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13/20

夜を歩く

夜になって、僕は部屋を出た。

外の空気は思っていたよりも冷たく、

その冷たさが皮膚に触れるたびに、

世界の輪郭を指でなぞられているような感覚があった。


アパートの階段を下りると、

街灯の光がゆっくりと足元を照らした。

湿ったコンクリートの上に、自分の影が伸びていた。

その影は、少し遅れて動いた。

まるで、身体と心の間にわずかな時間差があるように思えた。


歩きながら、

何も考えないように努めた。

思考を止めるのではなく、

思考の流れに自分を委ねるように。

足音がアスファルトを叩く音が、

呼吸の代わりになっていた。


遠くで車のライトが流れていく。

光の筋が一瞬だけ顔を照らして、すぐに消える。

それは生の断片のようだった。

誰かの会話、信号の音、風に揺れる旗の音。

あらゆる音が遠くでかすかに鳴り、

世界が生きていることを知らせていた。


角を曲がると、小さな公園があった。

夜風に草の匂いが混じっている。

土の上を歩くと、足の裏に柔らかな感触が伝わった。

子どもたちの遊んだ跡、ベンチの落書き、

誰かが置き忘れたペットボトル。

そのどれもが、

人の痕跡であり、時間の証だった。


ベンチに座って、しばらく空を見上げた。

雲の切れ間から月が見えた。

光が淡く広がり、

夜の空気を少しだけ明るくしている。

その明るさが、痛みのように胸に刺さった。


僕はポケットから小銭を取り出し、

近くの自販機で缶コーヒーを買った。

冷たい金属音が、夜の空気に響いた。

缶を両手で包むと、

ぬるい温度がゆっくりと掌に移っていく。

その移動のわずかな時間に、

「まだ時間が流れている」と思った。


缶のふたを開けて、

ゆっくりと口をつけた。

苦みが舌に広がる。

その味が、なぜか懐かしかった。

何度も味わってきたはずの“苦さ”なのに、

今は違う意味を持っていた。

それは、確かに“いま”の味だった。


通りの向こうを、

一組の男女が歩いていた。

手をつなぎ、笑っている。

彼らの笑い声は、風に混じってかすかに聞こえた。

その音が胸を締めつけた。

けれど、憎しみではなかった。

むしろ、懐かしさに近い感情だった。

誰かと共に歩くということが、

どれほど尊いことだったのかを思い出した。


それでも、僕は誰かと歩きたいとは思わなかった。

今はただ、この静かな夜の中で、

一人で呼吸をしていたかった。

それが唯一、

「まだここにいる」という実感を保つ方法だった。


しばらく歩いて、川沿いの道に出た。

街灯が一定の間隔で並び、

その光が水面に長く伸びていた。

水の流れる音が静かに響く。

耳を澄ますと、

その音が呼吸と同じリズムで続いていた。


僕は柵にもたれ、

その流れをじっと見つめた。

川の水は止まらない。

夜の闇の中でも、

確かに前へと進んでいた。

それを見ていると、

自分もまた、止まってはいないように思えた。


ふと、あの日の自分を思い出した。

薬を飲んで、

この流れを手放そうとしたあの夜。

その記憶が、

いま目の前の水と重なった。

あのとき止めようとした時間は、

結局のところ、止まらなかった。

止められなかったからこそ、

僕はここにいる。


月が少し高くなり、

川面の光が揺れた。

風が頬を撫で、髪を揺らす。

その感触に、

わずかな痛みと安心が混じっていた。


歩き出す前に、

もう一度夜空を見上げた。

星は少なかった。

でも、ひとつだけ、はっきりと光る星があった。

その光は、

地上のどんな明かりよりも静かで確かなものだった。


――生きるとは、

消えない光の下で、

絶えず歩き続けることなのかもしれない。


僕はそう思いながら、

ゆっくりと歩き出した。

足音が、夜の道に溶けていく。

世界がまた、わずかに僕を受け入れた気がした。


誰にも気づかれず、

僕は再び、世界に帰ってきた。

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