67 春を待つ
学院内にはプロムの熱が、まだどこかに残っている。
廊下ですれ違うたびに笑い声がこぼれ、誰かのドレスの色や、誰が誰と踊ったかという言葉が交わされていた。
それでも、学院はもうすぐ長い休暇に入る。
冬の終わりから春の始まりまでの、一ヶ月半。
それぞれが、それぞれの場所へ戻る季節だ。
◇
休みに入る週の午後。
リネアは図書棟に借りていた本を返しに来ていた。
積み上げた本を抱えていると、隣から静かな声が落ちる。
「持つ」
「大丈夫だよ」
言いながら、クロウの手に本はほとんど奪われている。
結局、リネアは一冊だけ抱える形になった。
前から無愛想というわけではないけれど、感情が読みやすい人でもなかった。
けれど最近、こういう距離が少しだけ自然になっている気がする。
「休暇はすぐ領地か?」
「うん。久しぶりに叔父と叔母や兄も帰ってくるみたい」
ローウェンも、セイルの両親も戻るらしい。
久しぶりに家族が揃う。
「クロウも?」
「ああ」
短い返事。
クロウやレオニスは侯爵家や伯爵家の嫡男の立場だ。
自分とは違って、休暇といってもきっと忙しいのだろう。
「でも、三月の半ばには学院に戻る予定。卒業式があるから」
三年生の節目。
セイルは研究所籍で学院に残ることが決まっているけれど、形式上は区切りだ。
親族として、ちゃんと祝いたかった。
クロウは一瞬だけ視線を落とし、頷く。
「なら、三月の終わりは?」
「え?」
「春暁祭だ」
王都で、日の出とともに春の訪れを祝う祝祭。
二日かけて夜通し街が賑わう。
「俺はレオニスたちと、王都のタウンハウスにいる」
祭りでは王立軍の行進もあるはずだ。
軍部の関係者として、立ち会うのだろうか。
「じゃあ、その頃に王都で皆と会えるかな」
「ああ。あとでレオニスたちと予定を決めるか」
この間の短期休暇の楽しかった光景を思い出して、思わず笑う。
自然に、次の予定が繋がるのが嬉しい。
「手紙も書くね」
「……読む」
相変わらず返事は簡潔だ。
でも、冷たさはない。
本を返却台に置き終えて、リネアはそのまま近くの書架の前で立ち止まった。
つい、目についた一冊を抜き取り、ぱらぱらとページをめくる。
魔力循環についての論考。
気づけば読み始めてしまう。
耳にかけていた髪が、はらりと頬に落ちた。
隣で、クロウの指がわずかに動く。
――触れようとして、止まる。
ほんの一瞬。
何事もなかったように手が戻る。
リネアは気づかない。
自分で髪をかけ直し、また文字を追う。
視線を感じて顔を上げると、クロウと目が合った。
前も険しかったわけじゃない。
でも今は、どこか柔らかい。角が取れたような、ほんの少し丸みを帯びた視線。
「……ごめん。返しにきたのに、また」
「いや、いい」
これじゃ、キリがないねと苦笑すると、クロウは静かに微笑んだ。
言葉にはならないけれど、クロウが変わった気がするとリネアは感じていた。
気のせいかもしれない。
プロムの夜の余韻がまだ胸の奥に残っているからだろうか。
その違和感に、リネアはほんの少しだけ落ち着かない。
窓の外では、冬の日の光が淡く揺れていた。
もうすぐ、長い休みが始まる。
◇
一年生の終わりを目前に控えた深夜。
男子寮の談話室は荷造りの箱が積まれ、半分ほど埋まっていた。
すでに暖炉の火も弱まっている?
