5 角のお触りは厳禁です
えっと。
ここは間違いなく、わたしが知っているけどよく知らない場所だ。正確には領主様のプライベート空間、つまり寝室。そのふっかふかで寝心地のよさそうなベッドの上、天蓋つき。
「気がついたか」
などといい、すぐ傍にすわってわたしを撫でていたのは、もちろん領主様。じゃあさっきのアレとかアレは、夢でもなんでもなく。あれでも、どうしてわたしはここにいるんだろう。
一夜のお相手なら、それこそ姪御様なら喜んでしてくれるだろうし。むしろ、向こうから望んだ結果が、あの馬乗りの光景だったんだろうし。あぁ、でもどこかに追い出したんだっけ。
え、じゃあわたしがそれを?
……いやいやいや、他にもたくさんいたし。
まさかまさか、そんなことは。
いや、きっとこれは夢だ。夢に違いない。なのでわたしは、もう一度目を閉じる。さっさと寝てしまえばいい。夢の中で寝るとか、よくわからないけれど眠ればいい。朝よきたれ。
「あれが、ひどいことを言ったな」
しかしわたしに寝るなと言わんばかりに、領主様は話しかけてくる。だからわたしも、眠るわけには行かなくなって、渋々、もう一度目を開いて彼を見た。
薄暗い部屋の中、わたしはなぜか領主様のベッドにいて、領主様に撫でられて。姪御様のあれやこれを謝罪されて、えっと、とりあえずわたしがすべきことは、うん。
「いえ、別に気にしていませんから」
ああやって罵倒されるのは、正直慣れてしまっていた。主に領主様狙いのご令嬢に。あそこまで強烈なのは初めてだったけれど、まぁ、別に何か処分して欲しいほどではない、今は。
とりあえず身体を起こす。
精霊の歌で眠っていた身体は、やっと満足に動くようだ。
「あの、ありがとうございました。……えっと、おやすみなさい、ませ」
「……その、傷は」
挨拶をしたのに、領主様はわたしを解放してくださらない。
それどころか、あまり気づかれたくなかったあの傷に、気づかれてしまう。巫女が感情を抑える時、痛みを使うのは有名だ。一瞬で、意識をひきつけられるのが、それしかないから。
精霊の力で数日で消えるけれど、今日の分はまだ鮮やかに残っている。
傍目には、猫に引っかかれたようなものだ。
だけどこの周辺に猫はいない。
それに領主様なら、きっとこれが自分でつけた刃物傷だとわかるだろう。この方は、それを相手に与えたり、相手に与えられたりして生きてきた。この手のものは、見慣れているはず。
「夕方の、あれか」
「いえ……えっと、これはそこら辺で引っ掛けて」
「やはり大神殿に届けを」
「そ、そこまでしなくても」
「お前に対する度重なる侮辱を、どうして見逃してやらねばいけない」
まるで、自分が侮辱されたかのように、領主様の声が低く振るえ。その腕がぐっと伸ばされたかと思うと、硬く暖かい胸板が、わたしの頬に触れていた。
――抱きしめ、られていた。
あぁ、とぼんやり思う。年齢もそうだけど、やっぱり体格も違うな、と。わたしが後一人か二人ぐらい余裕で収まりそうな腕の中、暖かくて、気持ちいい。でもちょっと硬い。
だけど落ち着く。
ずっと昔、お父様がいなくなって、泣くに泣けないわたしは。この腕の中で、頭を撫でられながら泣いたんだっけ。わたしは巫女だからって、どうしても泣けなかったから。
思わず彼の背中に手を回そうとして、やめる。
ここはもう、わたしの居場所ではない。
わたしだけのモノじゃない。
「領主様、あの」
離してください、と言いかけたわたしを。
「ひ、ぅ……」
奇妙な感覚が襲った。
何をされたのか一瞬わからなかったけど、二度、三度と襲われるとわかった。わたしを抱きしめた領主様が、わたしの角に唇を寄せて啄ばんでいて、時々舌を這わせているんだ。
「あ、やぁ……や、です」
ぞわ、とした。
背筋がぞわわわわ、と。
なんだろう、この言葉にできない変な感覚。これに一番近いのは『くすぐったい』という感覚だけど、それとも微妙に違う。何か違う、初めての感覚。嫌じゃないのが、不思議だった。
かり、と音がする。
腕の中に収められた、わたしの身体が跳ね上がった。
「かかか、かじ……っ」
ばたばた、と無駄な抵抗を試みる。わたしが知る誰より、そうお父様より屈強な領主様に無意味だとわかっていても、もう無理だ。無理すぎる。わたしの頭が壊れる。
なのに領主様はやっぱりそれを押さえ込んで、ねっとりと角を舐めあげた。
あぁ、もうやだ。なんでこんなことになっているんだ。わからない。領主様、わたしをどうしたいんだろう。竜の角が弱いと聞いて、遊んでいるのかな。いやきっとそうだ、違いない。
「つ、角はおもちゃじゃ、ないんです……っ!」
必死にもがき、何とか両腕の自由を確保。
それで角をさっと隠し、身体を離そうとして。
「逃がさない」
押し倒されてしまうという、ある意味で最悪の状況に自ら陥った。
バカすぎる。
じり、とわたしの身体の上に移動していく領主様。その目はまるで肉食獣だ。実際に見たことは無いから想像だけど、少なくとも牛や馬のような優しいものではない。
