コクリコ
五月。久しぶりに休みの取れた、ある日の午後。
僕は注文していたとある品を受け取りに、マサ叔父さんの店へ向かっていた。
ころんころんと懐かしい音を響かせて飴色の扉をひらくと、叔父さんはいつもの笑顔で「ああ、来たね」と僕を迎え入れてくれた。
「できているよ。チェックしてくれるかな」
「はい」
叔父さんが、とても気に入りの出来になったものをいつもそうするようにして店のウインドウに飾っていたそれを、大切そうにこちらに運んでくる。
それは、うっすらと紫がかったグレーのハイヒールだった。ぱっと見には無地に見えるのだけれど、よく見ると細かくて丁寧な刺繍がほどこされた品のいいものだ。それはこの持ち主になる人をよく表現しているように思われた。
「本当は本人に来てもらって、ここで手直しなんかをしたかったんだけど。サプライズのプレゼントじゃ、しょうがないね」
「はい。いや、まあこちらで足型を取ってもらったりしたんだから、もう勘付かれてるとは思うんですけどね」
それを聞くと、叔父さんはふふふ、とさも嬉しそうに微笑んだ。
「喜ぶと思うよ。何かあったらいつでもうちに持ってきてくれるように伝えてくれるかな」
「はい、もちろんです」
しきりに固辞しようとする叔父さんにお代を支払い、ていねいにお礼を言って、僕は店をあとにした。
ごみごみとした街の間を、奇跡のようにさわやかな風が一瞬だけ吹き抜ける。
もうすぐ、僕の愛するあの人の、二十歳の誕生日がやってくる。
人によっては間違いなく眉間に皺をたてられるような関係ではあるけれど、僕らにとってこの関係を守ることは、今は生きることそのものだ。
靴箱の入れられた紙袋を提げて、僕は僕らの「巣」に向かう。
あれから彼と考えて――いや、やっぱりもう、今では「彼女」と言うのが自然だろう――僕らは澄子さんのアパートからもほど近い場所に、二人で小さな部屋を借りた。
以前に僕の部屋でふたり暮らしをしていたときと同様、家賃や光熱費などは折半で、家事なんかも分担で。とはいえ家事のほうは案の定、ほとんどが彼女の領分となってしまっているけれど。
(そろそろ、目が覚める時間かな)
僕はスマホを取り出してちらりと画面を確認すると、少し足をはやめた。
あれからキャンディさんの勧めもあって、彼女はその人と同じ店に勤めることになった。幸い、周囲には以前からすでに顔見知りになっていた人も多くて、ごくすんなりとその場に溶け込めたのであるらしい。それは彼女にとって、何よりのことだった。
もちろん彼女は、そこでする仕事の内容とか格好について僕が少しでも嫌な顔をするようなら絶対にやめるつもりだったらしい。
はじめのうち、さすがの僕も、彼女が夜遅くまで知らない男相手に酌をしたり話相手になったりという仕事をするということに、一抹の不安と不快感を覚えたのだった。けれど、「だったら見にいらっしゃいな」というキャンディさんの強い勧めで一度その店にお邪魔してみて、迷いは消えた。
そこはごく明るい店で、働く人たちのプロ意識にも圧倒されるところがあった。みなさん、本当に明るくて賢い方たちばかりで、僕の知識なんてその足元にも及ばなかった。
今では店のみんなも省吾のことをとても大事にしてくれている。もともと、そうやってお互いを守ることも店の目的のひとつなのだとお店のママやキャンディさんがそれとなく教えてくれた。
省吾――いや、今では彼女は別の名でその店に勤めているが――は、そこに勤めはじめて以降、とても明るい顔で笑うようになっていった。
そのことが、僕はなにより嬉しかった。彼女が彼女の生きやすい場所をちゃんと確保できたというなら、そこに僕が文句をさしはさむ道理はないのだ。
「ためしに女性の格好をしてみましょうか」というキャンディさんの鶴の一声で、彼女が借り物のワンピースやアクセサリーを身につけた姿を見て、僕は驚いたものだった。どちらかといえば今まで、そういう系統の仕事をする人について「けばけばしくて品がない」という勝手な思い込みのあった僕は、頭をとんかちで殴られたような気分だった。
美麗は――そう、彼女は今ではみんなにそう呼ばれている――その名の通り、とてもきれいだった。そして、とても品があった。
