第二十三話:時を知る者と、知らぬ者
エルトリアの空気は、いつもより温かく穏やかだった。午後の陽光が石畳を照らし、商人たちの声が心地よく響き渡る。冒険者ギルドの扉の奥には、緩やかに流れる日常。誰もが、いつもと変わらぬ一日を過ごしている――そのはずだった。
だが、その日を迎えたアルトの姿は、まるで世界のすべてに背を押されるような必死さに満ちていた。息を切らし、喉を焼くような呼吸を繰り返しながら、彼はギルドへと駆け込んだ。
「……っ、はぁ……!」
扉を勢いよく押し開けた瞬間、アルトの足は止まった。
笑い合う冒険者たち。 手際よく書類を処理する受付嬢たち。 遠征帰りのパーティが戦果を誇示し、酒場では昼から酒をあおる者たちの姿。
――何事も起きていない。
数時間前に見た、炎に包まれた街の姿……。
赤黒く燃え上がり、悲鳴が溢れ、魔物たちが家々を蹂躙する光景は……夢でも幻でもなかった。
あれは“未来”だった。
そして、その未来を知るのは他ならぬ彼だけ。
(間違いじゃない……絶対に起きる……!)
アルトは震える呼吸のまま、受付カウンターを探した。
その奥に――ルナがいた。
彼の焦りをひと目で察したのか、ルナは眉をひそめ、すぐに立ち上がった。
「アルトさん……どうされたのですか。その顔……」
「…………はぁ……急ぎで、話したいことが……」
声は掠れ、膝は震え、喉は乾いている。
それでも彼は必死に言葉を繋いだ。
ルナはアルトのただならぬ気配を悟り、他の受付嬢に仕事を任せると、彼を人気のない資料室へと案内した。重い扉が閉まると、外の喧騒は嘘のように消え、部屋は薄暗い静寂に包まれた。
「……ここなら話せます。アルトさん、落ち着いて……ゆっくりで構いません」
優しい声。だが、アルトにはそんな余裕すらなかった。
「俺……未来を見ました」
その言葉は、重く、苦しげで、どこか破綻した響きを帯びていた。
「街が……エルトリアが、炎に包まれて……魔物が押し寄せて……。
俺は……何もできなかった。
でも……気づいたら……昼に戻っていたんです。時間が……巻き戻ったんです」
言葉を吐き出すほどに、視界が揺れる。
信じてほしいとは思わない。だが、伝えねばならない。
彼一人が知る未来――それは、この街を救う唯一の鍵なのだから。
ルナは驚いたように息を呑んだものの、激しく変化する表情は見せなかった。
ただ、深く、静かにアルトの言葉を受け止めていた。
「街が襲われる……未来ですか?」
「はい……間違いなく……」
彼の声は震え、今にも崩れ落ちそうだった。
しばらくの沈黙が降りた。
ルナは視線を落とし、何かを吟味するように指を組む。
その姿には、迷いや軽い動揺はあっても、アルトの話を否定する気配だけはなかった。
やがて――ルナはゆっくりと口を開いた。
「アルトさん。おかしな話だと思うかもしれませんが……。この世界には、極限状態の中で“説明できない現象”を引き起こす者が、極めて稀に存在します」
「現象……?」
「はい。死に際、絶望、世界そのものに拒絶されるほどの危機……。
そうした状況で、本人の意思とは関係なく“時の干渉”が起きた、という記録があります」
アルトは目を見開いた。
否定ではない。
狂気扱いでもない。
彼女は、彼の言葉を真正面から受け止めている。
「それは……もう一度起きるんでしょうか?
もし……また街が襲われたら……俺は……」
恐れと期待が混ざった問い。
だが、ルナの答えは静かで、残酷だった。
「分かりません」
「……っ」
「ですが――一度起きたからと言って、二度目も起きるとは限りません。
むしろ、起こらない前提で動くべきです」
アルトは息を呑んだ。
二度と巻き戻らない。
ならば――次は、街が燃えれば終わりだ。
ルナはアルトへ歩み寄り、その瞳をまっすぐ向けた。
「アルトさん。あなたは未来を“見た”。
それは、重いことです。
ですが……それはとても強いことでもあります」
胸の奥で、恐怖に押し潰されそうだった心に、わずかな光が灯る。
「未来を変えられるのは、“未来を知る者だけ”です。
あなたは、その資格を持っています」
言葉は、慰めではなかった。
嘘でも、期待でもない。
ただ、アルトという存在を“信じた”真実の響きだけがそこにあった。
アルトは拳を握りしめる。
初級魔法しか使えない。
Fランクの弱い冒険者。
中級や上級魔法で瞬く間に敵を薙ぎ払う実力もない。
だが――未来を変える知識はある。
「……俺、やります。
あの未来を……変えてみせられるなら、やるしかない」
ルナは穏やかに微笑んだ。
「ええ。あなたならきっとできます。
未来は、まだ決まっていませんから」
その瞬間、アルトは深く息を吸い込み、資料室の扉を勢いよく開け放った。
ギルドの喧騒が戻ってくる。
世界は、まだ平和なままだ。
――だが、この平和は長く続かない。
それを知っているのは、世界でただ一人。
アルト・ハヤカワだけ。
彼は迷いのない足取りで走り出した。
未来を変えるための、最初の一歩を踏み出すために。




