やっぱり絶体絶命っ
私の喉元を掴んでいる彼の手が、少し楽しそうにリズミカルに、強弱を付けて揺れ始めた。
恐怖で体が凍りつく。
蛇に睨まれたカエルの様。声が出ない。
でも、でも、何か言わなきゃ。相手の言いなりになったら終わりの様な気がするから。
強く体を掴まれて動けないけど、心まで支配されてはダメだ!
「は?」
彼の不気味な笑顔から視線が反らせず、やっとの思いで出た言葉はこれだった。
その間抜けな響きに、思わず自分でもビックリしちゃう。は?って何よ、は?ってっ。
「俺は私生児で生まれた。これは運命か?もともとはあいつと母親が、気まぐれでセックスした結果だ。じゃあ俺は、気まぐれの産物だな。人間は皆、運命が気まぐれに絡み合っている。絶対的な運命ってあると思うかい?」
「・・・・・。」
唖然、とする。何言ってるの、この人?
問い掛けなのか、独り言なのか。急に彼の演説が始まった。
「中野の人生を終わらせた俺は、気まぐれの産物であるにも関わらず、中野にとっては絶対的な存在になった。どういう事だと思う?」
意味不明の言葉を喋り続ける。私が理解できる訳が無い。
それにね、こんな状態なら、例えどんなに愉快なお笑い小話を話されたって、オチすらわかんないわよっ。私にどうしろっていうのよっ。
「俺が捕まればあいつの運命が変わる。あいつが気まぐれに作った息子のせいで。するとつまり、あいつは自分で自分の運命を作った訳で、結局俺は、無力な歯車の一部に過ぎないのかな?」
「・・・何言ってるんですか?」
やっと言葉が出た。酷く掠れた声だった。
人がいない。大声が出せない。体を掴まれている。
彼が何を言っているのか、本当にわからない。でも理解不能でも、とにかく今は会話を続けて時間を稼ぐしかない、と思った。
ここで彼は、私を掴んだまま再び歩きはじめた。
私は少しホッとした。視線が反れたし、いきなり首を絞められる、という危機もとりあえず去った様な気がする。
そのまま、裏通りを行った。
今、何処を歩いているんだろう?よく見なきゃ。高級住宅街だって事は分かるんだけど、人気が全然無い。ご近所の治安はどうなっているの?これじゃお金持ちも住まないわよ、狙われ放題じゃない。
あ、そっか。お金持ちならご近所に頼らなくても、セ○ムとか○警とか入れてるから大丈夫なのね、納得ってそういう事じゃなくって、もうもうもう!!
するといきなり、彼が私を覗き込んだ。
「ところが。そこで君が登場した。」
うわっ。指さされたっ。怖いっ!私に話を振っているっ。
「君が俺を見ていた。あの小さな少女が俺の運命を握っている。強いては、親父の運命を握っているんだ。途端に愉快になったよ。ばかやろう、ざまあみろ、だ。」
親父?親父って言った?さっきまで藤田さんの話をしていたのに、今度はお父さんの話?
ばかやろう、ざまあみろ、っていっているのに、目が、顔が、ぜんっぜん笑ってないのよ、怒ってもいないの、無表情なの。ああ、もういや、勘弁してっ!
「運命って言うのはね、やっぱり自分ではコントロールできない所にあるんだ。俺達の場合、それをコントロールしているのが、あの少女だ。面白い。あの親父が、あんな小娘に喉元を握られている。なのに、あの少女はそれを知らない。ますます面白い。」
いいえ、私は今、誰の喉元も握っていません。というか、私の喉元を握っているのはあんたですっ。
満足でしょ、コレでいいでしょ、だから放してよっ。
さっきから愉快だの面白いだの、その楽しさ、私にも分けてよっ!!どうにかしてよっ!!
急に様子が変わった彼に、さっきから私の心臓はバクバクしちゃって本当に恐ろしいんだけど、
冷静な私が、頭の片隅でまたもや役にも立たない事を考えていた。
この人、お父さんの事を嫌いっぽい?藤田さんの事は嫌いじゃないけど、お父さんの事は嫌い?
「その少女の運命は、誰が握っているんだろうね?途端に興味が湧いたんだ。誰が彼女の人生をコントロールするか。そして彼女はいつ、握っている俺達の運命を振り回すのか。他人に対する、初めての興味だったよ。毎日ね、君の観察に没頭した。面白くて、充実した。」
・・・意味不明だけど、つまり平たく言ってやっぱりストーカー?