確かに背は高いし肩幅もあって、ひと目で女性でないことは明らかだ。けれど、それでも僕には、彼女はこの世でいちばんきれいな、いちばん尊い人に見えた。
彼女が僕にその姿を見せることに恐れを抱かなかったはずはない。でも、僕が素直に「とってもきれいだよ」と言って彼女を両手で抱きしめたとき、美麗の肩からすうっと、ほんとうにすうっと、何かが溶け出たようだった。
そうしてそれは、僕の気のせいではなしに、そのまま空中に霧散していった。
さなぎが、蝶にかわるように。
そのときとうとう、彼女は生まれ変わったんだろうと思う。
その場に居合わせることができたことを、僕はこれからもずっと忘れない。
そして、ずっと感謝したいと思ってる。
◇
もとの建物よりはだいぶ小奇麗な、それでもごくつつましやかな大きさのアパートに戻ると、僕はなるべく音をたてないようにして彼女の寝ている部屋に向かった。
ゆうべは少し遅くまで店に残っていた彼女は、どうやらまだ眠っているらしかった。
そうっと、音を立てないように襖を開ける。思ったとおり、ベッドの上ではすやすやと、まだその人は寝息を立てていた。
「ただいま……美麗」
囁くような声でそう言ったら、ふわりと彼女が目を開けた。最近ではだいぶ伸びてきたその茶色の髪が、もう肩のあたりに掛かっている。
「あ。ごめんなさい。お出かけだったの……?」
「うん。ちょっと、引き取りに行くものがあったから」
さりげなく足元に紙袋を置いて、ベッドのふちに腰を掛ける。僕は美麗が起き上がってきたところを、いつものように抱き寄せた。パジャマよりはネグリジェの好きな彼女は、今日は長くて薄桃色のそれを身にまとっている。
本当は初めのうち、「自分みたいないかついのには、こんなきれいなもの似合わないから」と、着たいのを我慢していたらしいのだけれど。他からさりげなくそう教えられて、僕が勝手に買ってきたのだ。
「おはよう。疲れてるんでしょ。もう少し寝ていたらいいよ」
眼鏡をはずしながらそう言って、その唇に顔を寄せる。
「今日は僕、休みだし。お昼は作るから。ゆっくりしていて」
「ん、ありがと……」
軽く口付けをかわしてから、僕は紙袋をとりあげた。中身をとりだし、箱を彼女の膝に乗せる。
「はい、これ」
「……え?」
美麗がびっくりして目を瞬かせた。
ようやく思考がはっきりしてきたらしい。
「もうすぐ、誕生日だったでしょう。少し早いけど、当日は僕、学会で先生についていかなきゃならないもんだから。会えるかどうか分からないし」
「俊介さ……」
「二十歳の誕生日、おめでとう。美麗」
箱から出てきたものを見て、美麗はさらに目を大きくし、またすぐに泣きべその顔になってしまった。
「泣かないでよ。……ほんと、いつも困った人だな」
「だって……」
嬉しいからなんだとは分かっているけれど、僕が見たいのは泣き顔じゃない。僕は彼女を抱き寄せて、その頭をぽすぽすやった。
「幸せなの」と、小さな声で彼女は言った。
「でも、幸せすぎるのは、とても怖いの。……こんなに、幸せだったこと……ないんだもの」
しゃくりあげながら彼女が言う。
「なに言ってるの。いままで貸した分、返してもらってるだけじゃない」
「え……?」
「誰かが君から無理やりに借りていたものが、今まで多すぎただけのことだよ。これから、もっともっと、返してもらわなくっちゃあね。……それこそ、倍返しでさ」
僕は笑って、また彼女を抱きしめた。
僕なんかの細っこい腕では、到底しっかりとは抱きしめられない彼女の体を。
(……それでも)
それでも、僕が守るんだ。
いや、ふたりで守りあうんだ。
やっと見つけた、ふたりの場所を。
「俊介さん……大好き」
「僕もだよ。美麗」
愛してる。
君を、君だけを、こころから。
窓辺に飾られた可憐な花が、
その花言葉のよく似合う、僕の愛する人を見つめて、
五月の風にそよとうごいた。
完
2017.11.11~2017.12.12.Tue.
これにて完結です。
ここまでお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました。





