1 立ち話
「うわっ、なんだよ、東ぁ! お前もついに彼女できたのかあ?」
「わ、びっくりしたなあ、もう……」
残念なことに、背筋の凍るような寒風が吹くようになってしまった学内では、ベンチでのんびりランチタイムというわけにもいかない。それで最近の僕は研究室の片隅でこっそりと弁当箱を開くことが多いのだったが。
そうしたら案の定、すぐに目ざとい奴に見つかってしまった。
同じ科の院生である上沼は、明るい気質の小柄な男だ。目が小さくて薄い唇に囲まれた口は大きく、切るのが面倒で伸ばしっぱなしの黒髪を無造作に後ろでくくっている。服装なんかにはてんで構わない性質で、僕と同様、学内で販売されている白衣のほかはほとんど普段着に変わらない。いや、僕はさすがに彼のようにサンダル履きで大学に来たりはしないけど。
このとおり、飾り気のない、見たままのいい奴ではあるのだが、彼も理系の院生らしく――なんて言ったらほかのみんなに失礼だけど――やっぱり寂しい独り身を囲っている。
僕はしばらく、どう答えたものかと思案した。
この男に向かって「そうだ」と言えば、当然すぐにも「その子の友達を紹介してくれ」なんて話に発展しかねない。といって「違う」と答えれば、「じゃあその弁当は誰が作っているんだよ」とさらに突っ込まれることは間違いない。
僕のことをさして知らない相手なら、「田舎から弟が上京してきて、しばらく一緒に住むことになった」とかなんとかと言い逃れもできるのだけれど。あいにくと、彼は僕の本当の弟がいまどんな状況にあるかを知っている。
「えーと。アパートのほかの部屋に住んでる子がね、作ってくれることになって」
そう言ったら、上沼はきょとんとした。
「え? けど東のとこって確か、管理人のおばちゃん以外は女子禁制じゃなかったっけ」
「そうだよ。だから相手は、男の子」
「えええ! マジかよ。けどそれ、男の作る弁当じゃないだろ、絶対!」
そうなんだよなあ。
彼の言いたいことはよくわかる。今日の僕の弁当は、黄色と茶色と緑色とピンク色に綺麗に色分けされたそぼろご飯に、飾り切りしたトマトやソーセージ、にんじん、ブロッコリーなどが花畑よろしくつめこまれた感じ。
「めちゃくちゃメルヘンじゃないの。ウソつくなよ、東ぁ! 本当は女なんだろ、そうなんだろ! 俺とお前の仲じゃないの。気を遣うことないってのよ〜!」
言いながらもう、上沼は僕の首を片腕で締め上げるようにして、もう片方の拳でこめかみあたりをうりうりとねじりこむようにしている。彼のこういうちょっと悪乗りするところが、けっして嫌いじゃないんだけれども、僕は正直、少し苦手だ。
「い、いや。嘘じゃないよ……」
ああ。もっとゆっくり味わって食べたかったのに。隣でこんな風にやいやいうるさい奴がいるもんだから、僕はせっかくの省吾のお弁当を慌ててぱくぱくと口に突っ込むしかなかった。
だというのに、僕はさらにそこから教授がやってくる直前まで、上沼から根掘り葉掘り省吾のことを問いただされるはめになった。
「ふーん。道端で拾った男が、実はたまたまそんなおいしいスキルもちだったって言うんだな。『女じゃなくって残念でした』ってオチかよ。あ〜あ。なにやってんの。しょうがないな東。いつもそんな調子で面倒ごとばっかしょいこんじゃってさ」
「あ、いや……。最初こそそうだったけど、今では面倒かけてるのはむしろ、僕のほうだから」
近頃では、僕の部屋のあまりの惨状が目に余るらしくって、省吾は「よかったら掃除しますけど」とまで言ってくれている。
だけど、さすがにそこまで許したら、もはやわざわざ別の部屋に住んだ意味がなくなってしまう。彼には彼の生活があるのだ。まるでお母さんに甘えるみたいにして、彼の手を煩わせるべきじゃない。
そんなこんなで、僕も最近ではできるだけ、ぱっと見て「汚いなあ」と思われない程度には部屋を片付けるようになったのだ。
「なんだよ。いいじゃん。やってくれる、っつうもんはやってもらっとけば。お前、そいつの命の恩人なんだろう?」
「そんな大層なもんじゃないよ。実際、彼を助けたのはマサ叔父さんのほうなんだしね」
「でも見つけたのはお前なんだろ。そいつがめちゃくちゃ感謝してるのは、まずお前のほうだろっての」
上沼がにやにやとそんな軽口をたたいたところで教授が現れ、ぼくらの雑談は打ち切りになった。
彼はもちろんいい奴なんだけれど、僕は彼に省吾の話をしてしまったことを、ほんの少し後悔していた。
