第70話 リヴァイアサン
眼下の海面で、藍色の巨体がゆっくり身を傾けたままこちらを見上げている。
窓ガラスに左手をついたまま、俺は息を吐いた。
胸のポケットでスマホが、もう一度震える。
ユキ:ご主人様、すぐ参ります。
シノ:揺れたねー、あれ何?
ハヤテ:ご主人、何かあったんすか!?
リンドヴルム:おい、お主。何を呼んだ。
返信より早く、リビングの転移陣から順々に集合する。
「見てもらった方が早いな。」
俺は、左手で南側の窓を指した。
反応が顕著だったのはリンドヴルム。紫の瞳がわずかに細められる。
リンドヴルムが、深い深いため息をついた。
「この魔力――」
唸るような呟き。腕を組み、片手の指で肘を二度叩く。
「……こやつはリヴァイアサン。いけ好かんやつじゃ。」
「え、知り合い?」
「そうじゃ。昔、よくケンカしておった。」
「えぇ……。」
「リンドヴルムさんとケンカって、マジっすか……。」
シノが「これは面白いことになりそうだねぇ」と尾を揺らした。
ユキは黙ったまま、リンドヴルムを横目に見ている。
「ところで君、あちらの彼も新しい仲間ってことでいいのかな?」
「ああ、悪い。彼も新しい眷属、メフィスだ。契約の悪魔だってさ。詳しくは、後で皆で話そう。」
ユキとハヤテが、改めてメフィスの方を見る。
メフィスはシルクハットを胸に当て、ぺこりとお辞儀をした。
「よろしくお願いいたします……あぁ、私にはそんなに注目いただかなくて結構ですよ……。」
「OK、後でゆっくり聞かせてもらうね。」
シノが、片手をひらりと振った。
「メフィス、お前はここで待ってるか?」
「えぇ、アレに近づくのはちょっと……というかこちらの面々だけでも限界というか……。」
「皆優しいから大丈夫だぞ、まぁ、ちょっと待っててくれ。」
足元に、湿った砂利。
塩の匂いと、湿った海風。耳の奥で波の音が響いている。
浜辺に立つ。
水平線まで広がる夜の海面に、月の光が長い線を引いている。
そして、その線を遮る巨大な「島」のシルエットが、空の半分を埋めて浮かんでいた。
近くで見ると、本当にデカい。
首を反らさないと全貌が捉えきれない。
背中の樹々が、海面から十数メートル上で風に揺れている。樹々の隙間から、廃ビルのように見える灰色の塊が、ぽつぽつと顔を出していた。
足の裏に、地響きが伝わってくる。
巨体が、ゆっくりとこちらに首をもたげるような動きを見せる。
そして、頭の中に声が響いた。
――おや。
――懐かしい方が、いらっしゃいますね。
リンドヴルムが、肘を組んだまま、舌打ちをひとつ。
――いつかの粗暴者ではありませんか。
「ほざけ。」
――お元気そうで、何よりです。
「やかましい。」
「えっと――」
俺は、二人の間に左手を上げた。
「リンドヴルム、知り合いなんだよな?」
「知り合いというか、何度もケンカした仲じゃ。」
「何やってたんだお前ら……。」
「武者修行じゃ。竜族の長としては、配下を統べる以上、世界中の強者に喧嘩を売って回るのが筋でな。海域の主は、まずやり合っておくのが礼儀じゃ。」
「礼儀?」
「礼儀じゃ。」
――彼女は当時、海面まで来ては波を蹴り、岩礁を蹴り、ワタシに「上がってこい」と何度も叫んでいました。
「だ、だまれ。」
リンドヴルムが珍しく狼狽えた。
――その都度、ワタシが波を上げてお相手して差し上げました。
「な、なんじゃ。若気の至りじゃろうに。」
シノが「ぷっ」と吹き出した。
ユキが、小さく口元に手を当てて、「リンドヴルムさんは、お若い頃に色々あられたようですね」と、言葉を選んだ。
「とはいえ、こやつは、調和だの、平和だのが好きな奴じゃ。気に入らんが、お主のダンジョンには合うのではないかの。」
「お墨付き、ってことか。」
「面白くはないがの。」
――そこのあなた。あなたが、ここの支配者ですね?
