字は確かに、マスターのものだわ」

 女は視線を傘から、俺の方に移した。まるで、何であんたみたいな子供がこれを持っているの、とでも言いたげな表情だった。

「ある女が置いて行ったものなんだ。そして俺は、その女を探している。その手掛かりになればと思って、此処に来たんだ」

 女の目が疑わしげな目から、若干引いた様な目に変わった。

「まさか、その『女』の人の手掛かりって、これだけなんじゃないでしょうね」

「それだけだ。……もし仮に他の手掛かりがあったのなら、まず先にそちらから片付けたいただろうな」

 女は額に手を当て、オーバーなリアクションを取った。

「あなた馬鹿じゃないの? それは得体の知れない人間を追いかけてるって言ってるようなものよ。それとも何か、探す必要性にでも駆られているわけ?」

 俺は顔を顰め、「あんたには関係ない話だろう」と一蹴した。それに気付いた女は、溜息を吐くだけに留まった。

「……世の中には、変な子供も存在するのね。まぁいいわ。どちらにせよこれ以上この傘に関しては私にも分からないから、ちょっとマスターを呼んでくるわ。そこで待ってて頂戴」

 黒い傘を俺に返すや否や、女は店の奥へと消えていった。


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