7 けんちん汁
その沈黙が、全部教えてくれたようなものだった。
食事のことはともかくも、彼が夜にひどくうなされているあの姿を知っている僕には、彼がどうやらあまりよく眠れていないだろうことは十分に予想できた。
「大丈夫なの? 省吾くん……」
思わず彼の肩に手をのばしたら、省吾はびくりと体を竦ませた。その怯えた子供のような目を見て、僕ははっとして手を止めた。
「あ。……ごめんね」
慌てて手を下ろした僕を見て、彼は驚いたように目を見張ったが、すぐにすまなそうな顔になってうつむいた。
「い、いえ……。自分こそ」
(やっぱり……そういうことなんだろうな)
彼はもはや本能的に、見知らぬ男に近づかれること、触れられることが恐ろしいのだろう。銭湯に行きたがらないことも、それと無関係じゃないはずだ。
以前に彼の身に何があったかなんて詮索すべきじゃないとは思ったけれど、ここまできたらそれは半分ほどは分かってしまったようなものだった。考えたくもないことだけれど、彼は多分、そういう犯罪の被害者なのだ。そうしてそれが原因のひとつになって、もともと住んでいた土地を離れてここへ逃げてきたというようなことなんだろう。
家族からも離れて、たったひとりで。
だれにも「助けて」とも言えないで。
だれの助けも必要としないような孤高の精神を持つ人ならいざしらず、こんなに繊細で実はけっこうさびしがりやな気質の彼が。
「あの……さ。省吾くん――」
僕はそれに背中を押されたような気になって、あれからずっと彼に言おう言おうと思いながら言えなかった、とある提案をしたのだった。
◆◆◆
その提案をしたときの、省吾の目が忘れられない。
びっくりして、でも嬉しくて、だけどその嬉しさをまっすぐ表現することはできないで慌てて隠そうとがんばって、だけど隠しきれてはいなくて。そう、ちょうど猫なんかが非常に驚いているのにそれを「なんでもないよ」とばかりそ知らぬふりで隠そうとして、だけどそのしっぽが爆発したみたいになっているような。
体のほうが主人であるべき本人――いや、猫なら「本猫」っていうべきなのかな――の意思を裏切っている、ああいう状態に近いと思う。
どうしてだかは分からなかったけれど、そんな彼を見て僕もとても嬉しかった。お腹の中からじわじわあがってくる温かいものの理由をはっきりとつかんでいたわけではないけれど、そのときの僕でさえ、その選択が間違っているとはまったく思わなかったのだ。
「いいんですか……? 俊介さん」
何度もそう確認してくる省吾を「だから、いいって言ってるでしょ」と往なし、その背中を押すようにして部屋に戻らせる。
「そもそも僕は、君が別の部屋に移るのだって大賛成したわけじゃないんだからね」
「え? ……いえ、でもそれは――」
驚いたように言いかけた彼の声を、僕は敢えて聞こえなかったような振りでやり過ごした。
「じゃ、今から材料を買いにいく? あんなこと言っておいてなんだけど、こっちは米しか置いてなくて。ほんと面目ない」
「あ、……いいえ」
そうして僕らは二人で近くのスーパーへ買い物に行き、確保した材料を使って共用の台所で一緒に料理をした。
そうは言っても、僕は彼の助手程度のことしかできない。材料を切ったり食器の準備をしたり、お茶を淹れたり。そうしてできたものを盆にのせて、「じゃあ今日は自分の部屋に来てください」と言う彼の言葉に甘え、そちらにお邪魔することにした。何よりあんな散らかった僕の部屋で彼に食事をさせるのはしのびなかったのだ。
つまり、僕の提案はこういうことだ。
「部屋は分かれてしまったけれど、これまでどおり、時間が合うときには一緒に食事をしませんか」と。
いや、本当のことを言えば「お願いしてもいいかな?」っていう言い方だったんだけれどね。だって実際、それで料理の手間が増えるのは圧倒的に省吾のほうなわけだから。
万が一にも彼の迷惑になるのはいやだし、そうなったら申し訳ないと思ったんだけれど、そんなのはまったくの杞憂だった。省吾はとてもとても嬉しそうで、料理をしているうしろ姿にさえ、さっきまではなかった生気というか、喜びのオーラみたいなものがあふれているようだった。