「まぁ、支配者って言うか、責任者って感じかな。」
――ワタシは、よい海の気配を感じて参りました。海をお預かりしてもよろしいでしょうか。
「ああ。本当は、食堂とか、工房とか色々計画があるんだけど、どう見ても海が適任だよな。頼む。」
直後、海面の波がぴたりと止んだ。
雲が左右に押しのけられて、月の光がはっきり差し込んでくる。
湿って冷たかった風が、潮の匂いを強く運ぶ温い風に変わった。
海中では、魚の群れが一斉に向きを揃え、その銀色のきらめきが、波打ち際まで筋になって走る。
浅瀬の海藻が、見ている間にすうっと伸びていった。
数秒で、海洋エリアの空気が一段整った。
明らかに増えた生き物の気配、どこか作り物染みていた海が、今や生命の根源としての存在感を備えている。
リンドヴルムの腕組みが解かれ、声が掛けられる。
「……お主。」
「ん?」
「腕がうずうずしておる。」
「やめてくれ。」
「久しく、骨のある奴とやり合っておらんでな。」
「若気の至りって言ってたじゃん!全然治ってないじゃん!」
「治っておらんのじゃ。退屈はの、性に合わぬ。」
シノが堪えきれず、顔を背けた。
俺は、左手で頭を一度かいてから、軽く息を吐いた。
「……分かった。リヴァイアサンが良いなら。」
――乱暴者には、ワタシが久々に、お灸をすえて差し上げます。
「ほざけ。また泣かせてやるからの。」
「ただし、お互い殺さないこと。塔と海から外側を壊さないこと。守れるならいいよ。お互いこれからは仲間なんだから、ほどほどに。」
リンドヴルムが「うむ」と短く頷く。
――いいでしょう。
調和と平和って言ってたのに、リンドヴルムとは本当に水と油ってことか……。
シノが、すっとスマホを差し出した。
「君、せっかくだから、配信しちゃおう。うちで悪さしたら、この二人が怒るよーってアピールしておこうよ。」
「……そうだな。回してくれ。」
「了解。じゃ、いくよ。」
シノが指で操作すると、ダンジョンボードに直結した動画配信が、すぐに立ち上がった。
「みんな、見えてるかな?裏山ダンジョン、新しい仲間が来たから、紹介配信だよ~。楽しんでいってね。」
カメラを、海上の二つの巨体に向ける。
リンドヴルムが、静かに前へ出た。
紫がかった髪が、夜風に靡く。
浜辺の砂利を踏みしめた瞬間、足元の小石が、ふわりと浮き上がった。
立ち上る紫の魔力が、大気そのものを歪めて、彼女の周囲の夜空が縞模様に揺れる。
竜形態への変身は、一瞬だった。
全長30メートルを超える、紫の鱗を持つ竜の本来の姿。2対の角、長い尻尾、広がる翼。
翼を一閃しただけで、浜辺の砂利が真横に吹き飛ばされ、ユキが咄嗟に結界を俺たちの周囲に張った。
夜空に向けて翼が広げられ、そのまま海上へ飛び立つ。
リヴァイアサンは、海面に沈むことなく、巨体のまま海上に留まっている。
背中の森と廃墟が、月光を浴びて、影と光のまだら模様を作っていた。
二つの巨体が向かい合うが、サイズはリヴァイアサンが圧倒的にデカい。
最初に動いたのは、リンドヴルムだった。
紫の翼を一閃させて、上空に駆け上がる。
喉の奥に、紫の星のような光が灯った――凝縮された魔力が恒星のごとく輝いている。
そして、叩き付ける。
ただの炎ではなかった。
紫炎が大気を裂きながら降り注ぎ、雲の切れ目を縦に切り、海面までを一直線で焼いていく。
当たった海水は、蒸発する間もなく存在ごと紫の光に置換されていった。
「うわ……っ」
結界越しでもその破壊力への根源的な恐怖は緩和されず、ハヤテが思わず後退する。
紫の柱が、リヴァイアサンの背中に叩き込まれる――と思った瞬間、海が立ち上がった。
リヴァイアサンの周囲、半径数百メートルの海そのものが、ゆっくりと持ち上がり、巨大なドーム状の屋根を作る。
紫炎がそのドームに触れた瞬間、海に溶けるように消えた。
リヴァイアサンの巨体が、ぐるり、と海面の下を回るように動く。
直後、海面のあちこちで、波紋が広がった。
海中から、影のような巨大な何かが、次々に浮上してくる。
鯨だった。リヴァイアサンより遥かに小さいが、それでも全長20m級の鯨が、十数頭。
その間を縫うように、深海魚の群れ、長い海蛇、巨大なタコの足が、海面を割って空中に飛び出していく。
それらが一斉に空中で姿を変え、無数の水の触手として、リンドヴルムの竜形態に向けて伸びていった。
リンドヴルムが、空中で大きく翼を広げた。
雲が、ぐるりと旋回する。夜空の星々が、霞んでいった。
雲の切れ目から、青白い光が、走る。
「雷……?」
シノが呟いた。
「稲妻を呼びましたね。」
ユキが続ける。
直後、轟音とともに夜空が白く割れた。
天から、巨大な稲妻が一本リンドヴルムの背中に降り注ぐ。
リンドヴルムは竜形態のまま、その稲妻を全身で受け止め――吸収した。
鱗の一枚一枚が、青白く帯電していく。
