序
―駆ける。ただ、ひたすらに―
疎らに木々が生えるだけの岩肌の合間を縫う様に、一人の女性が一心不乱に山道を駆け降りていた。棚引く豊かな長髪は照り付ける夕日を受けてなお赤く染まらない程に見事な銀色をしていた。その一条の光の尾を残して走る女性、ミーナ・ヴァリュソーは平時ならば優しげと映る表情をきつく引き締めて必死に両の足を繰っていた。その胸に抱いた布包みを大切そうにぎゅっと抱きしめている。彼女の腕の隙間から投げ出された細く小さな手足から、何かの子供を抱えている事が分かった。
「はあっ、はあっ……」
既に大きく開いた口から、苦しげに息を吐き出しつつ、ミーナはチラリと一瞬だけ後ろを振り返った。
(いないよね……)
内心で呟きつつも、ミーナは警戒を緩めない。すぐさま周囲でどこか隠れられそうな場所を探し、視線の先にあった岩肌から大きく突き出た巨岩が数カ所並んでいる所に向かう。そして、ゆっくりと胸に抱いていたそれを岩の間に丁寧に下ろした。特徴的な尖った耳、ずんぐりとした横に広い頭、赤ら顔で頭髪の類は一切無い。そう、ミーナが胸に抱いていたのは人間では無くゴブリンの子供だった。人間でいえばそろそろ十歳位になるだろうかといった年格好だが、元々が小柄なゴブリンの子供はそれよりも遥かに小さくて頼り無げだ。ミーナは静かに眠るそのゴブリンの子供の様子をじっと見ていた。そして、大きく息を吐き出すと決然とした面持ちで立ち上がり、一人元来た道をゆっくりと戻り始めた。
「貴方は、私が守るから……」
途中、少しだけ岩影を振り向き、ミーナは小さく呟いた。そしてすぐに前にある道を走り始める。彼女は、二度は振り返らなかった。
ミーナ・ヴァリュソーはこの国、ロルスック共和国の山岳保安隊に所属している。幼い頃から山岳地帯にある小さな名も無き町で生まれ育った彼女は目印となる物の無い山道を熟知していた。どこをたどればどの街に行くのかといったものから、はたまたどこに水場があるのかといった事まで。
だからこそ、彼女は誰よりもよく理解していた。アレからは―――決して逃げられないと。
(来たっ!)
緊張した面持ちで身構えたミーナの前に現れたもの。それは、
「グルルルル!」
全長が人間の大人の男性二人分程もある巨大な黒い狼だった。ミシリミシリと一歩ずつ、確実に目の前の獲物を捕えようとゆっくりと近づいて来る狼を見て、ミーナの身体は一瞬恐怖に強張る。しかし、なんとか逃げられるようにと岩陰に隠したゴブリンの子供の姿を思い浮かべてその恐れを強引に振り払った。そして、両の手を広げて前に突き出し、キッと大狼を睨み付ける。
ミーナが構えた瞬間、狼は一瞬ヒクヒクと鼻をうごめかすと、不意にその体勢を低く地面に這いつくばる様なものに切り替えた。そして、ピンとその尾を突き上げたまま、牙を剥き出しにして威嚇する様に静かに、しかし強く唸り始めたのだった。明らかな警戒。しかも、このような巨大な肉食獣が見せるものとは思えない程に強い警戒を大狼はミーナに向けていた。ミーナに気圧されたのだろうか?ゴブリンの子供を救うと決めた彼女の決意が捕食者としての狼の気迫に勝ったのだろうか?否。狼が警戒を顕わにしたもの。それは、もっと直接的で、それでいて現実的な物。それは、
まっすぐ前に突き出された『人間の男性の頭よりもさらに一回り以上も太い両の腕』
だった。
異様としか言い様の無い膨大な筋肉。しかし、肥満という訳では無い。むしろ美しいまでに均整がとれていた。人間の成人男性よりも頭一つ分以上高い身長から、彼女の筋肉は太いというよりも大きいという印象を抱く。そして、その巨大さに見合う、腕に何本も走る血管は込められた力からか、それとも彼女の緊張からか細かくぴくぴくと震えていた。しかし、その中心たる上腕は一切ぶれる事無く目の前の敵に向かっている。人間では有り得ない力強さと筋肉量。だが、それも当然と言えば当然だ。色白でおっとりとした童顔は人と見分けがつく点は全く無いが、彼女ミーナ・ヴァリュソーは人間では無くバーバリアン。しかも、先祖代々の血統を持つ純血のバーバリアンなのだから。布地が張り裂けんばかりに張った、自身の胴回りよりも太い大腿筋を乗せた両足で強く地を踏みしめる。足場の不安定な山道では、どれだけ身体を安定させられるかが強大なパワーを生み出す鍵になる。そして、その条件を間違い無く満たすであろう、鍛え上げられた四肢は余分な脂肪が一切無く、彫像の様な深い彫を見せている。