そうして話してしまってからやっと、僕は自分の気持ちの根っこにあるものに思い至った。僕がなんとなく、省吾と自分との関係を誰にも知られずにそっとしておいて欲しかったのだということに。
(なにやってんだろうな……僕)
何もかもが遅くて、すべてが後手に回っている。そのときの僕は一から十までそんな感じの、煮え切らなくてカッコ悪い、ただのバカな男だったのだ。
◆◆◆
その日、バイトが終わってアパートに戻ると、二階の廊下に珍しく複数の人影があった。ひとりは省吾。そしてもう一人は、キャンディさんだった。
ちょっとこちらに背を向けて話し込む様子で、二人は僕が古い階段をきしませながらあがってくるのに気がつかなかったようだった。そして、僕に気がついた途端、一瞬だけはっとしたようになって黙り込んだ。
とりわけ省吾がひどく狼狽したような目でこちらを見たのを、僕は見逃さなかった。
なんとなくいやな感じがして、僕の胸はつきりと痛んだ。
「あ、お帰りなさい、シュンちゃん」
「はい、ただいま……です」
「お帰りなさい、俊介さん……」
「あ、うん。ただいま」
「今日も遅かったのねえ。風邪なんかひいちゃダメよおん?」
そう言っておいてから、キャンディさんは濃厚で意味深な視線を僕と省吾とに交互に投げた。
「ま、ショーゴちゃんのおいしいお弁当があれば、栄養不良なんてことには間違ってもならないんでしょうけどね」
ばちん、と音の聞こえるようなウインクが飛んできて、正直閉口する。
「……はあ。感謝しています」
「じゃ、あたしはもう行くわね。じゃあね、ショーゴちゃん」
「あ、はい。行ってらっしゃい……」
お辞儀をする省吾にごくにこやかにうなずいて笑いかけると、キャンディさんはそのまま一階へおりて出かけてしまった。
「あ。お弁当箱、あずかります」
出された手に素直に弁当箱を渡して「ありがとう。今日もごちそうさまでした」と言い、僕はなんでもない風に訊いた。
「なんの話だったの? キャンディさんと」
「え、……あの」
「べつに、大したことじゃ」と答える省吾の声は、間違いなく戸惑っていた。その目もいつもみたいに嬉しそうに僕を見つめるのじゃなくて、困ったように何もない壁だの廊下の板敷きだのの上をさまよっている。
「ふうん」
僕に聞かれちゃまずい話でもしていたのか。
キャンディさんになら話せて、僕には話したくないこともあるんだな。
そりゃ、人間なんだからそういうことがあったって何もおかしくなんかないけれど。
「いつの間にか、ずいぶん仲良くなったんだね。前はあの人のこと、なんだか苦手そうにしてたのに」
言ってしまってから、つい自分の声に混ざりこんでしまった棘に気づいて、僕は鳩尾のあたりがかっと熱くなるのを覚えた。
「え? あの……」
省吾が困ったような顔でこちらを見つめ返している。なんの底意もなさそうなその目を見たら、僕はいたたまれなくなった。
恥ずかしい。
なに、子供みたいなことをやっているんだ。
「……ごめん。なんでもないよ。おやすみ」
だけどやっぱり、出たのは子供がすねて怒ったような声だった。
そのまま後ろも見ないで部屋に飛び込むと、僕は肩からさげていたショルダーバッグを無意識に床に放り出した。それに気がついたのは、どすん、と無機質な音が部屋を揺らしてからだった。
古いアパートのことで、少しの振動でも下の部屋の人の迷惑になるとわかっているから、いつもだったらそんなことはしないのに。
(……なんだろう)
どうしてこんな、くさくさした気持ちになるんだ。
省吾がここの住人とうまくやってくれるのは、僕にとっても嬉しいことのはずなのに。
彼に何かの悩みがあって、それを相談したいと思うのがたとえ僕じゃなかったとしたって、それが何だっていうんだ。そんなのは省吾の勝手じゃないか。誰を相談相手に選ぶのかなんて、みんな彼の自由なんだから。そもそもそんなの、僕が口出しするようなことじゃないじゃないか。
心の中で自分自身に繰り返しそんなことを言い聞かせるようにしながら、僕はいつもの五割り増しぐらいの物音をたてて銭湯に行く用意をし、やや高い音で扉を閉め、数段とばしで階段をかけ下りて外へ出た。
ちらほらと、小雪の舞う夜だった。
僕は吐く息の白くなる口元をちょっとマフラーにうずめるようにしながら、そのまま近所の銭湯へと早足に歩いていった。





