2 発熱
「俊介さん。……俊介さん」
遠くで省吾の声が聞こえた気がして、僕は目をあけた。
窓側をふと見れば、もうしわけ程度に掛けられた薄いカーテン越しに、ぼんやりと朝の光が迷いこんできている。
(もう、朝か……)
なんだか頭がぼうっとする。ゆうべは銭湯から帰ってきてすぐには寝ずに、僕は夜中までかかって研究課題の論文をまとめていたのだった。けれど、それでも二時ごろには寝床に入った。
(うわ……まずいかも)
起き上がろうとして、あらためて自分の体の異常に気づく。体じゅうがぎしぎしと痛い。喉の奥に異様な熱源を感じる。これは、まちがいなく熱がある。頭は痛いし、ぞくぞくと悪寒もする。
「お弁当、作ったんですけど。俊介さん、起きてますか……?」
扉の外から遠慮がちにまた省吾の声がした。僕はずるずると寝床から這い出るようにしてそちらに向かった。薄い板一枚のドアなので、そんなに大きな声を張り上げなくても済む。
「ごめん、省吾くん。お弁当ありがとう。せっかく作ってもらって悪いんだけど、その……今日は休むことにするから」
「えっ? どうかしたんですか、俊介さん――」
「あ、うん……。ちょっと」
少ししゃべるだけでもひどく億劫だ。すぐにも寝床に戻りたい。
でも、休むとなったら上沼あたりに連絡しておかなきゃならないし、バイト先にも早く連絡を入れなくては。でもまあそれは、寝床の中からでもスマホですれば済むことだ。
ああ、体温計なんて、どこにやってしまっただろう。普段から片付けてないと、こういうとき困るんだよな。
「うわ、大丈夫ですか?」
僕が手みじかに自分の状況を説明すると、省吾の声が一気に緊張したものになった。
「それじゃ、近くの内科に行きますよね? 自分、一緒に行きますから。すみません、ここ開けてもらえませんか」
「え、でも」
僕は困って声を落とした。
「君に感染しちゃったりしたら、それこそ大変だから。大丈夫、ちょっと寝てればすぐ――」
「だめですよ!」
思った以上に強い声が返ってきて、僕はびくりと身を竦めた。
「だ、……だって、君は仕事を休むわけにいかないんだし」
非正規の仕事というものはなんでもそうだけれども、少しでも休んだらそれがダイレクトに収入減につながってしまう。家族なわけでもない人に、こんなことでそんな負担を掛けるなんて絶対にダメだ。
僕は必死で、そんなようなことをもごもごと色々に言い募ったのだったが、しまいには省吾にきつい声で言い放たれてしまった。
「いい加減にしてください!」
それははじめて聞くような、かなりドスの利いた声だった。僕は思わず息をのんだ。
「これが最後ですよ。これで開けてもらえないなら、自分、ここ、ぶち破りますからね!」
それがまさに、最後通牒だった。
「わ、わかったよ……」
冗談じゃない。性格はともかく、彼の体格で破られたりしたらこんなドア、あっさりと木っ端微塵だ。澄子さんの激怒する顔が目に浮かぶ。第一それを、いったい誰が弁償するんだ。
「ありがとう。でも、ちゃんとマスクをして入って来てよ」
そうして、僕はあっさりと白旗をあげ、ドアの鍵を開けたのだった。
◇
「最近、インフルエンザも流行ってるみたいですし。きちんと診断しておいてもらったほうがいいと思います。そのほうがバイトも休みを貰いやすいはずですし」
省吾は、僕が根負けして開けたドアからまさに疾風のように入ってきた。そうして本当に目を見張るような手際でてきぱきと出かける準備をしながら、僕にひとくさりの説教をたれた。
「君がそれを言うのか」とはちょっと思ったけれど、僕はもう、そういうことを言うような気力もなかった。それで、あとのことは彼に任せて自分の寝床に戻り、襲いくる悪寒のためにがちがちと鳴る奥歯をかみしめながら布団の中で丸くなったのだった。
◆◆◆
結論から言えば、省吾の言ったとおりだった。僕はものの見事に今年のインフルエンザに罹っていたのだ。
そういえばここ何年も、まじめに予防接種を受けに行った記憶もない。はっきり言って、僕にはそんな時間もお金もなかったからだ。
「何か食べられそうですか、俊介さん」
省吾はと言えば、幸い代わりの人が見つかったとかでわざわざコンビニのアルバイトを休み、そのまま僕の看病についてくれている。
内科で処方された薬を飲んでだいぶ体は楽になったのだけれど、それでも僕はずっとぼんやりと横になっているしかなかった。体の痛みは相変わらずで、熱もまだ三十八度台をずっとうろうろしていたからだ。
省吾は僕のリクエストを丁寧にきいてくれて、とき卵の入ったやさしい味のお粥をつくって持ってきてくれた。汗を拭いたり着替えを手伝ったりアイスノンを取替えたりと、まさに「甲斐がいしい」を絵に描いたような看病ぶりだ。
放っておいたらそのまま手ずからお粥を食べさせようとまでするものだから、あわてて丁重にお断りさせていただいた。まったく、子供じゃあるまいし。
痩せっぽちだとはいっても一応成人男性である僕を、彼はいとも容易く助けてくれた。実際は僕が必死でお断りしたので肩を貸してくれただけだったけれど、内科に行くときも手洗いに立つときも、放っておいたら彼は僕を、その力仕事で鍛えたたくましい腕に抱き上げかねない勢いだった。
いい年をして、さすがに「お姫様だっこ」は勘弁してほしい。
それにしても、本当にいろいろと細やかな気遣いのできる人だ。彼みたいな人は医療関係や介護職なんてぴったりなのではないかなんて、僕は熱に冒された頭でぐるぐると変なことを考えたりした。
「ありがと、省吾くん。仕事まで休ませちゃって、ごめんね……」
僕が寝床からそう言うと、省吾は憤然として僕をにらんだ。
「なに言ってるんですか! 俊介さんが自分にしてくれたことを思ったら、こんなのはやって当然です。絶対に遠慮なんかしないでくださいね。そんなことされたら自分、本当に、本気で怒りますから」
「……面目ないです」
布団を引き上げて子供みたいにそう言ったら、こころもち省吾の目が優しくなった。
「いいから俊介さんは、ちゃんと休んで、体を治すことだけ考えてください。大学と仕事の掛け持ちで、やっぱり無理が出てるんだと思うので」
「……はい」
「あ、なにか研究のことでまとめておかないといけない資料なんかありますか? 自分が触っても大丈夫なものだったら、なんでも言いつけてくださいね。パソコン、一応使えるので」
「うん。ありがとう。助かるよ……」
僕はやっとそれだけ言って、またとろとろと眠ってしまったらしい。
省吾がそっと僕に布団を掛けなおしてくれ、食べ終えた粥の鍋や食器を持って台所へでてゆく音を、意識の遠いところで聞いた気がした。





