第1話「展示場、はじまりの夜」
「……着いた……のか……?」
陽介は膝に両手をついたまま、荒い息の合間にそう漏らした。丸3日間、アスファルトの上を逃げ惑い、まともに腰を下ろすことすらできなかった。陸上部で十種競技なんていう、走って跳んで投げてを一日中やるバカげた種目をやっていて、体力には人一倍自信があったはずなのに、限界を超えた太ももとふくらはぎがちぎれそうなほど悲鳴を上げている。
「はぁ……はぁ……なんか、ここ、めっちゃ静かやな」
大輝が真っ先に上体を起こした。声には疲労がべっとりと滲んでいたが、どこか呑気さが抜けていないのが大輝らしかった。同じ混成ブロックで練習してきた仲間とはいえ、この極限状態でその図太さはもはや才能の域だ。
「静かなだけで、安全かどうかは別問題やろ」
陽介は油断なく首を巡らせ、周囲の闇を警戒した。実家暮らしで、小さい頃から「戸締まりしたか」「火の元見たか」と口うるさい父親の背中を見て育ったせいか、こういう切羽詰まった場面で妙に細部へ神経が向いてしまう。
目の前に広がっていたのは、世界の終わりとは無縁のような、場違いなほど美しい街並みだった。
三角屋根の洋風な家、シックでモダンな黒い家、真っ白な塗り壁の家――何十棟もの新しいモデルハウスが、何事もなかったかのように夜の闇の中に整然と立ち並んでいる。人の気配はまったくない。
「電波、やっぱり完全なゼロやな」
蓮がスマホの画面をタップしながら低く呟いた。すでに丸一日以上前から「圏外」の文字が居座り続けているが、それでも癖で指が勝手に動いてしまう。蓮も普段はポーカーフェイスで飄々と十種競技をこなすタフな男だが、さすがに顔色が悪い。
「電気もガスも水道も、全滅やろな。ここも」
「せやろな。3日前の夜からずっとこれやし」
軽口を叩き合う体力すら残っていなかった。3日間、泥水のような緊張感の中で口にしたのは、逃げる途中で拾ったペットボトルのお茶とカバン底の飴玉くらいだ。
「とりあえず……今日だけでも、どっか入って休も。足がもう棒や」
三人は敷地の角に建つ、一番手前のモデルハウスへと身を滑り込ませた。
展示用の玄関ドアノブに陽介が手をかけると、あっけなくカチャリと開いた。
「おい、開いたぞ。鍵かかってへん!」
「展示場やからな! 泥棒除けより客寄せが先なんやろ!」
「中入れ、早よ!」
三人は吸い込まれるように玄関ポーチへ転がり込み、背後で重たいドアを静かに閉めた。鍵をガチャリと回して施錠した瞬間、外の不穏な夜風がピタリと遮断される。
「ふぅぅぅ……」
安堵の息を吐き出しながら、大輝が泥だらけのスニーカーのままピカピカのフローリングへ踏み込もうとした。
「コラ待てアホ!!」
陽介が咄嗟に大輝のパーカーの襟首をひっ捕まえた。
「痛っ! なんで引き倒すんや陽介!?」
「靴脱げや!! どこの世界に他人のピカピカの新築へ土足で上がる日本人客がおんねん!」
「いやここ非常時! 人類滅亡しかけてるパンデミックの真っ只中やぞ!?」
「知るか! 玄関の段差見ろ、丁寧にお客さん用のスリッパが並んどるやろが! 鍵閉めて家に入ったら靴脱ぐのがジャパニーズ・ソウルじゃ!」
「……まあ、確かに靴脱いだ方が足は休まるな」
横から蓮が至極冷静に靴紐をほどき、綺麗に揃えてたたきに置いた。
「蓮まで……! くそっ、わかったよ脱ぐよ!」
大輝も文句を言いながらスニーカーを脱ぎ捨てる。靴下越しに伝わる木の感触に、三人の足裏から一気に毒気が抜けていった。
リビングへ進むと、最新仕様の巨大なアイランドキッチンと、ふかふかのローソファが鎮座していた。もちろん照明はつかず、しんと静まり返っている。
「めちゃくちゃ良い家やのに、電気も水も止まってたら、ただのデカい箱やな」
蓮が深い溜息とともにソファへ倒れ込み、大輝が力なく笑い、陽介は暗がりの中でひとり天井を見上げた。
ふと、胸の奥に冷たい塊が沈み込んでくる。
「……なぁ」
大輝がぽつりと呟いた。
「部活の連中……あいつら、生きてるかな」
「……考えるな、今は」
蓮が天井を見つめたまま答える。だが、その声もわずかに震えていた。
「部活のやつらもそうやけど……」
陽介は奥歯を噛みしめながら、暗い窓の外を見た。
「うちのオカンとオヤジ、ちゃんと逃げ切れてるやろか。実家、ここから車で1時間半やぞ。電話も通じんし、テレビも見られへんし……あんな足腰の鈍いオッサンとオカンが、あの走るバケモノどもから逃げられるわけないやんけ……」
「陽介……」
「オトンなんか、普段から町内会の階段一段上がっただけで息切らしてんねんぞ。ゾンビに追いかけられたら絶対コントみたいにコケて終わりや……笑えんわ」
