84 消耗
「学院生はこちらへ。次は街の神殿へ案内する」
再び兵士を伴って馬車に乗り、街の中心の神殿へ向かう。
リネアは窓の外から目を離せなかった。
少し前まで、人が笑い、音楽が流れていたはずの場所。
それがこうも簡単に沈黙するのかと、胸の奥が冷えていく。
「……見すぎない方がいいんじゃない」
「え?」
隣でミカが小さく言う。
「全部抱えそうな顔してる」
冗談のようでいて静かな声音に、リネアは曖昧に頷いた。
◇
神殿の石造りの建物は無傷に近い。
疲れた顔、怯えた目。
入口には避難してきた人々が溢れている。
神殿の中に入ると、絶えず人の声で満ちていた。
祈りの言葉。
子どもの泣き声。
疲れ切った大人の低い会話。
案内役の兵士が神官へと声をかける。
「学院生の中に、干渉の恩寵を持つ神官見習いがいます」
出迎えた地方神官は安堵したように頷いた。
「それは助かります。避難者の不安が強く――」
言いながら受け取った名簿に目を落とす。
「……ミカ・“エルヴェイン”?」
それまで柔らかかった声音が、わずかに冷たくなる。
リネアはそれを見て、小さく息を呑む。
見覚えのある空気だった。
ミカは何も気づかなかったように一礼する。
「神官見習いとして、避難者の精神安定にあたります」
公の場に立つ時の声音。
軽さは消え、整えられた言葉だけが残る。
神官は切り替えるように短く頷いた。
「では、こちらへ」
それでも声が少し硬い。
こんな時でさえ、出自で線が引かれることに、リネアは暗い気持ちになった。
視線に気づいたのか、離れ際に、ミカが振り返る。
「温存、ちゃんとしなよ」
いつもの軽さで言うのに、目だけが真剣だった。
「……分かってる」
それだけ聞いてミカは人の波の中へ消えていった。
リネアは与えられた一角で、他の学院生と共に避難者の治療にあたる。
擦り傷や打撲に、軽い発熱。
命に関わるものではない。
それでも、不安に押されるように人は次々と列を作った。
手をかざす。
呼吸を整える。
恩寵を流す。
丁寧に魔力回路を通した、最低限の回復。
それでも痛みがやわらいだ安堵の笑みが返ってくる。
「ありがとうございます」
何度も言われる言葉に、リネアは笑って頷いた。
まだ、大丈夫。
少しずつ胸に鈍い痛みや熱が灯る感覚はある。
けれど、耐えられないほどではない。
だから続けられる。
続けられるなら、やるべきだと思った。
◇
陽が傾き始めたころ、神殿での役割を終えてリネアたちは幕営地へ戻っていった。
昼間と同じ道のはずなのに、帰りはやけに遠く感じる。
足を進めるたびに靴底に伝わる感触が鈍く、踏みしめているはずの地面との距離がわずかにずれているような、妙な違和感が残っていた。
「……初日からこれか」
誰かの呟きに、それに応じる声は上がらない。
言葉を返す余裕がないというより、口に出したところで何も変わらないと分かっているような、そんな沈黙だった。
疲れているのは体だけじゃない。
頭の奥に、ずっと何かが引っかかっている。
神殿で見た光景が、まだ離れない。
泣き出した子供の声。
それを宥める大人の震えた手。
“痛み”よりも“恐怖”に支配された顔。
軽傷ばかりだった。
それでも― ―精神的に削られるものがあった。
リネアは歩きながら、無意識に自分の手を握った。
力は入る。指も動く。ただ、いつもよりわずかに反応が遅い。
それでも、まだ大丈夫だ。
天幕が見えてきたところで、ミカが足を緩めた。
「リネア」
呼ばれて顔を上げると、すぐ近くまで距離を詰めてきている。
「少し整えようか?」
魔力の流れの調整と、疲労の認識の軽減。
けれどリネアは首を振った。
「大丈夫。ミカもたくさん使ってたでしょ」
「まあね」
あっさりと認める。
その視線は一瞬だけリネアの呼吸の浅さを見ていた。
「……倒れないでよ」
ミカはさらに何かを言いかけて、やめる。
踏み込んでも拒まれると分かっているのか、それとも今はその必要がないと判断したのか、そのどちらとも取れる間だった。
深追いしないその距離の取り方に、リネアは少しだけほっとした。
◇
リネアが自分の天幕へ向かおうとした、そのとき。
腕に触れる感触に足を止める。
引かれるというより、進もうとした動きを軽く制されたような感覚だった。
驚いて振り返るとクロウがいた。
戻ってきてすぐなのだろう、息が少しだけ上がっている。
「少し、いいか」
「うん」
少しだけ人の流れから外れ、天幕の陰へ移動する。
風が強く、布がはためく音が耳に残る。
その音が、会話の間を埋めるように続いていた。
「……今日は、悪かった」
開口一番に、視線を落としたまま言う。
「ほとんど側にいなかった」
声は抑えているが、明確な苛立ちが混じっている。
リネアは少しだけ目を丸くして、それから緩く首を振った。
「気にしてないよ。クロウも大変だったでしょ」
クロウは今日一日、ほとんどを作戦本部に呼ばれて過ごしていたらしい。
他の学院生とは違い、求められている役割や責任が明らかに重い。
「……それでも、一人にはさせたくなかった」
眉を寄せて俯くその姿が、なぜかいつもより年相応に幼く見えた。
星約としての責任としての言葉に聞こえるのに、それだけではない響きが混ざっている。
「私、大丈夫だよ」
リネアはいつも通りに笑ってみせる。
クロウの視線がわずかに細くなる。
「……顔色が良くない」
「そんなことないよ」
けれど、リネアの顔にはいつもより血の気が無い。
クロウはわずかに上げた手が、頬に触れようとして――止まる。
指先が空を切った。
「クロウ?」
「いや、」
宙に浮いてからまた戻された手に、リネアは首をかしげた。
クロウはそれ以上言わない。
代わりに、クロウは目視で状態を確かめる。
リネアはその視線から逃げるように、街の方へ目を向けた。
「神殿の人たちは、軽い怪我だった。
でも、すごく不安そうで」
少し間があく。
泣き出した子どもの顔が浮かぶ。
「早く、元の生活に戻してあげたいね」
外壁の向こうを見ながら、そこにあるはずの音や人の気配を思い浮かべる。
その言葉に、クロウは小さく頷いた。
「ああ」
同じ方向を見ている、短い返事。
けれど、考えていることは少し違う。
「……軍からは継続して、作戦本部に入って欲しいと言われている」
「そうなんだ」
「……だから」
一瞬、言葉を選ぶ。
「離れる時間が増えるかもしれない」
はっきりと、先に伝えておくように言う。
リネアは少しだけ柔らかく目を細めて、それから頷いた。
「うん。お互い、頑張ろう」
クロウが次の言葉を選びかけたとき、
「クロウ殿!少しよろしいですか!」
遠くから声が飛ぶのと同時に、兵士が慌てて走ってくる。
クロウは目を伏せて、短く息を吐いた。
分かっている。
優先すべきものは。
それでも、足が少しだけ止まる。
「無理するなよ」
クロウは踵を返して、振り返る。
視線が合う。
もう一度、何か言いたげにほんの一瞬だけ。
そして三度目は、振り返らなかった。
クロウはそのまま士官の元へ向かっていく。
それから、リネアも天幕へ向かって歩き出した。
足取りは、やはり少しだけ重かった。