そして、翼を一閃。
無数の稲妻が、リンドヴルムの体から、放射状に放たれた。
空中の水の触手が、稲妻に貫かれて、一斉に弾け散る。
――やはりこの程度では抑えられませんか。
腹の底に響く、深い、深い共鳴音。
それはリヴァイアサンの巨体だけからではなく、海面全体から、海中から、空中の水滴から同時に響いてくる。
「これは、歌……?」
シノが、片手で耳を塞ごうとする。
「海そのものを楽器のように震わせ、リンドヴルムを内側から揺らそうとしていますね。」
リンドヴルムの竜形態が、空中で身を震わせた。
鱗の一枚一枚が、共鳴し始めて、竜の輪郭そのものが、夜空でかすかにブレ始める。
「ぐ……。」
初めて、苦悶のような唸りが漏れた。
しかし、リンドヴルムの打つ手も早かった。彼女の正面に空間の裂け目のようなものが広がる。
「なるほど、空間を断裂させて、攻撃を断ち切りましたか。最適解です。そして――」
リンドヴルムが、その「裂け目」を、リヴァイアサンに向けて、振り下ろす。
「攻撃への転化。当然ですね。」
刃のような空間の裂け目が、海上を一直線に走った。
水平線まで、海と夜空が、薄く一本、切れていく。
――これは、いけません。
念話の声にも、初めて緊張のようなものが滲む。
――こちらも、本気でお相手いたしましょう。
裂け目が、リヴァイアサンに到達する直前。海全体が、月の方向に向かって引きずられるように迫り上がっていく。
「えっ、これ何っすか!」
「月の引力です。」
ユキが、青い瞳を細めた。
「月の力を借りて、リンドヴルムを海の中へ捉えるつもりですね。」
呆気にとられて見ていたが、これ以上はお互い命に係わるやり取りになるだろう。止めなければ。
「これ以上はダメダメ!ユキ、何とか止められるか!?」
ユキが、海洋エリアの中央に視線を一度だけ向ける。
「……止めるだけなら、やってみましょう。」
ユキの足元に、蒼い光の紋様が広がった。
紋様が、海面に向けて広がっていき、ユキの身体が、ゆっくりと宙に浮く。
次の瞬間、ユキは海洋エリアの中央へ飛んだ。
迫り上がる海面と、空間の刃のちょうど境界。
ユキが両手を広げた。
白銀の長髪が海風に逆らい、夜空へふわりと持ち上がる。
ユキの周囲に何重もの蒼い魔法陣が、重なるように展開された。
両手の指先から伸びた蒼い光の糸が、迫り上がる海面と空間の刃それぞれに繋がっていく。
「お止めください、お二人とも。」
上昇する海面自体が凍り付いては再び脈動し、空間の裂け目が閉じかけては内側からあふれ出ようとするかのように蠢く。
「凄……。」
ハヤテが翼の縁から空を見上げる。
「ユキちゃん、二人とも抑え込んでるけど、やっぱりキツイよこれ。」
シノがスマホを構えたまま、ぽつりと呟いた。
しばらくの拮抗ののち、リヴァイアサンの念話が響いた。
――お見事です、ユキ殿。
リンドヴルムも紫の魔力を解いた。
ユキがゆっくりと両手を下ろし、浜辺に降り立つ。
肩で二度大きく息をする。
額の汗が頬を伝い、首筋まで滑っていった。
リンドヴルムの竜形態が、夜空でひとつ大きく旋回して、浜辺に降りた。
着地と同時に、人型に戻る。
「……ほどほどに、って言ったじゃん。」
「ほどほどにしたろうが。」
「あれで……?」
リンドヴルムが、浜辺の砂利の上で、左手をひと振りして髪を整えた。
息はまだ少し荒い。しかし、紫の瞳の奥の光は心なしか満ち足りているように見えた。
――ワタシは、海洋エリアの管理をお引き受けいたします。塔の周りは、ワタシが守ります。浅いところは、釣りや採取でお楽しみいただく等がよろしいでしょう。それが海のあるべき姿です。
「ああ、それで頼む。」
――ただし、秩序を乱すものには制裁を与えます。
「だってさ。配信見てる皆、うちで悪さしないでくれよ。俺だって止められないから、助けられないぞ。」
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貯金残高:5,675,000円 / ダンジョン蓄積魔力:142
スキル:【剣術】Lv.5 / 【身体強化】Lv.5 / 【戦闘機動】Lv.3 / 【危機感知】Lv.3 / 【状態異常耐性】Lv.2 / 【魔力操作】Lv.2 / 【マナバースト】Lv.3
眷属:ユキ(エルダーエルフ)/ ハヤテ(鷹獣人)/ リンドヴルム(祖竜)/ シノ(九尾)/ 猫又(下位妖獣)/ コムギ(土精)/ メフィス(契約の悪魔)/ リヴァイアサン
【ダンジョン構成】
入口 → 温泉街エリア(補給/工房/宿泊/食堂/湯治)→ 森エリア / 火山・大空洞エリア / 海洋エリア(管理:リヴァイアサン)&バベルの塔 → 居住エリア(塔最上階)→ コアの小部屋
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