きっと、戦場ではこんな目をなさっていたのだろうなと思う。
怖いというより恐ろしい。
領主様はわたしの頬を撫でる。さっき、まだ眠っていた時のように。その手つきは思わず身体から力が抜けるほど優しく、わたしはだんだんと眼光の鋭さが気にならなくなってきた。
そうだ、どんなに目が怖くなっていても、この人は領主様。
領主様が、わたしに痛いことやひどいことはしない。
角を押さえていた右手を取られ、指先に口付けされるまでは。
そんな風にまだ、思えていられた。
「このままだと、兄上はお前に縁談を押し付けかねない。どうせこちらへのあてつけに、ロクな相手では無いだろう。最悪、お前を連れて行かれるかもしれないからな」
領主様はにやりと笑って。
「そうなる前に、手に入れよう」
「え、あの……あの」
嬉しいようなむなしいような。複雑な気持ちだ。つまりわたしは、あの姪御様の邪魔になるからどこかに連れて行かれるかもしれなくて、それを阻止するために……ということ、か。
……でも、いいか。
知らない誰かと結婚させられるなら、領主様がいい。
一緒にいられるのはいいことだ。それが叶わない人だっているのだから。心が伴わないというのは悲しいけど、わたしは幸せなんだろうと、思いたい。いや、きっとそう思えるはずだ。
覚悟を決めるように目を閉じ、領主様に身をゆだねる。
「――」
首筋に息がかかり、名前を呼ばれた。
わたしがちゃんとした意識を保っていたのは、そこまでだった……と、思う。
■ □ ■
起きたらすごいことになっていた。
正確には、あれから数日たってやっとベッドから出してもらえたら、だ。何せ記憶が飛び飛びでよくわからないけれど、どうやら数日経っているらしい。……どういうことなのか。
まず、わたしの住まいが屋敷の最上階になっていた。
わたしの左手薬指に、すごく綺麗な指輪がはめられていた。
で、今から結婚式らしい。誰のって、わたしのだ。わたしと領主様の。わざわざ王都にいる兄さんや姉さん、さらに隣国にいる弟まで呼び、そこそこ盛大に行うらしい。
挙句、それぞれの伴侶までいて、なんだろうこれよくわからない。
わたしが眠っている、もとい誰かのせいで意識がすっとんでいる間に、どうしてこんなことになってしまったんだろう。いや、別に嫌ではない。領主様のことは、そのずっと。
ずっと、お慕いしていたから……嬉しくて。
ゆえに信じられない。あまりの急展開がわけわからない。
夢じゃないかと思うけど、そこはかとないこの足腰の重みは現実だと告げる。着ているのは夢にまで見た純白の花嫁衣裳、ウエディングドレス。そして可憐な花を使ったブーケ。
ヴェールはもう邪魔なのではずしてしまったけど、さっきまでわたしの視界を薄く覆い隠していた。それを取り払ったのは領主様――花婿様。あぁ、思い出すだけで恥ずかしい。
だけどある意味で、それでこれが現実だと受け止められた気がする。
わたしは、喜んでいいんだ。
ずっと慕っていた人の、お嫁さんになれたのだから。
「何をしている?」
隅っこでぼんやりしていると、領主様が近寄ってきた。この日のために引っ張り出してきた礼服はかっこよくて、思わず見惚れてしまうほど。彼はわたしを抱き寄せ、抱きしめた。
「えっと、なんだか現実味が薄く……」
気づいたらこうなっていたんだから当然だと、言いながら思う。
とりあえず、夢でも現実でもいいから、ずっと聞きたかったことを聞いておこう。たぶんこれ以降に聞いたら答えてくれないか、あるいは数日ベッドの上の住民にされそうだから。
「あの、どうしてわたしなんですか?」
「どういう意味だ」
「だって、ずっと娘か何かと同列扱いだと、思って」
つまり恋愛対象でもない、と。あえて言うなら近所のおじさんや親戚のおじさん、みたいな感じだろうか。家族に限りなく近い存在。恋愛対象にはなりにくい立ち位置。
だから、諦めていたのに。
「……そのつもり、だったんだがな」
「つもり、だった?」
「兄上が娘を送り込んできて、寝込みを襲われ、お前に見られ……正直、ぞっとした。手に入らなくてもずっと一緒にいると思っていたものが、この手からまた零れ落ちるのかと思った」
する、と頬を撫でられる。
手袋越しでも感じる暖かさが、嬉しい。
「だから手元に置く、一番の方法を取った。もう手放してはやれないな。泣いても喚いてもお前は俺の妻だ。もうどこにもやらん。ずっとこの屋敷にいて、俺の傍にいてくれ」
「……はい。わたしは、ずっと領主様の傍にいます」
「その呼び方、何とかならんか。名前で呼べとは言わないが」
「だ、ダメですか? えっと……それじゃあ、旦那様で」
ぽすん、と領主様改め、旦那様の胸に頬を当てる。硬い。でもあったかい。そうするうちに背中に腕が回って、わたしはぎゅっと少し苦しいぐらい抱きしめられた。
これからずっとわたしは、この人の傍にいる。
少し背伸びをして、ほんのり赤いその耳に今の気持ちを囁いた。
大好きです、ずっとずーっと大好きです。
……あぁでも、角をいじるのはもうだめですよ。
あれは、よくない。