82 軋む日常
初夏の訪れと共に学院を包む空気は、ぬるく湿気を含んだものになった。
窓の外では雨を孕んだ雲が低く流れている。
教室には、いつも通りの声がある。
笑い声、軽口、昼食の匂い。
けれど最近はその奥に、わずかな不穏が混ざるようになっていた。
「隣の領地でも観測されたんだって」
「小規模だけど、続いてるらしい」
――星蝕。
遠い場所の出来事だったはずのものが、少しずつ近づいてきている。
教室のざわめきに気を取られて、リネアは少し手を止めた。
手元には一学期の中間にある、座学試験に向けてまとめていたノートがある。
隣の席のクロウが、ふと覗き込んで紙の上の文字列に指を載せる。
「ここ、一段ずれてるぞ」
「ほんとだ。ありがとう」
相変わらずクロウのリネアへの物理的な距離は近いままだった。
リネアも最近は演習での集中力を取り戻し、二人は息の合ったやり取りをしている。
表面的には。
内心で、リネアは少しだけ距離を測っていた。
並んで座る。
話せば笑うし、会話は楽しい。
それは変わらない。
けれど、近づきすぎないように。
間違えないように。
意識の奥で、静かに線を引いている。
クロウはそれに気づいているのかいないのか、変わらない調子で距離を詰める。
「この補助式、こっちが安定する」
「うん」
穏やかな関係は続けられているはずだ。
それでいい、とリネアは思う。
◇
本来なら演習のはずの時間に、教官――王立軍から派遣された士官が教壇に立った。
手にした封筒の束を見て、教室に緊張感が漂う。
「報告がある」
低い声。
「知っていると思うが……近隣領地を含め、各地で小規模星蝕の観測が増加している」
誰かが小さく息を呑んだ。
「二年生と三年生の、今期の試験は一切行わない」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
「代わりに、演習成績と適正を鑑み、一部の星約には王立軍の作戦に参加してもらう」
「……随行派遣?」
誰かの呟きで、一瞬で教室の空気が凍って動揺と不安が一気に広がる。
「嘘だろ……」
「学院生を?」
教官は視線を巡らせ、続けた。
「もちろん前線ではない。後方支援だ」
声は決して冷たいものではなく、演習中のときよりも気遣いの温度があった。
「軍はお前たちの安全を守る。
ここで積み重ねた力を、実際の現場で生かしてほしい」
――王立軍は、対星蝕の非常時において、学院生を戦力として扱える。
これは期待としての言葉のように見えて、形骸化していた規則を使った命令だった。
演習ではない、後方支援とはいえ沈静化していない星蝕の発生地への派遣。
配られていく封筒は軽いはずなのに、やけに重々しく感じられた。
⸻
クロウ・ノクエル/リネア・フォレスト
派遣先:北西部観測区域
⸻
封を切った瞬間、リネアの心臓が静かに跳ねる。
隣を見ると、クロウもすでに内容を読んでいた。
「……行くことになるな」
「うん」
クロウは通知を握る指先にわずかに力を込めた。
王立軍に名を連ねる家門の人間として、この状況であれば自分が随行するは当然だ。
けれど――
リネアまで実戦に連れていく形になることが、複雑な気持ちになる。
「……怖いか?」
「少しだけ。でも、やることは変わらないから」
リネアは少し考えてから頷いた。声音は静かで、揺れていない。
初めて現実で星蝕を見ることになる。
怖くないわけではない。
それでも、逃げれるものではないのなら最善を尽くすしかない。
「大丈夫。ちょっと緊張してるだけ」
強がりではない言葉だとは分かる。
それでも、クロウは何も返せなかった。
◇
教官が去ったあとは、教室どころか学院中がその話題で持ちきりだった。
「よかった、俺たち学院で待機だ」
「誰が選ばれた?」
「ほんとに安全なのかな」
不安と好奇心が入り混じる。
その流れの中で、軽い声がするりと割り込んだ。
「で、二人はどこだった?」
ミカの直球すぎる問いに、リネアが瞬きをする。
「え?」
「派遣先。リネアとクロウも行くんでしょ?」
「……北西部だ」
「じゃあ、たぶん同じだ」
ミカはリネアが広げた通知を一目見て、あっさり頷く。
「俺、星約いないのに人使い荒くない?」
軽口のようで、少しだけ本音。
それでも空気を重くしない温度だった。
「王立軍って人手不足なの?」
ミカは呆れ顔でひらひらと封筒を振って、リネアとクロウのさらに後ろに向かって言い放った。
「この短期間で小規模星蝕が観測されすぎた。人が足りてないのは事実だ」
聞き慣れた声にリネアが振り向くと、セラフィナとレオニスが立っていた。
二人とも、いつもと変わらないように見える。
けれど、その表情の奥にある緊張は隠しきれていなかった。
レオニスの視線は、リネアの手元――まだ握られたままの通知へ落ちていた。
「……本来なら、学院生を出すべきじゃない」
低く、押し殺した声で言い切る。
王立軍も必死で動いている。
対処も、判断も、間違っているわけではない。
それでも――足りない。
本来なら戦線に回すべき人材が軍の中で完結すべきだ。
それでも足りないから、学院に手を伸ばすしかなかった。
内情を知っているからこそ、何も言えない。
レオニスにとって軍務卿の子息という立場は、誇りであると同時に枷でもあった。