陽介が自嘲気味に吐き捨てると、大輝も膝を抱えて小さくなった。
「うちの両親もや。パート帰りに巻き込まれてへんかったらええけど……。連絡がつかんのが一番堪えるな」
重苦しい沈黙が広がりかけた、その時だった。
「……おい、ちょっと待て」
ソファから身を起こした蓮が、暗闇の中でキッチンの壁を凝視していた。
「あそこの壁……なんか光ってへんか?」
「え?」
陽介と大輝が目を凝らす。
壁に埋め込まれた給湯器かなにかの操作パネル。その端っこにある小さなランプが、緑色に淡くチカチカと点滅していた。
大輝がそろそろと忍び足で近づき、顔を近づける。
「おい……これ見ろ。『自立運転モード:待機中』って出てるぞ……!」
「自立運転……? なにそれ?」
陽介が素足で駆け寄った。
「あ、待てよ。実家の建て替えのチラシで見たことあるぞ。屋根に載ってる太陽光パネルや! 停電したときに、勝手に非常用のモードに切り替わるやつちゃうか?」
「でも陽介、今は夜やぞ! 太陽沈んどるやないか!」大輝が突っ込む。
「蓄電池やろ! 知らんけど!」陽介も勢いで返す。「最近のハイテクな家って、昼間に貯めた電気をデカいバッテリーに溜めとけるってテレビでやってたやろ! そのバッテリーがどっかにあるんや!」
蓮が唾を飲み込む。
「……ボタン、押してみ?」
陽介は人差し指で、パネルの画面をカチリと押し込んだ。
数秒の静寂。
パッ――!!
「うおっ!?」
「まぶしっ!!」
リビングの天井の照明が、暖かな光を一斉に放った。
それだけではない。壁のエアコンがピピッという電子音とともにパカッと開き、生暖かい風がふわっとリビングを撫でた。
「で、電気が……ついた……!」
大輝が両手を挙げて歓喜の声を上げる。
「あったかい! 明るい! おい見ろ、バッテリー残量80%以上あるぞ! 俺たち勝った!!」
「喜ぶなバカ! 今すぐ全部のカーテン閉めろッ!!」
陽介の怒号が飛んだ。
「えっ!?」
「外から見たら、街中真っ暗の中でこの家だけピカピカ光って丸見えやろが! あいつらだけやない、パニックになったヤバい奴らが押し寄せてきたら一発で終わりじゃ!」
「ヒエッ、せやな!!」
大輝と蓮が血相を変えて飛び跳ねた。
十種競技で培った瞬発力をこんなところで発揮し、部屋中の遮光カーテンを一分の隙間もなく引き絞り、シャッターを下ろせる限り下ろす。隙間からの光漏れがないことを入念にチェックして、三人はようやくリビングの床にドサドサと崩れ落ちた。
「……あかん、心臓止まるかと思った」
大輝が胸を押さえて荒い息を吐く。
「でも……すげぇな。明るくて、あったかいわ」
蓮が床に大の字になって寝転がり、両手で顔を覆った。
「生きてる心地がする……。3日ぶりに人権を取り戻した気分や」
陽介はキッチンの蛇口をキュッとひねってみた。
……シュー、と乾いた空気の音が抜けるだけで、水は一滴も出てこない。
「さすがに水は出ぇへんな。水道が止まっとるから当たり前か」
「水かぁ……俺のリュックの底に、いつのか分からんジュースが一口分あるだけや」大輝が力なく呟く。
「いや、待て」
陽介は玄関へ入る前にチラリと見えた建物の裏手を思い出した。
「外に、背の高いデカい金属のタンクがあったやろ。お湯を沸かして溜めとくやつ」
「あー、よく家の裏にある四角いやつな」蓮が相槌を打つ。
「あれ、中に何百リットルも水が溜まってるはずやねん。水道が止まったら蛇口からは出てこんらしいけど、タンクの足元にあるコックを直接ひねったら、非常用の水として抜けるって聞いたことあるぞ」
「マジで!?」
「たぶん! 親父が自慢げに話してたのを聞き流してたから詳しいやり方は知らんけど、タンクのどっかにレバーかコックがあるはずや。……まあ、暗い中外に出て探すのは危なすぎるから、朝になってからやけどな」
三人は顔を見合わせた。
外からは、相変わらず遠くの道路を徘徊する者たちの不気味な気配と、乾いた風の音が聞こえている。両親の安否も、世界の行く末も、何一つ分からないままだ。
だが、この靴を脱いだ最新の家の中には、電気があり、暖房があり、外には数百リットルの水が眠っている。
「明日や」
陽介が低く、しかし力強い声で言った。
「夜が明けたら、まず裏のタンクから水を抜く。それから、さっき向かいに見えたデカい店……あそこに突入して食料をかっさらう。オカンとオヤジを探しに行くにしても、ここで飢え死にしてたら世話ないからな」
「おう」
「生き残るぞ、俺らで」
文明の光に照らされた三人の瞳に、3日ぶりに確かな闘志が宿っていた。




