ナウラの歎願(たんがん)③
【前回のおわり】
ナウラは巨大彗星「おつき星」の説目をヒネに行っていた。
「高濃度の水素を含んだ“水素氷”を彗星はまとっております。そして氷が解け出すのと同時に、一緒に封じ込められていた水素もまた、解き放たれるのです」
「そしてもう一つ、彗星は、長く宇宙を彷徨う間に塵や汚れといったものも多くまとっております」
そう言って、ナウラは声の調子を一段階下げ、暗い色を瞳に滲ませる。
「想像してみてください。惑星パムゥの重力につかまり、行き場を失った彗星から大量に溶け出す水素氷。
目下の重力といえば、すぐそこにある惑星パムゥです。惑星パムゥの重力に引き寄せられた氷の塊は、一部が水と化し、同じく溶け出した大量の水素や塵・汚れとともに大気の壁を突き破る。多くの水分は気体と化すでしょうが、そんなもので溶け出た氷の粒がすべて消滅するはずもございません。あの量を見ればおわかりになるでしょう?」
ヒネは少し視線を横に流す。ここは地下5階だ、当然窓はない。しかし、あるはずのない窓を探さずにはいられないほど、追い詰められた気持ちになる。もう一度、頭の中に映し出されるナウラに意識を戻すと、その目には深い憂いが見てとれた。
「最初に燃えるのは塵やほこりといった汚れでしょう。ですが、それはわずかで構わぬのです。一度着火したわずかな火は、次に酸素・水素が混じった気体に……」
そこまでナウラが言ったとき、ヒネはたまらず口を挟んだ。
「ですが、先ほどナウラ様はおっしゃいました。塩梅が、加減が必要だと。酸素1に対して水素は2、必要でございます。どちらかが多すぎても少なすぎても問題なのでございましょう? それなのに、そのように都合のいい割合で……」
そう言いかけてヒネは言葉をのんだ。そんな、そんなまさか……そんなはずは……
「そんなはずなどありましょうか……」
次の言葉を口にしたのはナウラの方だった。その眼からは涙がこぼれている。
「いいえ、必ずしも1対2でなければならぬ、というわけではございません。たとえば塵や汚れに混じり“触媒”となるものが混ざっていたなら、この限りではないのです。ですが、それでもそんな……すべてがまるで図ったかのように、必要な条件のなにもかもが完璧に揃うなど、到底あり得ぬことでございます。ですから兄も言及しなかったのです。そんなことはさすがにないであろうと……」
ナウラの声はかすれていた。つられて泣きそうになりながら、だが、次に新たな不安がヒネの胸に押し寄せる。
「つまり……想定以上の水が降り注ぐと?」
ヒネはナウラに向き直るが、ナウラは下を向いたまま目頭を押さえている。
「だから、パムゥは……パムゥの大陸はーー」
ナウラは一つ鼻をすすると、真っ赤な目をヒネに向けて言った。
「パムゥの大陸は間もなく沈みます。ですが、それだけにとどまりません」
――それだけにとどまらない?――
ヒネはそれ以上の悲劇など、どうしたら思いつくのかと頭を巡らす。ナウラは続けた。
「想定以上の水が降り注ぐことで、惑星パムゥの質量自体が増えるでしょう。そうなれば重力は増し、立っていることすらままならぬほどの体重を私たちは感じるようになります。さらに、このまま惑星パムゥの酸素が、水素と結合し続けることでどんどん奪いとられるなら、最終的には呼吸をすることすら私たちには容易でなくなるかもしれません。」
――それはつまり――
後ろから突然頭を殴られたようにヒネは感じた。もはや何も考えられなくなっていた。
「このことをカダ様にお伝えしていただきたいのですが、しかし今となっては、もはやどうすることもできますまい」
ヒネは、はっとして目を上げる。
「ですが私は解せぬのです。先ほども申しました通り、これは……このようにすべての条件が完璧に揃うなど、科学的に考えてもあり得ない確率なのでございます。つまり、これはもう……」
ナウラは、そこで一度言葉を切った。そして、血走った眼をヒネに向けたまま、次の言葉を口にした。
「誰ぞの策謀ではないかと私は考えております」
ヒネは「策謀」の言葉にドキリとする。
そのようなことを企てるような者がいるのだろうか? あるいは企てたとて実現は可能なのであろうか……。
「しかし、今となっては我々には打つ手がないのでございます。ですが、仮にこれが策謀ならば、人智を超えた所業を可能にした者がいるということでございます。ならばその策謀の主を見つけさえすれば、やはり人智を超えた力でこの災禍を収められるやもしれません。そのことをどうかカダ様にお伝えいただきたく、ヒネに連絡をいたしました。どうか……」
そう言ってナウラは絞り出すような声を出す。
「わかりました、必ずカダ様にはお伝えいたします」
ヒネはナウラに約束した。ナウラは真っ赤な目から、もう一度涙をこぼし「ありがとう」と答える。
「ヒネ、もう一度申し上げます。この大陸は、あまり長くはもちますまい。なるべく早く船に乗り、別の大陸へと逃げてください」
ナウラは最後に念を押すように言った。
「ナウラ様こそ、必ずお逃げくださいませ。そしていつの日か、また実際にお会いしとうございます」
ヒネはそう答えたが、ナウラは微笑し、首を横に振った。
「お兄様の具合が芳しくないのでございます。もともとの持病が数か月前より悪化し、床に臥せたままで、今ではすっかり弱りきってしまいました。きっとどこかへ逃げたところで、もう長くはないでしょう……」
ナウラは寂し気にそう言った。
「私たちはよいのです。好きな勉学にのめり込み、愛する者たちと共に幸せに生きて参りました。思い残すことはございません。ですがヒネ、あなたがたのように若い方々には未来を紡いでほしいのです。そして次の世代へと命をつないでほしい。ヒネ、どうかご無事で」
これがナウラとの最後になるだろうと、ヒネは確信した。
幼いころに憧れたナウラの姿をもう一度、ヒネは脳裏に思い浮かべる。生き生きと学問を教授する在りし日のナウラ、そして多くの子どもたちを勉学の魅力へと誘った彼女の功績を、ヒネは深く胸に刻んだのであった。
ナウラに別れを告げたあと、ヒネは急ぎカムイクジナへ向かった。カダへ報告するためだ。
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