(……やっぱり、かわいい)
ついそんなことを思う不埒な自分の心を叱咤して、僕もできるだけ彼の足手まといにならないように助手としての仕事を頑張った。
◆◆◆
省吾の部屋は思ったとおり、とてもすっきりと片付いていた。
と言うより、そもそも絶対的に物が少ないのだ。だからこの状態では片付けるもなにもない、というのが正解なのかもしれない。ただ、窓辺にだけは百均のものらしい小さな花瓶が置かれていて、やっぱり小さくて可憐な花が一輪だけ挿してあるのが見えた。僕はそれが、なんとも言えず省吾らしいなと思った。
ここしばらくで買ったり貰ったりした衣服や布団は押入れのほうに入れてあるらしく、家具らしいものといったら大家さんが譲ってくれた古い折り畳み式のちゃぶ台だけだ。テレビもラジオも、もちろんパソコンもない。ついでに言うと、省吾はこんな若い人なのに、スマホや携帯といったものもいっさい持たない。仕事の連絡は基本的に一階の固定電話に入るようにしているのだ。
このところの仕事の調子なら安い携帯ぐらいはもう持てるんじゃないかと思うのだけれど、彼はそういうものをあまり持ちたくないようだった。どうやらそのあたりにも、彼の過去が関わっているらしい。
「ひとりだとこういうの、作りすぎちゃって困るんですよね」
言いながら、省吾がけんちん汁の入った大きめのお椀を口元で少し傾ける。彼に倣って僕もそれに口をつけると、ごろごろ入ったたくさんの具材がしっかり煮込まれ、少しとろみのつけられたそれが、胃の腑を芯からあたためるようだった。
「うわ、おいしい……。ほんと省吾くん、天才じゃない?」
僕は夢中で、ひさしぶりに食べるそれを何度もおかわりした。
実を言うと、同居を始めた最初の頃、僕は省吾の味付けがやや薄めであることに気がついていた。僕の生まれた地方でなら、もっとがっつりと濃い色の味噌などいれて辛い味付けにするはずの料理でも、彼のいた地方ではすっきりと透き通ったすまし汁にするのが普通だったりするようだ。
料理のことにはぜんぜん詳しくないけれど、ネットなんかで調べてみたら、それは西の地方に多い味付けのようだった。
つまり省吾は、西の人なのだ。
ただし、味が違うからといって決してまずいということではなく、彼の料理は品のいい香りゆたかなもので、むしろとても美味しかった。そしてそういうことの何もかもが、僕にはまさに彼自身を象徴しているように思えたのだ。
「豚が手に入ったら豚汁にしようかと思ったんですけど、ちょっと無理で。少し物足りなかったかもしれませんね。ごめんなさい……」
「なに謝ってるの! おいしいよ、これがいいんだよ! ということで、もう一杯おかわり!」
省吾は苦笑してお椀を受け取り、けんちん汁をよそってくれ、またそれをもりもり食べる僕を嬉しそうに見つめていた。けれど、やがてぽつりとこんなことを言った。
「やっぱり、食べてくれる人がいてこそ、なんですよね……。よくわかりました」
「え?」
僕は顔を上げたけれど、お椀からたちのぼる湯気で盛大に眼鏡がくもり、彼の表情をうまく読み取ることができなかった。
省吾は笑って、「いえ、なんでも」と言っただけだった。
その頬が少しばかり赤くなっている。だけど、彼は嬉しそうなのにどこかとても悲しそうにも見えた。そんな不思議な彼の顔色に気づいて、僕はけんちん汁のせいばかりでなく、自分の体も熱くなってくるのを覚えた。
(……なんだろう、これ)
いや、多分、温かいものを何度もおかわりして食べたせいだ。
僕は無理やりにもそう思って、湧き上がったその感情に名前をつけることから意識的に目を背けた。そうして彼にお礼を言い、一緒に後片付けをしてから、早々に自分の部屋に引き上げたのだった。
※「豚汁」は「とんじる」でも「ぶたじる」でもどちらでも。
地方によって呼び方が異なるらしいですね。
我が家ではダンナが「とんじる」母が「ぶたじる」と呼称しております(笑)。





