99 吉報
窓の外では虫の声が細く響き、寮の廊下はもう静まり返っている。
授業の復習のためにリネアは机に向かってノートを開いてはいたが、ペンを持つ手は止まったままだ。
リネアとクロウの関係は、相変わらず曖昧なままだった。
前よりも距離近い。何気ない雑談のような会話が増えた。
些細なことでも、クロウは拾う。
リネアが目を向けたもの、選んだもの、少しでも迷ったことを知ろうとする。
ふと目が合えば眦がわずかにやわらぐ。
まるで当然のように。
(……あれが、“今まで通り”?)
答えは今求めない。
今まで通りでいい。
クロウは確かにリネアにそう言った。
けれど、あれはクロウの方も現状を維持するという意味ではなかったらしい。
最近のクロウはまったく躊躇がない。
リネアに踏み込むことを、止めない。
その事実にようやく気づいても、リネアはどうすればいいか分からない。
境界が曖昧なまま、翻弄され続けていた。
不意にコンコンと控えめに扉を叩く音がした。
「……はい?」
「リネア、起きてる?」
聞き慣れた声に、思わず顔がほころぶ。
「セラフィナ?どうしたの、こんな時間に」
扉を開けると、そこに立っていたセラフィナは――いつもと少し違っていた。
笑顔なのに、どこか落ち着かない。
指先をそわそわと絡ませていた。
「少し……話せる?」
「うん、どうぞ」
部屋に招き入れると、セラフィナはベッドの端に腰かけた。
何か言いたそうで、でも言い出せないような顔。
「どうしたの?何か、あった?」
問いかけると、セラフィナは一度深呼吸した。
そして、真っ直ぐにリネアを見て言う。
「婚約、することになったの」
数秒、言葉が理解できなかった。
「……え?」
「レオニスと。正式に」
今度ははっきりと告げられる。
リネアは目を見開いた。
「本当に?」
「本当に。だから休暇中も、ちょっと忙しかったのよ」
あまりにもあっさりとした口調に、現実感が追いつかない。
そういえば。
随行派遣の後くらいから、二人にしては珍しく別行動が多かった。
休暇からもいつもは一緒に戻るのに、別々の馬車で学院に戻ってきていたのを思い出す。
「でも……在学中に?」
この国の貴族は、王族を除けばほとんどが学院卒業後に婚約する。その分、婚約から婚姻までの期間は短い。
在学中にそういった根回しは当然、始まるし、婚約自体もあり得ないわけではない。
それでも、二年生のこのタイミングでは珍しい。
「本当はね、卒業してからの予定だったけど、少し早めたの」
「どうして?」
セラフィナは肩をすくめた。
「随行派遣のせいよ」
あのとき。
セラフィナは多くの人の前で恩寵を使い、救い、賞賛された。
「まるで聖女みたいだって、言われたでしょう?
神殿からも、色々と変な話がきちゃって」
冗談めかして言うが、その目の奥は冷静だ。
二百年以上も、聖女が不在の状況。
その代わりとなる存在に、神殿の手が伸びるのも想像はできる。
「ヴァレンティ家と婚約していれば、簡単には手が出ないから」
軽い口調のまま、きっぱりと言う。
リネアは小さく息を呑んだ。
「……セラフィナは、それで大丈夫なの?」
レオニスとセラフィナが傍目に見ても、幼少期から決められた相手として以上にお互いを大切にしていることは見ていれば分かる。
それでも、二人の婚約の背景には血統の維持や政治が絡んでいることは明白だ。
当人たちが納得をしていることなのか、リネアは心配になる。
セラフィナは一瞬、きょとんとしてから、すぐにっこりと笑った。
「心配してくれるの?」
「するよ、当然」
即答すると、セラフィナの笑みが柔らかくなる。
「大丈夫。だって、私が望んだんだもの。
ねえ、ついでに少し昔話してもいい?」
リネアが頷くと、セラフィナはゆっくりと言葉を選び始めた。
◇
生まれたときから、セラフィナ・ロゼは“特別”だった。
この国の貴族は、生まれてすぐに恩寵を一時的に封じられる。
強い異能に耐えられるようになるまで、身体が育つのを待つためだ。
