第四十九話:終わりゆく日常、始まりの影
あれから三年——。
アルトの朝は、驚くほど静かで、そして穏やかだった。窓から差し込む柔らかな光が木製の机を照らし、部屋の隅で揺れる影を長く伸ばす。かつて、毎日のように魔力の暴走を恐れていた少年の姿は、ここにはもうない。深呼吸をすれば、胸の奥まで澄んだ空気が届く。魔力は安定し、脈打つように一定のリズムを刻んでいた。
多少無茶をしても魔力は減らない。それがどれほど幸せで、どれほど長い道のりの果てに掴んだ成果なのか——アルト自身が一番よく知っていた。
「今日もいい天気だな」
アルトは軽く伸びをすると、外套を羽織り、街へと出た。
この三年間、劇的な事件は起こらなかった。たまにFやEランクの小さな依頼をこなし、街の人々の困りごとを未来予知でさりげなく回避し、魔法で手助けする。それが日常になっていた。
街を歩けば、すぐに声がかかる。
「アルト君、おはよう!」
「いつも助かってるよ。今日荷物運び、頼めるかい?」
「アルト兄ちゃーん! また魔法見せてー!」
笑顔を向けられるたび、胸の奥が温かくなる。三年前、死にかけたあの夜。自分の存在が消えかけたあの恐怖が、遥か昔の話のように思えた。
市場の手伝い、子どもたちの魔法の簡単な訓練。倒れた荷物を風魔法で支え、お年寄りの歩行をそっと補助する。どれも小さなことだ。けれど、誰かの役に立てる喜びがそこにはあった。
未来予知は必要最低限にとどめている。使いすぎれば、かつてのように精神を削り疲弊してしまう危険がある。だが今は、視ようとしなくても“起こり得る危険”が自然とわかる。精度も精密さも格段に向上している。
「アルト、今日の調子はどう?」
昼過ぎ、ギルドに立ち寄ると、ルナが手を振って近づいてきた。
変わらず美しく、けれど三年前より柔らかい微笑みを浮かべている。アルトが無事に歩んできた日々を見守ってきた者だけが持つ、安心に満ちた表情だ。
「魔力、診せてもらえる?」
「はい」
ルナが手首に触れ、目を閉じる。魔力の流れを読み取るその動作は、三年前と同じ。だが結果は、まるで別物だった。
「……すごい。全て安定してる。暴走どころか、減少の兆しすらないわ」
誇らしげな声だった。
「本当に、ここまで来たのね。こんなに安定しているなら……上のランクも視野に入れていいかもしれない」
「焦らず少しずついきますよ。今の生活、けっこう好きなんです」
ルナはくすっと笑った。
「あなたらしいわね」
そんな何気ない会話が、アルトにとっては何よりの幸福だった。
夕方になり、街は赤く染まり始める。家々の間を吹き抜ける風は暖かく、人々の声は穏やかで、どこか懐かしい。
アルトは時折訪れる高台へ足を運び、腰を下ろして空を眺めた。
「……こんな日々が続けばいいんだけどな」
誰にも聞こえない声で呟く。
魔力も安定し、未来予知の負担も軽くなった。街のみんなと笑い合える日々。ルナと語り合う時間。自分の存在が誰かの役に立っているという安心。
それらは、かつてアルトが夢見ていた“普通の生活”に他ならない。
だが、その平和にほんのわずかな影が差すのは、この夜のことだった。
ふと、視界の隅に何かが揺れたように見えた。
「……ん?」
振り向くが、そこには何もない。草が風に揺れただけ。いつもの風景。いつもの音。いつもの静寂。
だが、胸の奥に小さなざわめきだけが残った。
翌朝も、日常は続いた。市場では老人に頼まれ、倒れた荷物を軽い魔法で支えた。
「ありがとうねぇ、アルト君。怪我するところだったよ」
「いえ、気をつけてくださいね」
子どもたちは相変わらず元気で、駆け回りながら彼に手を振る。
「アルト兄ちゃん!今度こそ当ててみて!何持ってるでしょうゲーム!」
「はいはい、また後でね」
あまりに平和過ぎて、昨夜の違和感など夢だったように思えた。
——だが。
夕暮れが近づいた頃、風が止んだ。
市場のざわめきが少しずつ小さくなり、鳥たちがどこかへ飛び去る。空気がひやりと冷たくなる。わずか一瞬の静寂。
「……これは」
未来予知が、勝手に反応した。
アルトは足を止め、街の外壁へ視線を向ける。
陽が沈みかけ、影が伸びる。その先に——
地平線から、ゆっくりと“それ”が姿を現した。
黒い。
深淵のように黒い。
形を持つようで持たない、異形の“影”。
——ひとつ。
——ふたつ。
——みっつ。
——よっつ。
揺らめきながら、確実にこちらへ向かってくる。
街の喧騒はまだその存在に気付かない。
だがアルトには分かった。これは単なる魔獣でも敵でもない。
“あの夜に感じた死”と同じ匂いがあった。
喉が乾き、思わず息を呑む。
「黒い……四つの影……」
その呟きと共に、アルトの三年間の平和は静かに終わりを告げた。
——第一章 完。