レオニスはソファに深く腰を下ろし、向かいのクロウを眺めていた。
他の生徒たちは部屋に戻り、ここにいるのは二人だけだった。
軍務卿とその参謀卿の嫡男同士。
本来なら戦略や軍務の話をしていてもおかしくない。
「……どうすればいい」
口を開いたのはクロウだった。
低い声。
真面目な顔。
眉間に深い皺。
レオニスは一瞬、何かの作戦会議が始まるのかと思った。
「どの戦線の話だ?」
「フォレスト家の件だ」
レオニスは天井を仰いだ。
「……ああ」
なるほど、と頷く。
目の前のクロウはひどく思い詰めた顔をしている。
「自覚はした」
重々しく、静かに言う。
「だが、その先が分からない」
レオニスはニヤつきそうな口元を隠すように、手で押さえた。
クロウのこんな顔は、あまり見たことがない。
「……今まで通りでは駄目だろう」
深刻な声だった。
「だが、急ぐのも違う」
それは、確かに正しい。
「段階があるはずだ」
ひとつずつ確かめるように言葉を紡ぐ。
レオニスは咳払いで笑いを誤魔化した。
「まず確認だが、どこまで考えている?」
クロウは至って真剣に答える。
「家格の違いもある。それぞれの将来もある。軍務の立場もある。ノクエルはヴァレンティの分流だ。政治的意味も出る」
止まらない。
「フォレストは中立的だ。意図的に目立たない位置を取っている向きもある。そこに軍閥の家が踏み込むのは——」
レオニスは片手を上げた。
「待て」
「まだある」
「いや待て」
クロウはそのまま続けようとする。
「婚姻まで見据えた場合——」
「飛びすぎだ」
ぴしゃりと遮る。
クロウは不思議そうな顔をした。
「現在地は“プロムでやられた”だ」
家の実務でも、社交でも、学院でも、クロウは常に冷静だった。
だが、今、目の前ではどうだ。
三段飛ばしで家格調整から婚姻政治まで組み立てていた。
完全に気が動転している。
「順番というものがある」
「……順番」
「こういうのは、相手の同意も必要だ 。
まずは距離を詰めろ」
「どうやって」
クロウは本気で首をかしげる。
「普通に話せ。笑え。隣にいろ。まずはそこだ」
「それで足りるか?」
「足りなかったら次を考えろ」
「……」
クロウが長いまつ毛を伏せて考え込む。
夜会で「憂いがあって素敵!」などと、令嬢たちが騒いでいる表情だった。
その目にさらに暗い影が落ちる。
「長期休暇だ」
「ああ」
「会えない」
静かな絶望。
レオニスはそこでようやく、口元を緩めた。
「そういえば」
わざとらしい声音。
ゆったりと足を組み替えて、膝の上で指を組む。
「東部の領地、しばらく見に行っていなかったな」
クロウの視線が動く。
「東部?」
「うちの家のな。東の国境沿いの要衝だ」
ヴァレンティ侯爵領は広大だ。
本領は南部。だが、飛地として王国各地に国防の要となる要塞都市を領地として持つ。
軍務卿家ゆえの配置だ。
「ちょうど視察の名目も立つが……未来の参謀卿殿も同行するか?」
沈黙。
クロウは完全に罠にかかった顔をしている。
「……あの領地はフォレスト領に近い」
「近いな」
「視察なら不自然ではない」
「まったく不自然ではない」
レオニスは涼しい顔で頷いた。
「実務上の合理性はある」
「もちろんだ」
「偶然立ち寄る形なら——」
「偶然だな」
完全に同じ調子で返す。
少しの逡巡。
クロウはようやく、長く息を吐いた。
「……助かる」
「まだ何もしていない」
「している」
やめろ。真顔でちょっと感動したように言うな。
レオニスは内心で盛大に腹を抱えて笑っていた。
幼いころから見てきた。
冷静で、理詰めで、動じない男。
その脳内が今、大混乱している。
だけどこれは悪くない嵐だ。
珍しく狼狽える親友の姿に、レオニスは少し嬉しくなる。
男同士の秘密の軍議は、こうして静かにまとまった。