怖いー!
「君が溺れている場に居合わせたのだって、さっきも言ったけど、偶然だけど運命だよね。君が溺れているのを見て思ったんだ。ああ、これも運命か。これで彼女は死んでしまって、握られていた俺達の運命も消えてしまうのか。彼女が俺にとって絶対的な存在だったのは気のせいだったのか、って。あの時はすごく、残念に感じたよ。」
・・・意味不明だけど、やっぱりそれって、見殺しにしようとしてたんでしょう?!
更に怖いー!!
「だから、きみが今、目の前にこうして立ってくれて、すごく嬉しい。」
わけわかんないっ。
もうダメ、怖すぎるー!!
私は自分が甘かった事を悟った。
私を待っていた、とか、事件を背負って辛かった、とかそんな生易しいものではない。
この人、やっぱりかなりおかしい!!
「あの・・・お父さんって・・・。」
「え?」
「・・・お父さんの事・・・好き・・・なの・・・?」
怖すぎて、話題転換を試みた。
刺激しない様に、ヘタに言い当てて相手を逆上させないように、さっきみたいに反対の事を言ってみて、
なるべく時間を稼いで再びチャンスをうかがって、
そして出来る事なら、相手を説得出来る材料を探せるように・・・。
あっているのかしら、こんなやり方?
「好きだよ。」
あれ?
「色々気にかけてくれてるし。俺の家の事も、母親の事も面倒を見ようとした。あの年になっても、頑張ってるんじゃないか。」
間違ってるじゃん。やり方以前の問題じゃないの。読みが間違っているじゃない。ど、どうしよう。
ま、でもいいわよねっ。会話が続くなら。本来の目的、そこそこっ。うんっ。
出来るだけ引き延ばせっ。
「だから、地獄に落ちればいい。」
・・・何ですって?
「最後まで善人ぶってるような奴は、地獄に落ちりゃあいいんだ。」
河島から笑顔が消えた。眼が座って、声が低くなっている。話題転換、大失敗っ!
もーぉ、やだっ。早くこのおかしな人から離れたい。首から手を放してよっ!
「・・・奈緒に、手を、出したのは、何で?」
話題転換、再挑戦。だってお父さんネタを引きずる気になれないし、結局、時間稼ぎしか思い浮かばない。
再び声が掠れてきた。恐怖で声が出なくなるって、本当だ。
「うーん、なんでかな?この間久しぶりに君と再開して、ちょっと気が変わったのかもな。少し突っついてみようか、と。すっかり事件の事を忘れている様な人生らしいから、少し腹ただしかったしね。」
私に近づく為に奈緒を利用した?何ですって?
確認した瞬間、炭火の怒りが再燃したんだけど、『腹ただしかった』、なんて言葉一つで、体に戦慄が走る。
炭火、消えちゃいないけど種火並みにちっちゃくなっちゃいました。
「・・・見ているだけで、手は出さないって・・・。」
「君に直接手は出しちゃいなかっただろ。今日、君が来るまでは。」
横目で見下ろされる。笑っていない。
「・・・怖い事、しないって・・・。」
震える声で、言ってみた。
すると彼は、表情反転、優しく微笑んだ。
「違うよ。『怖い事』じゃなくて、『悪い事』、だ。台詞はちゃんと、覚えなきゃ。」
ああ、種火の炭火。それに空気を送ってもう一回、炎をおっきくしたいのに、
息が出来ないよ。空気が送れない。
この人に首を絞められる前に、勝手に窒息しそうだよ。
私は、自分の心がついに折れるのを感じていた。
もう、限界。もう、無理。
誰でもいいから、助けて。
拓也、どこにいるの?秀真、帰すんじゃなかった。
助けて、碧さん。お願い、助けて。
困った事があったら連絡しろ、って最初に言ってくれたじゃない。危険な目にあわない様に、って。
あれも、嘘なの?
ねえ、お願いだから。
「待っていたよ。本当だ。君が来るのを夢見て待っていた。・・・長くて、あっという間の15年間だった。」
彼が、私の喉元から手を放した。
私がギクッとすると、彼は私の肩を掴んで体をまわし、正面に向かい合う形をとった。
そして、彼が微笑んだ。
「でも、来るのが少し、遅過ぎたね。」
あれ?ここには人通りがある。車も走っている。幹線道路?
なんて気付いた瞬間。
突き飛ばされた。車道に。
私は転びながら、今度こそ恐怖が全身を貫いた。
車に轢かれるっ!
それしかなかった。