セラフィナの実父は王立軍の兵士で、作戦中に高官を救った功により、ヴァレンティの末端分流の娘と婚姻した。
貴族の娘として生まれたセラフィナもまた、封印の儀を当然受けることになった。
ただ、他の子どもと違ったのは、彼女の恩寵があまりにも強すぎたことだ。
まだ赤子だったセラフィナの身体を囲むように、神官たちが何人も並んでようやく力を封じた。
それを聞きつけたヴァレンティ家の動きは早かった。
封印の儀の翌日には、その将来について打診があり、いずれはしかるべき家門の幼女になることが内々に決まった。
両親はいつもセラフィナを愛情を込めて抱きしめてくれたし、一緒に笑ってくれた。
けれど、ヴァレンティ家から使いが来る日だけは違った。
父の背筋は伸びて表情はいつもより固く、母の手は、少しだけ冷たかった。
期待と評価。
そして、値踏み。
周りだけではなく、両親からの視線にすら、それらの意味が常に混じっていることを、セラフィナは幼いながらに感じ取っていた。
そして迎えた五歳の儀式の日。
セラフィナの封印が解かれた瞬間、空気が一変した。
「まるで、神の愛し子だ」
光があふれ、自分の中から広がる感覚。
あまりに強い力に神官たちのどよめく気配の中、セラフィナの未来は決定的になった。
ヴァレンティ家の嫡男の婚約者候補。
その未来のために、すぐにヴァレンティ侯爵夫人の血筋にあたる、ロゼ伯爵家の形式的な養女となった。
年に数度、儀礼の場で名前を呼ばれるだけの“親”。
姓が変わるのと同時に、本格的な教育が始まる。
セラフィナはついに両親とは離されて、ヴァレンティ家で暮らすことになった。
両親は悲しみながらもどこか安心していたように思う。
最初に連れられたのは 南部の本領ではなく王都のタウンハウスだった。
馬車を降りてから応接室に案内されて入るまでも、ずっとセラフィナから視線が離れることはない。
数人の大人たちの、柔らかな笑み。
けれど、その目の奥は違う。
姿勢。
歩き方。
呼吸の間。
測る目だ。すべてを見られている。
セラフィナは背筋を伸ばした。
ここでも、“見られること”が前提なのだと、理解していた。
「こちらが、セラフィナ様です」
紹介の声を合図に、教えられた通りに、ゆっくりと頭を下げる。
「はじめまして、セラフィナ・ロゼと申します」
声も、震えなかった。
それが良いのか悪いのかも分からないまま、ただ視線を受け止める。
そのとき。
ふと、別の気配が混じった。
「……ああ」
軽い声だった。
場にそぐわないほど、自然な。
セラフィナが顔を上げると、そこに金色の髪に青い目をした少年がいた。
同じくらいの年頃。
けれど、周囲の大人たちとは明らかに違う空気を纏っていた。
歳の割には妙に平坦な視線で、真っ直ぐにこちらを見ている。
「よろしくな、レオニスだ。」
そこに特別な感情は、何もない。
ただ、“相手として認識する”だけの視線。
(なに、それ)
セラフィナにとって初めてだった。これほどまでに何も乗っていない視線は。
(――私、この人がいい)
すとん、とセラフィナの中に感情が落ちる。
ありふれた一目惚れだったかもしれない。
けれど、セラフィナはこの人の隣に立ちたいと、本気でそう思った。
初めてレオニスと顔を合わせたこの日から、セラフィナの恋が始まった。
それから、婚約者候補としての教育はすぐに始まった。
朝から晩まで、礼儀作法。
歴史、政治、外交、舞踏。
立ち居振る舞いひとつでやり直し。
失敗すれば、静かに指摘される。
泣く時間は、与えられない。
それでもセラフィナは、逃げなかった。
見合うように、恥ずかしくないように、手を抜かない。
気安いようでいて、自分や周囲に対してどこか興味が薄いレオニスを振り向かせるために、最大限の努力を尽くした。
そして、今がある。
セラフィナにとって、恩寵の強さも聖女の称号も大した意味はない。
それは、レオニスの隣に居続けるための幸運でしかなかった。
◇
「だからね。私は、幸せなの」
セラフィナは明るく笑った。
