第二十二話:一瞬の出来事……そして
エルトリアの街に移り住んでから、すでに数年の時が流れていた。
森の中を駆け回っていた少年アルトは十七歳となり、身体つきはすっかり青年のそれへと変わっていた。頬のあたりはまだ幼さを残しながらも、無駄な肉のない締まった腕と脚、日々の鍛錬で鍛えられた芯のある動き。冒険者としてはまだまだ駆け出しだが、外見だけなら立派に“冒険者らしさ”を備えている。
だが――冒険者ランクは依然としてF。
ギルドで受ける依頼も、薬草採取か雑用ばかりだった。
とはいえ、アルトにそのことへの不満はまったくなかった。
リーフェル森の奥で薬草を摘み、自然の呼吸を感じながら淡々と作業を続ける――その時間は、彼にとって何よりも落ち着く場所だった。前世では得られなかった静寂。誰からも邪魔されない、ただ自分と世界だけが存在する空間。それは彼にとって修行であり、癒しであり、そして自由そのものだった。
採取の合間に使う初級魔法は、決して派手ではない。
だが八属性すべてを操る彼は、その初級魔法を組み合わせることで、他の冒険者とはまったく違う“幅”を手に入れていた。
たとえば、火で芽を焼かぬように土で土台を固め、風で表面の埃だけ飛ばす。
たとえば、光魔法で影を確認しながら水魔法で根の状態を探る。
たとえば、錬金魔法や補助魔法を組み合わせ、採取した薬草の劣化を最小限に抑える。
気づけば、アルトの複合スキルは確実に精度を増し、もはや“初級魔法”という枠組みでは語れないレベルに達しつつあった。
そんな穏やかな日常が――ある日、唐突に崩れ去った。
――エルトリア郊外にダンジョンが出現した。
その知らせが街に届いた瞬間、空気は爆ぜるように熱狂へと変わった。
冒険者たちは目を輝かせ、商人たちは商機を逃すまいと荷車を押し、ギルドは連日大行列ができるほどの慌ただしさ。
もちろん、ダンジョンが出現すれば危険は増す。しかし、同時に名声も富も得られる――上位冒険者にとっては、願ってもいない好機だった。
ただし、ダンジョンの危険度ランクは高く、入場できるのはDランク以上。
結果として、街から中堅以上の冒険者が一気に姿を消し、残されたのはEランク以下の者と一般市民ばかりとなった。
ギルドはまるで空洞になったかのように静まり返り、街の治安は薄氷のように脆くなっていた。
その日の夕刻。
陽が傾きはじめ、森の影が長く伸びる時間帯。アルトはいつものようにリーフェル森で薬草採取をしていた。風は穏やかで、森の匂いもいつも通り。葉擦れの音が静かに響き、鳥の声が遠くで重なる。
――変わらない、いつも通りの日常のはずだった。
その時だった。
胸の奥で、ざらつくような“揺れ”が走った。
アルトは思わず手を止める。
それは気のせいではない。魔力の波――だが、これまでに感じたどの魔物の気配とも異質だった。
濁りきった泥水のような魔力。
冷たさと熱が同時に突き刺さるような痛み。
大気そのものがひしゃげ、軋むような重苦しさ。
生命の気配ではない。あれは“災厄”そのものだった。
「……なに、今の……?」
背筋を氷柱でなぞられたような悪寒。
アルトは反射的に薬草を入れた袋を抱え、森の出口へ走り出した。
だが――数分後。
木々の隙間から見えた光景に、彼の足は地面に縫いつけられたかのように止まった。
エルトリアの街が……燃えていた。
「……嘘、だろ……」
黒煙が空を染め、建物が次々と炎に飲み込まれていく。
街の中心には、見るはずのない魔物たちが群れをなして暴れていた。
深紅の巨躯を誇るオーガ。
黒く影のように走る魔狼。
空から急襲する有翼の魔物。
しかも、その動きには明確な“統率”があった。偶然ではない。
これは、明らかに計画された襲撃だ。
街に残っていたのはダンジョンに入れない低ランク冒険者だけ。
彼らは必死に武器を構えるが、相手が悪すぎた。
剣は折れ、盾は砕け、魔法はかき消され、人々の悲鳴が響き渡る。
アルトは――ただ立ち尽くすしかなかった。
初級魔法しかない自分では……どうにもならない。
工夫すれば勝てたコボルトではない。
複合魔法で押し切れたグリムファングでもない。
これは、次元が違う。
絶望が胸を締めつけ、心が軋む。
視界が滲み、呼吸が苦しくなる。
その瞬間――
胸の奥で、“何か”が弾けた。
それは魔力とは呼べないものだった。
感情でも意志でもない、もっと奥深く、原初の――世界そのものに触れるような感覚。
視界がゆらりと溶け、世界がぐにゃりと歪む。
色が裏返り、音が吸い取られる。
空気の流れが止まり、時間が引き伸ばされていく。
右手の甲。手袋の下の紋章が、焼鉄のように熱を帯びた。
そして――
すべてが、止まった。
……次に目を開けた時。
エルトリアの街は、燃えていなかった。
夕焼けも黒煙もなく、パニックもない。
人々は商店の前で談笑し、子どもたちは遊び、冒険者たちは酒場で笑っている。
太陽はまだ高く、街は平穏そのものだった。
アルトは自分の腕をつねった。
「……戻った……? 本当に……?」
痛みは確かにある。
これは幻覚ではない。
――時間が巻き戻っている。
紋章。
それが秘めていた“第九の力”。
アルトが知らなかった、初級魔法とは別格の能力が――極限状態で暴発した。
理解は追いつかない。
だが、ただ一つだけ確かな事実がある。
このままでは、数時間後にエルトリアは壊滅する。
そして、その未来を知っているのは――アルトだけだ。
「……守らなきゃ」
震えではない。
覚悟の響きだった。
少年だったアルトは、もういない。
未来を変えるために走り出す青年の背に、迷いはなかった。
アルト・ハヤカワは、崩壊する未来を必ず止めると胸に誓い、街へ向かって全速力で駆け出した。




