4 チョコレートケーキ
(バカだ。僕はバカだ。大バカだ……!)
それを受け取ったとき、僕は心の中でこの台詞を百万回ぐらいは叫んだ。
バイトから帰ってきた深夜、いつものアパートの廊下である。僕が帰ってきたことに気づいたらしい省吾が、弁当箱を受けとりがてら僕の部屋にやってきたのだ。
二月十四日がどういう日で、世間の女子たちが何に心をときめかせているかなんて、周囲にほとんど男子しかいない今の僕には思い至らないことだった。いや、もちろん働いているコンビニでは赤と金色と茶色の飾りつけだの、綺麗に包装されたチョコレート菓子の商品だのを山ほど目にしてはいたけれど。
でも、それが直接自分に関係のあるイベントだなんて、僕の頭にはこれっぽっちも上ることはなかったのだ。
無事にインフルエンザも治り、僕が再び大学とバイトに明け暮れる毎日を過ごしていた間に、省吾はキャンディさんと相談してあれこれと準備を進め、このアパートに住む寂しい連中のためにとチョコレートケーキを焼いたというのだ。
それも、共用の台所にはオーブンがないからと、キャンディさんの仕事仲間――まあつまりは、そういう方々だ――のお宅にお邪魔してオーブンを借り、澄子さんの分も合わせて結構な量を焼き上げたらしかった。
きれいにラッピングしたそれを僕に手渡しながら、省吾は恥ずかしそうにそれらのことをあらいざらい教えてくれた。
そう、あの時の約束どおりに。
「あの……俊介さん?」
かわいらしくてポップな水玉模様のはいった透明フィルムに包まれたそれを手のひらにのせたまま、僕は片手で顔の下半分を覆って黙りこくっていた。
さすがに変に思ったらしく、省吾がちょっと恐々といった様子で僕の顔色を覗っている。
「……ごめん。ほんと、ごめん……」
「え――」
「……恥ずかしくて。ほんっと僕、ガキだなって」
「そ、そんな」
省吾は驚いたように目を見開いた。
「ほんともう、ごめん。くだらないことで、君に不愉快な思いをさせちゃって」
「え、あの……やめてください。そう思わせちゃったのは、こちらの落ち度だと思うので」
省吾は狼狽して、「それじゃ」とあわてたように後ろを向き、自分の部屋へ戻ろうとした。夜中だというのに、僕は思わず大きな声を出した。
「あの、待って!」
省吾がびくっとしてこちらを振り向く。僕は思った以上に大きな声が出たことに気づいて声を落とした。
「あの……ありがとう、省吾くん。嬉しいよ」
包みを持ち上げてそう言ったら、省吾はぱっと嬉しげな顔になった。
「……いいえ。日ごろの……お礼なので」
(あれ?)
そうか。これはそういう意味のチョコレートケーキか。
そう思ったら、心のどこか片隅で、「なんだ」とがっかりする声が聞こえた気がした。
そうだ、そうに決まってるじゃないか。
さっきから省吾は、キャンディさんと一緒に「このアパートの住人全員にこれを配った」と言ったんだから。僕だけが何か特別なわけでもないし、これに何か特殊な意味が含まれているなんてことはないんだ。
そんなこと、分かりきっているじゃないか。
でも僕は、一瞬のうちに駆け巡ったそんな思いを笑顔の下に押しこめた。
「ううん。ありがとう。大事にいただくね」
そうしたら省吾はまたにっこり笑った。
「はい。お口に合えばいいんですけど」
じゃあ、とまた軽く会釈して戻ろうとした彼を、僕はあわてて呼び止めた。
「あっ! あの、省吾くん。いま時間ある?」
「はい……?」
「良かったら一緒に少し、お茶していかない?」
「えっ……」
省吾は驚いたようだったけれど、でもすぐに嬉しそうに頷いて、「じゃ、コーヒーでも淹れてきます」と、一階の台所におりていった。
◆◆◆
部屋に戻り、以前に買ったものにつけられていたプラスチックのフォークを出してきて、僕は省吾の淹れてくれたコーヒーと一緒に彼のケーキをいただいた。チョコレートのケーキではあったけれど、それはしっとりしていてそんなに甘すぎず、カカオの苦味も品があって、僕の口にはちょうどよかった。
一口目を食べた僕の顔を心配そうに見ていた省吾に、僕は大きく頷いて親指を立てて見せた。
とたんにまた、ぱっと部屋の中に花が咲いた。
「甘すぎなくってちょうどいいよ。すごいな、こんなのも作れるんだね、省吾くん」
「あ、いえ。ほとんどはキャンディさんに教わって作ったので。あの方、甘いものには目がないみたいで。オーブンを貸してくださった方からも色々アイデアを頂きましたし、少しブランデーなんかも分けていただいて」
「そうなんだ。ああいう方たちって、実は本当の女の人よりずっと女性らしかったり、細やかだったりするよね。本当においしいよ。ありがとう」
「……いえ」
自分のコーヒーカップを傾けながら、省吾はしばらく幸せそうに目を細め、ケーキを食べる僕を見ていた。
やがて無言のまま、彼がふふっと笑ったのを見て僕はきいた。
「どうしたの?」
「いえ。なんだか、弟を思い出しちゃって。弟もあんまり、甘いものは得意じゃなかったなあって」
「弟さん? 省吾くん、弟さんがいるんだ」
「あ、はい……」
省吾の口から家族の話が出たのは、これがはじめてだった。そのことに自分でも驚いたのか、彼は少し目線を落として戸惑うような顔になった。
僕はなるべく彼の顔色には気づかなかったふりをして、なんでもないように会話を続けた。
「何歳?」
「あ、ええっと……今は十二歳でしょうか。中学生で」
「そうなんだ。僕にもいるよ、ひとりだけ」
「そうなんですか?」
「うん。こっちはもう高校生。昔はサッカー好きだったんだけど、いまはバスケットに夢中かな」
その裏に折りたたまれているいろんな事情については伏せて、僕はごく明るい口調でそう言った。
省吾がにっこり笑った。
「そうですか。うちは相変わらずサッカー好きだと思います。サッカー馬鹿って、ああいうのを言うんじゃないかな。幼稚園のころからずっと好きで、続けてて」
「そっか」
「自分と違って、なんていうか……ちょっと乱暴者っていうか、男の子らしいタイプで。友達も多くて」
「うん」
「ちょっと……羨ましかった」
省吾の目が意味ありげな色を帯びて、遠くを見たようだった。