常識の埒外の筋肉を持つバーバリアンの女性と、尋常ならざる巨体を持つ大狼。その戦いは合図も無いまま突如堰が決壊する様に始まった。
「やあああっ!」
先に仕掛けたのはミーナの方だった。グンと大腿筋を躍動させて右腕を振りかぶり、狼に向って突進する。ゆうに人間の男性三人分程もある体重が乗った拳が突き出される。が、
「え?」
振り抜かれた一撃が捕えた感触は生物とは似ても似つかない硬質なもの。ミーナの腕は狼では無くその後ろにあるごつごつした岩の一つに突き刺さっていた。
「ごほっ!?」
慌てて拳を引き抜いたミーナだったが、身構えるよりも先に脇腹に鈍い衝撃を受ける。ミーナの拳が突き刺さる直前、一瞬で飛び退った狼が着地の屈曲をばねにしてミーナに猛然と体当たりを喰らわせたのだ。その一撃のあまりの威力に一瞬息が詰まるミーナ。分厚い筋肉の鎧の上から尚もずしりと内臓に響く重い一発だった。だが、表情を歪めながらも、なんとか狼を振り払おうとする。もしこのままその鋭利な牙を突き立てられてしまえば勝負はここで付いてしまうのだ。
「このっ!」
ブウォン!と風鳴りを起こしながら大木の様なミーナの剛腕が振り抜かれる。大狼は最初の一撃を、身を伏せてかわしたものの、遮二無二に繰り出される致命的な連撃に堪らずミーナから距離を取る。
「ハッハッ……」
滴り落ちる冷や汗。命の危機にあるという恐怖から止め処無く流れ落ちるそれは、山岳保安隊の灰色の制服に染み込み、ずっしりとした重りとなって緊張と共にミーナにべったりと纏わり付く。普段ならば羽毛ほどの負荷すら感じないそれは、今確実にミーナの意識と筋肉に牙を剥いていた。
ジリッ、ジリッ、と距離を爪の先程ずつ詰めて行くミーナの前で、突如狼が仕掛けて来た。何の技も無い、獣らしいただの突進。しかし、同時に獣らしい尋常では無いスピードがそれには込められていた。更に悪い事に、その奇も何も無い突進に逆にミーナは虚を突かれてしまった。
「げほっ!?」
結果、逃げる事も威力を殺す事も出来ずにミーナは狼の全体重をどてっ腹にもろに喰らってしまう。衣服のせいで窺う事は出来ないが四肢と同様に恐らく鍛え込まれて、ごろりと大きな拳大の塊六つに割れているであろうミーナの腹筋をもってしても、自分よりもさらに一回り大きな狼の突進は無視できないダメージとなって彼女に重くのしかかる。
「くうううぅぅ……」
苦しげに眼をぎゅっと瞑りながらも、ミーナはなんとかその場で踏み止まる。必死に狼を押し戻そうとする両の腕が、力を込める度にググッググッと膨張する。ビグッ!ビグッ!と脈動するミーナの太い血管。とうとう耐えきれなくなった制服の肩布がパンッと音を立てて弾け飛ぶ。
「グルルル!!」
「ううぅっ!!」
そして、懐でもがく狼を何とか抑えつけようと頭を上から押し潰すが、体格で勝る狼がミーナの拘束を破るのは既に時間の問題だった。
「くっ……えいっ!」
「ガアッ!?」
チャンスが訪れた。狼の顎がミーナの手を振り解こうとした瞬間、僅かにバランスが崩れた。そして、咄嗟にミーナは自身の岩石の様な太腿を上に思いっきり突き上げたのだ。その一撃は狼の死角から強烈な不意打ちを加えた。人間ならば顎の骨が砕け散る程の暴力を受け、狼の力が一瞬弱まる。その様子を見て取ったミーナはすかさず狼の頭を捕まえ直すと、すぐさま二撃三撃と追撃を加える。
「はいっ!はいっ!とおっ!!」
「ガッ!グガァ!!ギャンッ!?」
さしもの巨狼の顎骨もミーナの渾身の打撃を喰らい、バキンと音を立てて叩き折られる。
(まだ、終わりじゃ無い!)
