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沈黙の午後

それから、いくつかの朝と夜が過ぎた。

けれど、時間の流れは実感できなかった。

一日が始まり、終わっていく。

ただそれだけのことを、

僕はまるで他人の生活を観察するように見つめていた。


時計の音だけが、

この世界に時間というものが存在する証拠のように鳴り続けていた。

「チチ…チチ…」と小さく響くたび、

自分がまだこの部屋に縛られていることを思い出す。


食事の味はほとんど感じられなかった。

スープを飲んでも、

熱さと塩気だけがわずかに舌に触れる。

それでも、胃がその温度を受け取ると、

身体のどこかがほっとする。

それが、いまの僕にとっての“生きる”ということだった。


外に出る勇気はなかった。

カーテンを少しだけ開けて、

街の音を聞いた。

人の話し声、遠くの車のエンジン、

風が電線を震わせる音。

それらのすべてが、

この部屋の外に広がる“現実”の名残のようだった。


机の上のノートは、

あの日から一度も閉じられていない。

ページの角が少し丸まって、

指先の跡がそのまま残っている。

僕はそのページをめくることも、

消すこともできずにいた。


ノートの隅には、

小さな文字で「breathe」と書かれていた。

それは、以前の僕が練習のつもりで書いた単語だったのかもしれない。

しかし今読むと、それがまるで祈りのように見えた。

「息をしている」という事実を確認するための、

簡単で確かな呪文。


午後になると、

窓の外の光が柔らかくなった。

風の匂いがわずかに変わる。

初夏の湿った空気が肌に触れ、

それが現実の境界線のように思えた。


僕は、カーテンを少しだけ開けたまま、

風を受けていた。

髪がわずかに揺れる。

その感触が、奇妙に懐かしかった。

まるで、世界が僕を思い出してくれたような気がした。


夕方になると、

近所の子どもの笑い声が聞こえてきた。

その音は軽く、まっすぐで、

僕のいる部屋には届かないほど遠かった。

けれど、不思議と耳を塞ぎたいとは思わなかった。

ただその音の存在を認めるだけで、

世界が完全には壊れていないことを知った。


夜、照明を消すと、

窓の外の灯りが薄く差し込んでくる。

天井に浮かぶその光の揺れを眺めていると、

自分の輪郭が少しずつ戻ってくるような気がした。


静けさの中で、

脳のどこかがまだ動いている。

息を吸うたびに、

胸の奥が微かに上下する。

その繰り返しが、

この世界との唯一の往復運動のように思えた。


机の引き出しの奥には、

薬の瓶が残っていた。

蓋を開けることはなかった。

けれど、その存在が

妙な安心をもたらしていた。

“いつでも終わらせられる”という感覚が、

“今はまだ終わっていない”という現実を保証してくれる。


僕は瓶を見つめながら、

心の奥でゆっくりと言葉を探していた。

「生きたい」とは違う。

「まだ死ねない」とも違う。

そのどちらでもない場所に、

僕はいま立っているのだと思った。


ノートに視線を戻す。

「まだここにいる」

あの言葉は、もう滲んではいなかった。

乾いたインクが、

紙の繊維の中で確かな線を描いている。

それを見つめていると、

胸の奥がかすかに温かくなった。


――存在するとは、

こんなふうに“感じ取る”ことなのかもしれない。


夜風が窓を叩いた。

外では、どこかで犬が吠えている。

遠くの生活音が、

静かなリズムで世界を縫い合わせている。

僕はその音に合わせて、

ゆっくりと呼吸をした。


目を閉じると、

暗闇の向こうにまだ色があった。

それは赤でも青でもなく、

名前のつかない、淡い光の層。

世界が壊れていない証のように、

その色だけが静かに残っていた。


――明日は、少しだけ外に出てみようか。


それは約束でも希望でもなく、

ただ、今の自分を少しだけ肯定するような独り言だった。

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