5 理由
両手で顔を覆ったまま、省吾はしばらく何も言わなかった。
いや、言えなかったというのが正しい。なぜなら省吾はもうぼろぼろと両目から涙を落としていたからだ。今度は顔の前で拳の形にした手が、ぶるぶる震えている。
「……な、無理、です……」
「うそだ。……こんなの、ウソだもの……」
それでもやっと切れ切れに聞こえてきた言葉はそんな感じで、僕の質問に答えるようなたぐいのものじゃなかった。
僕はちょっと、ため息をついた。
「なに言ってるの。君の部屋の中でこんな風にして向き合って、それでわざわざこんな嘘を言うほど、僕がもって回った人間に見える?」
「…………」
省吾は黙っていたけれど、ゆっくりと拳をずらしてこちらを見ると、首を横にふった。
「そうだよね? 信じてもらえないなんて傷つくんだけど。僕だって、これでもかなりの決心をして告白したんだから」
「……ご、ごめんなさ――」
「あやまらないで」
僕はすいと手を上げて人差し指を立て、省吾の唇の前でぴたりと止めた。
「そんな言葉が聞きたいんじゃないよ。わかってるでしょ?」
「…………」
「返事は、聞かせてもらえないの……?」
ひたすらに沈黙を貫いている省吾を見ながら、僕はどんどん悲観的な想像ばかりをたくましくしていた。そうしてもう、なかばぐらいまでは気持ちの整理をつけ始めていた。
(ああ……そうか)
これは、たぶん、ダメなんだ。
そりゃそうだ。無理もない。彼が女の子の心を持っているからといって、僕個人を気に入るかどうかなんていうのはまた別の話なんだから。彼だって、ほかの女性の皆さんと同じだ。当然、「男だったら誰でもいい」なんてわけがない。
そんなことは分かりきっていたのに、僕はどうしても落胆する自分の内面をどうにもできずにいた。だから省吾の続ける沈黙を、ぎりぎりのところまで待ってしまった。
しばらくは、まだ冷たい外の風が、安普請の窓ガラスをかたかた揺らす音だけがしていた。
「……ごめんね。困らせちゃったね」
最後に僕は、とうとうそう言った。
「ごめんなさい。無茶なこと言うみたいだけど、どうか……忘れてください」
そうして、彼に頭を下げた。
「ほんとにごめん。顔を合わせるのが気まずいようだったら、すぐには無理だと思うんだけど、なるべく早く引越しとか……考えるようにするから」
省吾はびっくりしたように目を見開いて、「あ」と言った。そして、急に慌てだした。
「ちがっ……! そんな、違う。違うんです、俊介さん……!」
立ち上がりかけた僕を押しとどめるように手をあげて、腰を浮かせている。僕はそれを見て、またちゃぶ台の前に座りなおした。彼はとても困惑して、悲しげに見えた。もはや狼狽しきっていて、何から話せばいいかもわからないという風だった。
「……嬉しいんです。ほんとです。なんだか夢みたいで……今も、とてもほんとだって思えないぐらいで」
「……ほんとに?」
嬉しい、と聞こえたそれは、現実のことだったのかどうか。僕はそれでもまだ、自分の耳のはたらきを疑っていた。
「うれしい、……って、言ってくれたの?」
「……はい」
省吾はもう真っ赤になり、声は消え入りそうだった。
でも、間違いない。彼は間違いなく、首を縦にふってくれた。
僕は、胸の中ですっかり萎れてしまいかけていた花が、水を吸って起き上がるような気持ちになった。
「じゃあ――」
「だめです」
言いかけた僕の声を、省吾はすぐに打ち消した。
「え? なんで……」
「ダメなんです、自分なんか――」
省吾はますます体を固くして激しく首を横に振った。僕はわけがわからずに絶句して、しばらくそんな彼を見つめていた。
でも、これで「はいそうですか」なんて引き下がるのは御免だった。このままでなんて、絶対に帰らない。
僕はすっかり冷めてしまったコーヒーの残りをぐいと飲み干して、彼に向き直った。
「……わけを教えてよ。そんなんじゃ、納得できない」
「…………」
省吾は困り果てたという顔で俯いたままだ。
(……そうか)
ここだ。ここなんだと僕は思った。
多分、ここでボタンを掛け違えるととんでもないことになる。僕自身、ちゃんと落ち着いて考えて、彼を傷つけないようにしながらも、最適な解を導き出す必要があるんだ。
「……えっと。じゃあ、整理の続きをしてみようか」
「…………」
「嬉しい、って言ってくれたよね。つまり君は、僕を嫌いじゃないってことなんだよね……?」
口を引き結んだままで、ぶんぶんと省吾がかぶりを振る。それだけだと分かりにくい動作だったけれど、表情から察するに、それは明らかに僕の言葉を肯定するという意味らしかった。
「でも、お付き合いだとかそういうことはできないと」
「…………」
省吾の大きな体が、いっそう小さくなったように見えた。
「じゃあ、ここからが第三の問題だね。お互いの気持ちはわかったけれど、そうはできない理由がある。ここを理解できないと、少なくとも僕は納得できない」
「…………」
「でも、それは君にとってはとても話しにくい種類のことだ。……ちがう?」
「…………」
省吾の沈黙が、答えをみんな教えたようなものだった。
それからまた、重苦しい沈黙があった。
それを破るために、僕は脳内のニューロンとシナプスを猛烈に回転させて考えた。僕がこんな種類のことをここまで必死に考えるなんて稀有なことだ。
「ええっと……あのね。僕の勝手な想像だったら申し訳ないんだけど……言ってもいい?」
「…………」
不安げな彼の目が、そろそろと上がってこちらを見た。
「君が素直に『イエス』って言えないのには、以前のことが関係してる? 前に住んでいた場所から君が、ここへやってきたことと――」
「…………」
省吾の濡れた瞳が、戸惑うようにゆれた。
僕はもう、ほとんどそれを確信していた。
そうなんだ。
彼には大きな傷がある。
その深くて大きな傷のために、彼は体だけじゃなく、心もずたずたにされているのだ。そして、そのために今、僕の思いを受け取れないと言って、こんな風に泣いているのだと。
「……あのね。もし、嫌なら断ってくれていいんだけど。もし良かったら、聞かせてくれない……? 昔、君に何があったのか」
「…………」
すっかり冷たくなった二つのマグカップを前に、僕らはしばらく、そのままの姿勢で沈黙していた。