この一手で戦局が大きく有利に傾いたにも拘らずミーナは追撃の手を緩めない。巨岩の様な太腿からの膝蹴りは一撃一撃が必殺とはいえ未だに死んでいない巨狼の生命力。そして何より、地力は向こうの方が遥かに上なのだ。
(油断なんて出来ない!)
息の根を止める事になっても、手を緩めてはいけない。ミーナは渾身の一撃を繰りだした。そして、
それが悪手となった
ミーナが全力の一撃を繰りだそうとした瞬間、力を込める為にほんの一拍だけだが間が空いた。時間にして瞬き一つ分程。しかし、その一瞬の間で、自らも命の危機を本能で感じ取っていた狼は死力を振り絞って大地を掻き毟ったのだ。岩肌の地面を抉る様な強烈な突進がミーナを襲う。更に悪い事に、ミーナは自身の太腿を既に振り上げてしまっていた。両の足でも押し負ける大狼の競り合い。片足のミーナが耐えきれる訳が無かった。
「きゃあっ!?」
巨岩の様な太腿の一撃が空を切るのとほぼ同時に、吹き飛ばされたミーナの巨体は岩肌の地面に思いっ切り叩きつけられた。間髪入れずミーナの上にのしかかる巨狼。その事に気付いたミーナは必死にもがくが、巨木すらも軽々と圧殺しそうな腕は抑えつけられたまま地面に突き刺さる狼の鋭利な爪で縫い付けられて引き抜くことすら出来ない。足の方はミーナ以上の巨大な狼の胴体によって押し潰され、僅かばかりも動かす事は出来なくなっていた。
「グルルルル……」
とうとう捕獲した餌。未だに諦めようとしない自らの糧に嘲笑の様な唸り声を捕食者は上げる。腐臭と獣臭が綯交ぜになった生臭い臭いと共にべとべとの唾液がミーナのかんばせを汚している。
「いやぁ、臭いぃ……!」
「グオオオオオオォォォォォン!!!」
鼻を突く悪臭にポロポロと涙を零しながら何とか逃げ出そうとするミーナ。しかし、狼はそれを許さず目の前の肉に誇示するかのように、見せ付けるかのように、大きく咆哮を上げる。連なる山脈全てに響き渡るかのような轟音。そして、とうとうその時が来た。長い威嚇と鼓舞の鬨を終え、ゆっくりと狼がミーナの太い首筋にその鋭い牙を突き立てようとする。最後の一瞬まで必死にもがき続けるミーナ。意に介さず肉に食らいつこうとする餓狼。そして、その牙が首筋に触れた瞬間、ミーナはギュッと堅く瞼を閉じた。
だが、何故かその時はやって来なかった。
いつまで経っても突き立てられる事の無い狼の牙に、ミーナは恐る恐る目を開いた。まず目に飛び込んでくるのは自分を今にも喰い殺そうとする巨狼。そして、その首で淡く光る、青白い揺らめく陽炎の様な光の輪だった。
「……え?」
ともすれば幻想的とも取れる光と、それに似つかわしく無い暴獣の対比にミーナは思わず小さく声を漏す。その時、パチリと何かを弾く様な音がどこかから響いて来た。
「なっ!?」
絶句するミーナ。当然と言えば当然だ。何せ、目の前に居た巨大な狼が、まるで氷か何かが溶けるかの様にその端から消え始めたのだ。口元と尾に始まり、身体、そして四肢へと氷解は進んで行く。既に前足と後ろ足だけになったそれをミーナはただただ呆然と見詰めていた。
「嘘……」
呆けた表情のまま、ミーナが呟いた。絶対に有り得ない、否、『この国では』絶対に有り得ない光景にミーナは硬直するしか無かった。
「魔……道?」
その言葉が紡がれるのと巨狼が掻き消えるのはほぼ同時だった。
突如繰り広げられたロルスック共和国では起こり得ない光景に、未だ現実感を得られないミーナ。地面に横たわったままのミーナに、不意に若い男性の声が掛けられた。
「おう、大丈夫か?」
「!?」
その声にハッと我に返ったミーナはすぐさま起き上がると、キョロッキョロッと慌ただしく周囲を見回した。
「こっちだこっち」
投げかけられた声の方をすぐさま振り返る。
「怪我は無かったか?」
「……」