この決定に、自分は関わっていない。
だが、無関係でもいられない。
レオニスはゆっくりと息を吐いた。
「……止められなかった。すまない」
その表情には、珍しく悔しさがはっきりと滲んでいた。
クロウもまた目を伏せる。
リネアはそれを聞いて、首を振った。
「レオニスやクロウのせいじゃないよ」
軍の中枢家門の嫡子だからといえ、二人はまだ軍に正式所属しているわけではない。
まだ学生の彼らにはどうしようもないことはある。それを責める気にもなれない。
「そうだな。それでも、関係はある」
肯定とも否定ともつかない返事で、レオニスはわずかに苦笑する。
クロウの低い声が隣から落ちる。
「軍が決めたことなら……俺たちも、その一部だ」
レオニスが頷く。その言葉には、逃げないという意志があった。
セラフィナが、その空気を切るように口を開く。
「もう、いいでしょ」
少し強い声音。
「ここで、そんな顔しないで」
レオニスは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく肩をすくめた。
「悪い」
いつもの余裕のある様子に切り替えて、短く謝る。
セラフィナは眉を下げてリネアの方へ向き直った。
「でも、無理だけはしないで。ほんとに」
「うん。セラフィナたちも気をつけて」
柔らかい声なのに、真剣な目だった。
「まあ、後ろの方だし。なんとかなるでしょ」
笑顔で気負いなくあっけらかんと言うミカの様子に、ほんのわずかに周囲の雰囲気が軽くなる。
窓から見える空の色がさらに濃くなると、やがて雨が降り始めた。
穏やかだった学院の日常は、ゆっくりと、確実に輪郭を変え始めていた。
◇
夜の本科棟は明るい。
どの部屋も遅くまで灯りが消えることはなく、どこかしらに人の気配がある。
研究室の窓には、まだいくつもの灯りが並んでいた。
セイルは机に向かい、ペンを持ったまま動かなかった。
机の上には、書きかけの手紙。
宛名には――フォレスト家長男、ローウェンの名。
学院の空気が変わり、校外演習が実戦を含む随行派遣へ切り替わったこと。
そしてリネアが星蝕観測区域へ派遣されること。
その知らせは、研究所と学院を往復するセイルの耳にもすぐ届いた。
学院は本来、恩寵の制御と星蝕対応の教育機関だ。
有事の随行派遣も規定内。
前線ではなく後方支援であり、危険性も理屈の上では整理されている。
それでも。
(……リネアが行く必要があるのか)
“問題はない”
“規則通りだ”
そう書けば済むはずだった。
なのに、手が動かない。
ローウェンは妹に過保護ではあっても、縛るような兄ではない。
本人が望むなら、自由に歩かせようとしている。
卒業式の帰り道、馬車の中で交わした言葉がよみがえる。
『頼むぞ』
あれは命令ではなく、信頼だった。
(実戦への随行まで、想定していたか)
答えは、違う。
もしこの内容をそのまま伝えれば、ローウェンはどう思うだろう。
規則だから仕方ないと受け入れるか。
それとも、もっと早く知らせろと怒るのか。
わからない。
セイルは静かにペンを置いた。
このまま書けば、きっと言葉が嘘になる。
◇
女子寮の前は、本科棟とは違い夜の静けさに包まれていた。
研究所員である立場と血縁者という名目――本来なら使うべきではない特権を使って、セイルはリネアを呼び出した。
リネアが、外套を羽織って現れる。
夜の空気は少し冷たかった。
「セイル? どうしたの?」
思ったより急いで来たらしく、少し息が上がっている。
その顔を見て、セイルはわずかに体の力を抜いた。
「……ローウェンに手紙を書こうと思ってた」
「手紙?」
「うん。でも、書けなくて」
正直に言うと、リネアは少し目を丸くする。
そしてすぐに、随行派遣の話だと察した。
「だから、直接顔を見ておこうと思って」
冗談めかした口調だったが、半分は本音だった。
「セイルの方が不安そうだね」
からかうような声。
「当たり前だ」
思ったより強く返してしまい、リネアの肩がわずかに跳ねる。
「……君は、自分のことを軽く言いすぎる」
怒るつもりはなかった。
それでも声は真剣になる。
「学院の制度だってわかってる。規則も必要性も理解してる。
それでも――」
一度言葉を切る。
「無事でいてほしい」
それは命令でも説得でもなかった。
ただの願いだった。
リネアはしばらく黙っていた。
夜風が外套の裾を揺らす。
「大丈夫」
小さく、でもはっきりと頷く。
「ちゃんと戻ってくるよ」
いつも通りの笑顔にセイルは少しだけ怖くなる。
この子は本当に戻って来るつもりだ。
それなのに、どうしても不安が拭えない。
その様子に気づいたのか、リネアは眉を下げて笑う。
「……セイルは何も悪くない。だから、変に後悔しないで」
セイルは苦笑して目を伏せる。
後悔している。少なくとも今は。
もっと別の道を選ばせられたのではないか――そう思わない日はない。
言いたいことはまだある。
けれど、これ以上はすでに覚悟を決めている彼女の意思を否定することになる。
「帰ったら、すぐにちゃんと顔を見せて」
ようやくそれだけ言った。
「うん」
なんの確証もない短い約束にセイルは頷き、その場を離れる。
振り返らなかった。
振り返れば、きっとまた何か言ってしまう気がしたからだ。




