到着!
荷物を搬出した日から二日経ち、私は南海駅に降り立った。
ここに来るまで、いくつ山を越えただろうか。
電車ではなく汽車が走っており、汽車が進んでいくたびに、街の規模がどんどん小さくなる。峠を越えていく度に、私はどんなところに住むのか不安になっていた。
不安を抱えたまま、改札を探す。自動改札機はなくて、マスクをした駅員がホームの先に佇んでいる。私は暇そうにしている駅員に切符を手渡しして、改札を出た。
駅舎には人気がなく、タクシーが1台だけロータリーに停車していた。
駅舎から出て、辺りを見渡す。さすが南国とだけあって、大きなヤシの木が道路の中央分離帯に沿って、何本も植わっている。きっと台風が来ると、揺れるヤシの木をテレビカメラが撮るのだろう。
そして、ヤシの木より高い建物はどこにも見えなかった。
タクシーに乗り込み行き先を告げる。
「お客さん、どっから来たんか」
運転手が話しかけてくる。
「えっと、東京から来ました」
「東京からかね。というと航空会社から出向してきたスチュワーデスさんか」
なんでこの人が知っているのだろうか。私が言葉に詰まっていると、運転手が笑い出した。
「ここは小さな市やけん、情報はすぐに広まるんよ。市役所勤めの知人が話しとったわ」
「そ、そうなんですか」
どのように返したらよいか分からない。
「ここはすぐに噂話が広がるから、注意しとくんよ」
「は、はい。ありがとうございます」
心のこもっていない感謝を告げると、突然、周りの電柱から無線放送が流れ始めた。
『南海市役所からのお知らせです。本日、新型コロナウィルス、3名の感染が確認されました。市民の皆さまにおかれましては、感染防止のため、マスクの着用、こまめな手洗い、不要不急の外出を控えましょう。また、感染者を特定するような行動は慎み、むやみに詮索することはやめましょう』
感染者の特定や詮索という言葉に驚く。都会では考えられない無線放送の内容だ。
「今日は3名も出たんか。昨日言われとった市立病院の看護婦の家族かぁ。それとも、真珠会館で飲み会していた連中かぁ」
早速、目の前の人が詮索しているのに唖然とする。
「PCR検査の陰性証明書はもっとるやろうけど、姉ちゃんもコロナに罹らんよう気を付けるんよ」
「は、はい。ありがとうございます……」
引っ越す先のアパートに到着する。私は言葉少なに、タクシーから降りた。
段ボール箱に囲まれた部屋の中、南海市で初めての朝がやってきた。これから市役所への初出勤となる。
伸びをして、窓から朝日できらめく海を眺める。都会の生活に慣れ親しんだ身としては、新鮮な風景だ。
「さぁて、頑張るか!」
勢いをつけて、窓を開ける。
「えっ、くさいっ」
思わず、窓を閉める。何かの間違いだろうか、経験したことがない異臭が窓の外から入ってきた。
確かめるため、もう一度窓を開ける。
「うっ、やっぱり、くさいっ」
例えるならドックフードが腐って発酵したような臭いだ。急いで窓を閉めても、部屋まで臭いが入り込む。いったいこの臭いは何なのだ。
これから頑張ろうとしているときに、文字通り出鼻をくじかれる。げんなりした気持ちのまま、私は服を着替えた。
市役所に到着して、配属先の観光課に案内される。
「私が課長の関島です。よろしくお願いします」
50代くらいの男性が挨拶する。
「こちらが主任の島根さんと福島さんです」
妙齢の女性二人が、どうもと挨拶する。ここは四国県なのに、島根さんと福島さんとはちょっとややこしい。しかし、二人とも、目つきが厳しいのは気のせいだろうか。
関島課長からデスクを案内された後、島根さんが話しかけてくる。
「早速ですけど、自転車の運搬をお願い」
「えっと、自転車の運搬ですか」
「聞いてないの? 課長、配属の前に業務内容は伝えていますよね」
「ええ、ある程度のことは伝えているはずですが……」
歯切れ悪く、関島課長が答える。
「すみませんが、私は聞いていません」