ミーナの視線の先、そこに居たのはこの山道の風景に似合わない、奇妙な装いの青年だった。まず目についたのが履物。綺麗な木目が浮かび上がったそれは、爪先と踵に二カ所出っ張りがあり、それで地面との距離を取っているのだと分かるが、どう見ても山道を歩くのには不安定すぎる。次に、袖が大きくていてふわふわと揺れているその服は、一枚の布で出来ている様で見慣れない刺繍の入ったベルトで身体に巻き付けてあった。どちらかと言えばくすんでいる藍色に近い服で腕を組むと、ひょろりと細い立ち姿はまるで一本の棒が独り歩きしているかのような滑稽さを醸し出している。ゆっくりと視線を上げて行くミーナが必然的に最後に目にする事になる顔。男性にしては少々長めの髪はぼさぼさで、所々寝癖の様なものが跳ねている。スッと通った鼻筋を中心に顔立ちは整っているが、その上に鎮座した分厚く大きな丸眼鏡のせいで視線を窺う事は出来ない。
数秒、青年の事を観察していたミーナはすぐに立ち上がると、慌てて頭を下げる。
「あ、あの」
「うん?」
「危ない所を助けていただいて、本当にありがとうございました」
「おう」
顔を上げたミーナの前で青年は小さく頷いたがふと首を傾げ、やがて何かに納得した様にポンと手を打つ。
「ああそっか、バーバリアンかお前さん」
「え?あ、はい。そうですけど」
「そうかそうか」
仕切りに頷く青年の身長はミーナよりも頭一つ分程低く、顔を動かす度にその眼鏡が前髪に隠れる。丁度ミーナが彼を見下ろしている状態ではあるが、バーバリアンは女性であっても人間の男性よりは基本的に身長が高く、その観点から見れば目の前の青年の身長はむしろ人間にしては高い方だろう。
一頻り納得した様子で頷いていた青年は、不意に踵を返す。
「あ、あの!」
思わず呼びとめようとしたミーナに背を向けたまま、青年は何も言わずに遠くに見える岩のうちの一つを指差した。そこには、先程ミーナが隠したゴブリンの子供が眠っている筈だった。
「俺がどうこう言うよりも先に子供を連れて帰った方が良いんじゃねえか?」
そう言った青年の身体がその場でふわっと浮かび上がった。
「!?」
再び目を丸くするミーナの前で、青年は先程は確かに持っていなかった筈の骨の多い傘を開く。
「もう少しで雨になる筈だぜ」
後ろ姿からでも口角が上がっているのが見て取れる。その隙間から洩れた歯が、妙に鋭かった。
「じゃあな」
「ま、待っ、きゃあっ!?」
青年を追いかける様に延ばされたミーナの筋肉の鎧を纏った腕は、しかし青年を掴む事は無かった。そして、ミーナの手が触れそうになった瞬間、青年の体が先程と同じ青白い光を強烈に放つ。思わず目を瞑ってしまったミーナが恐る恐る目を開けると、そこには初めから誰も居なかったかの様にただただ静寂があるだけだった。
呆然と周囲に視線をやるミーナ。しかし、視界には荒れた山道が広がっているだけだった。不意にガラガラと岩が零れる音が聞こえてくる。ミーナが振り返ると、そこでは先程のゴブリンの子供が眠気眼を擦りつつ、父親と母親の名前を呼んでいた。
「……」
一瞬、青年がいた場所を未練がある目で見たミーナだったが、すぐに表情を引き締めて山岳保安隊の隊員の顔となる。
「今行くから、ちょっと待っててね!」
一声かけると、グズグズと泣きだすゴブリンの子供の方に向かってミーナは走り出したのだった。
初めまして。鶴海手長です。
まずはここまで読んで下さりありがとうございました。
読んでの通りこの作品は非常に一部の趣味を意識して書いております。
どう頑張っても基本手に入らないジャンル(ヒロイン的な意味で)なので、だったら自分で書いてしまおうかと。
小説初書きの初心者ですが、連載頑張っていくつもりですので感想やアドバイスをよろしくお願いしますm(__)m




