嵐の前の、『初恋』香る朝①
「百蓮なら一つだけ、垣多津なら慈紺と泰高も併せて交換できる。どうしよう、百蓮とはどんな味なのでしょう」
淡い陽光が差し込む執務室で、古い書物の香りを感じながら、ヒネは重厚な机の前に座っていた。机を挟んだ向かいの、誰もいない席に目をやる。
「少し遅れる」カダから報せをもらったのは、執務室に入ったころだった。そのころには、朝の陽光に照らされていたカダの椅子だったが、今はもう、どこにも陽は落ちていない。
ヒネは、先ほど脳内で閲覧していた茶の目録に意識を戻す。
――百蓮。通称「初恋のかほり」と呼ばれている茶でありますが、実際の香りはかすかに華やぐ程度です。では、なぜ「初恋のかほり」と呼ばれているのかというと……
「すまない、遅くなった」
カダが、珍しく慌てた様子で執務室に入ってきた。
しかしヒネの顔を見るなり、動きが一瞬止まる。そして、ゆっくりと自席に座ると、苦笑して言った。
「なんだ、特に報告がないのなら、その旨を書き置いて去れば、時間も無駄にせずに済んだであろうに」
カダは本当に、なんでも見通すのだなと、ヒネは尊敬する。今は、朝の報告の時間である。「肉の夢」について、また、毎朝きこえる唄に変化がないかを報告するのだ。しかし、今朝は「肉の夢」はみていない、唄に変化もない。
確かに、遅れたカダを待つ必要などなかった。
だけど……。
「何をしておったのだ?」
カダは、机に積み上げてある書類の束を、いくつかの塊に分けながらヒネに聞いた。
「価物受給権の使い道を考えておりました。明日が受給日なのです」
書類の束を持ったカダの手が一度止まる。
「かぶ……ああ、そうか」
価物受給権とは、簡単に言ってしまえば「自分の欲しい物」と交換できる権利だ。
パムゥでは、貨幣制度はない。人々は、スベラギから毎月支給される「食科物受給権」で食料を、「生活物受給権」で生活に必要な物資を引き換えて生活を営んでいる。
しかし近年では、食料や物資の種類が増え、また人々の需要も多様化してきたため、新たに自分がほしいものと交換できる「価物受給権」という制度が導入されたのだ。
「何と交換する気なのだ?」
カダは視線の先を書類の束にやったまま、少しだけ笑みを浮かべて、ヒネに問う。
「な、内緒でございます」
ヒネは視線を泳がせるように、小机が置いてある執務室の端へ眼をやった。
「カダ様は? 何と引き換えられることが多いのですか?」
無駄な質問だと思いつつも、ヒネはカダに問い返した。
「ふむ……価物受給権か。最後に交換したのはいつであっただろう」
先ほどまで書類に落としていた視線を宙にやり、カダはつぶやくように答えた。
「え……まさか、交換してないのですか⁉ もったいない」
ヒネが思わず声を上げる。
価物受給権には期限があり、また寝かせるほどに価値が減るのだ。
各「受給権」は、個人の頭部に入っている電子機器と、スベラギの統括管理機構で管理されており、数値化された一定の権利が、各人の誕生日にあたる日に毎月付与される。
しかし、食科物・生活物受給権とは違い、価物受給権は付与された日がもっとも高い価値をもつ。日数を追うごとに、少しずつ価値が減っていく仕組みだ。
この「価物受給権」は、個人間でのやりとりに使われることが主となっており、物を提供した側は、交換によって受け取った受給権で、新たに自分が欲しい物と交換できる。しかし、その価値は、やはり受け取った日から徐々に減っていく。
価物受給権は、支給を受けた日から一年ほど経つと、その価値をほとんど失ってしまうのだ。
そのため、受給後はなるべく早く、欲しい物と交換しようとするのが一般的だ。
価物受給権は貯蓄こそできないものの、物々交換の手間を省いてくれるだけでなく、人々の生活を潤す役を担っている。また人々の意欲を高める動機にもつながり、さまざまな分野の技術促進を加速させる要因となっているのだ。
「ミコトなんぞをしていると、使う機会も、ほしい物も、ほとんど無きに等しくなるのだ」
カダは笑いながら言った。
仕分けが終わった書類の束を、今度は順番に重ねていくカダの手元を、ヒネは目で追っていた。忙しない様子に気がついて、ヒネがそろそろ席を立とうかとしたときだった。
「茶でも飲んでいくか?」
カダが、ヒネのほうを見て言った。ヒネは一瞬、躊躇した。
「せっかく待たせたのに、何もなしに返すのは心苦しい。一杯、飲んで行きなさい」
そう言って、カダは静かに席を立つ。執務室の端のほうに設えられた小机まで移動し、白い茶筒に手を伸ばしたところで、カダの手が止まる。一泊置いて、白い茶筒の隣にあった青い茶筒のほうを手に取った。中から掬い出した茶葉を、軟らかくしなる木で編まれた小さな籠に入れる。それを透明な急須に入れ、所定の場所に置いた。
すると、見る間に湯が下から回転しながら汲みあがる。やがて回転が緩やかになりはじめ、そのうち完全に流れがおさまった。
その不思議な光景を、ヒネは食い入るように見つめていた。
「なんと綺麗な紺青色でございましょう」
ヒネは、急須の中に出来上がった美しい青色の茶を眺めながら、ため息を漏らす。
頬を桃色に染めて、透明な器に注がれた透き通るような青い茶をカダから受け取った。顔を近づけてみれば、かすかに華やぐ香りがする。
扉が開く音にヒネは顔を上げ、音のした方を振り返る。カダが隣の部屋へ入っていく所だった。隣はたしか、カダの自室だったはずだ。
「あとで、これを茶の中に入れてみよ」
そう言いながら、執務室へ戻ってきたカダの手には、黄色い果実が握られていた。ヒネは、途端に口の中に酸味が広がる感覚を覚え、唾を飲みこんだ。非常に酸味のある柑橘系の果実だ。
手にした果実を、カダは茶の道具一式が載った小机で切り分ける。とたんに、爽やかで清涼な香りが室内に広がった。
先ほど、茶を淹れる時もそうだったが、カダの所作は非常に美しいとヒネは思った。故郷のマガで、近所に住んでいた女性の、同じように洗練された仕草を思い出す。
目の前に置かれた、薄く切られた果実を目におさめながら、ヒネは両掌で包み込むように持った器に細く息を吹きかける。
「価物受給権か……オウガ殿が残した最後の功績ともいえような」
ヒネは目を上げる。オウガとは、歴代最高と謳われた、かつてのスベラミコトである。ヒネは、言葉にできない違和感を覚えたような気がした。
自席にもう一度腰を下ろしたカダは、茶の香りをかぐように、鼻先に器をもっていく。穏やかな表情は、少し楽しそうにも見えた。
「オウガ」という言葉から、先日ヨヲセと話していたカダの年齢の件を連想したヒネは、これは好い機会かもしれないと思い、カダに問うた。
「カダ様は今、おいくつなのですか?」
するとカダは、一拍の間を置いたあとで、穏やかに答えたーー。