今後のこともあるため、はっきりと言っておく。それを聞いた島根さんが大げさにため息をつく。
「じゃあ、今から説明するわ。市役所内に返却されたレンタルサイクル用の自転車があるの。それを駅前まで戻す。今朝、役所の自転車置き場にあったのは5台くらい。それを、軽トラで運んでちょうだい」
「軽トラって、自動車ですよね」
「当り前じゃない、軽トラも知らないの?」
「私、運転できません」
その言葉に、島根さんの顔が引きつる。福島さんも怪訝な表情でこちらを見ている。
「ちょっと課長! 話が違うじゃないですか!」
島根さんが関島課長のデスクに詰め寄る。関島課長も負けじと反論する。
「私だって、そこまで聞いていませんよ。普段の業務に加えて、受け入れの準備に時間を割かれていたのですから」
課長に文句を言っても埒が明かない、島根さんはそんな感じで怒りの矛先を私に向けてくる。
「運転できないのなら、自転車を漕いで往復してきなさい。まだ、何もできないのだからそれくらいはやれるわよね」
「なんで私がこんなことしなくちゃいけないのよ」
文句を言いながら、ペダルの重たい自転車を漕ぐ。都市部でのレンタルサイクルでは、電動アシスト式自転車が主流となっているが、ここのレンタルサイクルはただのママチャリだった。
「こんなことさせられるんだったら、スカートなんか、はかなかったのに!」
風を気にしつつも、ようやく駅前についたと思ったら、次は小走りで市役所に戻らなければならない。あまりにも非効率すぎる。
息も絶え絶え、最後の5台目を駅前に運んだ時だった。
「姉ちゃん、ええスタイルしとるのぉ」
フェンスにもたれた高齢の男性が話しかけてくる。白髪で所々地肌が見える。お世辞にも好々爺には見えなかった。
「姉ちゃんは、市役所の新人、には見えんのう。東京からきたスッチーさんか」
こんなところにまで伝わっているのかと、げんなりする。
私は愛想笑いをして、肯定も否定もせず自転車の鍵をかける。
「ちょっと前までは、市役所の兄ちゃんが軽トラで運んどったのに、異動になったんか。それとも辞めたんか。姉ちゃんは軽トラを使わんのか?」
「私、車を運転できなくて」
言葉少なに答える。
「こんなん役所に勤める人間がせんでもいいのになぁ。税金の無駄やけんな」
公務員叩きになりそうな雰囲気を察して、私は適当に挨拶して、急いでその場を後にした。
市役所の駐車場まで戻ってきた。今日が最初の出勤日のはずなのに、見慣れた光景だ。
普段からの運動不足のせいか、息が上がる。じっとりとした汗が服にまとわりつく。おまけに、今朝から得体の知れない臭いが鼻から離れない。散々な1日だ。
駐車場から庁舎に入ろうと、角を曲がった時だった。
小柄な女性とぶつかる。その拍子に女性の眼鏡が床に落ちる。
「ごめんなさい、眼鏡が落ちちゃいましたね」
眼鏡を拾おうとしたとき、ふと、女性の顔が視界に入った。
目がくりくりで、とても可愛い女の子に見える。アイドルのような顔つきだろうか。ただ、それは一瞬で、女性はすぐに眼鏡を拾い上げてかけなおす。胸元を見ると、職員カードが入ったストラップを身に着けているので、市役所の職員だろう。
「こちらこそすみません」
女性が素早くお辞儀をする。
小柄な女性は、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけていた。先ほどのアイドルのような印象はまったく無く、よく見ると髪型もどこか野暮ったい。私の見間違いだったのか。
「眼鏡、大丈夫でしたか」
分厚い眼鏡だから大丈夫だろうと思っていたが、一応聞いておく。
「はい、大丈夫です。あの……」
女性が何か言いかけたときだった。
「ちょっと、山本さん! 部署案内の時間に間に合わなくなるわよ!」
島根さんと福島さんだった。
「す、すみません!」
さっきから謝ってばかりだ。何か言いたげな小柄な女性を残して、私は急ぎ足で観光課に戻った。