どんな状況や立場でも、欲しいものをちゃんと見つけて自分で取りにいく強い姿。その姿が、眩しい。
「本当に、おめでとう」
リネアの口から、自然とそう言葉が出た。
セラフィナは嬉しそうに頷く。
「もうすぐ正式に発表されるけど、リネアには先に言っておきたくて」
「先に知らせてくれて、ありがとう」
心からの祝福だった。
セラフィナは、リネアをじっと見つめる。
何かを察しているような、でも踏み込まない優しい視線。
「リネアも、ちゃんと考えてね」
それだけ言って満足そうに立ち上がると、意味ありげに笑って、部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、リネアは静かに息を吐いた。
それから、数日後。
レオニス・ヴァレンティとセラフィナ・ロゼの婚約が正式に発表された。
◇
レオニスとセラフィナの婚約の話は、瞬く間に学院中を駆け巡った。
「聞いたか?」
「何を?」
「ヴァレンティ家の」
次の瞬間には、廊下でも中庭でも、同じ話題が飛び交っていた。
「まさか……」
「レオニス様、婚約だって」
在学中の婚約は珍しい。
それが軍務卿の嫡子、レオニス・ヴァレンティともなれば、なおさら学院生たちの興味を引いた。
「お相手は?」
「セラフィナ嬢」
「やっぱり……」
納得と驚嘆が混ざる声。
まるで一つの事件のように、学院は浮き足立っていた。
やがて当人たちが姿を見せると、人の流れが自然と割れる。
「おめでとうございます!」
レオニスとセラフィナに向けて、祝福の声が次々と重なった。
セラフィナは少しだけ頬を染めながらも、凛と微笑む。
「ありがとう」
「正式に決まった。騒がせてすまない」
隣のレオニス様は、落ち着いた調子で応じている。
二人の堂々とした姿に、祝福の輪はさらに広がった。
その一方で。
「……終わった」
「何が」
「俺の青春が」
芝生に崩れ落ちる男子生徒。
「セラフィナ嬢に一度くらい話しかけようと思ってたのに……」
「身の程を知りなさいよ」
そう言いながらも、肩を落とす令嬢もいる。
「レオニス様……」
「やっぱり、お似合いよね」
祝福と悲壮感が奇妙に混じり合っていた。
リネアは教室の窓から、中庭を歩くセラフィナとレオニスを見守っていた。
二人が時折交わす視線には、揺るがない信頼があった。
視線を教室内へ向ける。
ざわめくクラスメイトの中で、クロウは、自分の席で騒ぎを静かに受け止めていた。
ネーリス兄弟やガイに話しかけられると、短く答える。
「クロウは、知ってたのか?」
「ああ」
「幼馴染だろ?ちょっと寂しくなるな」
「いや」
クロウは首を振る。
「祝福している」
口元を少し緩ませた、いつもより少し優しい声。
友としての穏やかな祝意だった。
夢で見たようなセラフィナへの特別な熱はそこにはなく、傷ついた様子もない。
リネアはなぜかその姿にほっとした。
その視線に気づいて、クロウが席を立ってこちらへやってきた。
「セラフィナから、聞いていたか?」
「うん、少し前に。クロウはいつ?」
「休暇に入った頃にレオニスから。ただ、前々から本家でその話は出ていた」
ヴァレンティ家とノクエル家は近しい。
そういった情報はすぐ入ってくるのだろう。
「セラフィナ、すごく嬉しそうだった」
「レオニスもなんだかんだで、喜んでいた」
寮の夜に見せた、はにかんだ笑顔を見て胸の奥が温かくなる。
「……二人とも将来をきちんと決めて、すごいね」
独り言のような呟きが思わず漏れた。
「婚約」「結婚」という言葉が、学院中のあちこちから聞こえる。
けれど、リネアにとって、その言葉はやっぱり現実味がない。
婚約も結婚も、最初から自分の人生には含まれていないものと考えてきた。
窓の下では、晴れた空の下で桃色の髪が笑い声の中で綺麗に揺れている。
(本当に、よかった)
リネアはそう思いながらも、自分とは別の遠く手の届かない未来を覗いているような感覚にもなる。
その隣で、クロウは何も言わずにリネアの横顔を見つめていた。




