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その途端、宙に浮いた部屋の中のものが全て床に落ちた。派手な音を立てながらテーブルは横倒しに転がり、本は開いたまま床に伏せられ、ハリーの死体は不自然な体勢で倒れている。リネットは着地の際にずれたイスを傾け、ガイの正面に来るように座り直した。
「な、何故それを……」師匠とハリー以外は誰にも知られていないはずの秘密だというのに。
「ここに来てからあなた様の行動を観察しておりましたが、頑として窓の方には近づこうとなさいませんでした。塔の下に飛び降りた亡骸にしても、ここからでしたら見えるはずなのに、あなたはたいそう驚いておいででした。それで確信したのです。この方は高い場所が苦手なので、確認ができなかったのだと」
「……」
「あなた様の言うとおり、いくら門をふさごうと、魔術師の方々なら空を飛べても不思議ではありません。ですが、あなた様は空から逃げられない。ハリー様はそれをご存じだったのでしょう。だからこそ、門をふさぐことであなた様を逃がさないようにした」
「……」
「あなた様が『浮遊』を使われた時、あなた様の位置はイスの高さより上には動きませんでした。おそらくはそれがあなた様の限界なのでは?」
お前の限界だ。師匠の声が聞こえた。
お前には才能がない。お前は所詮、『灰色』止まりだ。己の恐怖心すら克服できないお前に何が出来る。諦めろ。いくら努力しようとハリーには敵うまい。私の名跡はハリーに継がせる。
「黙れ!」
感情のままに放った声は『力ある言葉』へと変換される。衝撃波が部屋を揺らした。本やイスは窓の外へと飛び出す。
リネットの体もイスから放り出され、紙切れのように壁に叩き付けられた。苦悶の声を上げ、ずるずると床に沈んでいく。
拍子抜けするほど簡単に吹き飛んだ娘に、一瞬呆気にとられる。それでも未だ起き上がる気配のないリネットの姿に腹の底から笑いがこみ上げてくるのを感じた。
間違いない。この女は正真正銘の『魔力なし』だ。
もし魔術師であればたとえ不意打ちであろうと、魔術の攻撃を受ければ魔力の壁を反射的に作り出すものだ。壁の厚さや強さは魔力の量によって異なるが、今の衝撃波には何の抵抗も感じなかった。
驚かせてくれる。まさか、本当にただの小娘だったとはな。
愉悦に顔を緩ませながらガイが『力ある言葉』を紡ぐと、リネットの体が宙に浮く。手を動かすと、細い首筋が手の形にへこんでいく。苦しげなうめきが漏れる。
もはや猶予はなかった。レポフスキーが来る前にこの女を始末しなくては。言い訳は後で考えればいい。むごたらしく殺せないのが心残りではあるが、口をふさぐのが先決だ。
「安心するといい」ガイはにやりと唇をゆがめる。「貴様は死霊魔術で操られることもない。塵一つ残さず消し去ってくれる」
あともう少し力を込めれば、リネットの呼吸は止まり、首の骨は折れる。
その時だった。
「それは困るな」
低い、男の声がした。
ガイは反射的に振り返った。人影はなかった。気配すらない。にもかかわらず声は続いた。
「無知で無力で無能な、何の取り柄もない娘ではあるが、いないよりはマシなのでな」
まさか。ガイは総毛立つのを感じた。
レポフスキーが……『裁定魔術師』が来たのか?
「何より小生の家来に断りもなく手を上げようというのは、少々不遜に過ぎるのではないかな」
風が吹いた。ガイの手から不意に手応えが消えた。先程までは浮き出た血管の感触まで感じ取っていた魔力が、まるで糸が切れたかのようにかき消えた。
同時にリネットの体が床に沈み込む。ガイはもう一度手に魔力を込め、『力ある言葉』を唱える。詠唱も集中もいつも通り完璧だったにもかかわらず、発動することはなかった。
ガイは我が手を見つめる。一体何が起こっている?
魔力を消されたのか? そんな、あり得ない。『魔術解除』のように魔術の効果を打ち消す魔術は存在する。けれど、魔術師から魔力を奪い取る魔術などガイの知る限り存在しない。
まさか、これが『裁定魔術師』……魔術師殺しの魔術師の力なのか?
困惑するガイをよそにリネットが体を起こす。体をふらつかせながらも、壁に手を突き立ち上がる。その途端、黒い影が部屋の中に飛び込んできた。黒い影は翼を羽ばたかせながら倒れたテーブルの端にとまると高らかに啼いた。
一羽の鴉だ。黒い翼に鋭い嘴、紅玉のような赤い瞳。先程、塔の中で見かけた鴉だ。
リネットは優雅な足取りで鴉の前に来ると、恭しく一礼する。
「お恥ずかしいところをお見せしました。旦那様」
「まったく。任せてくれ、と言うから信じてみればこのザマか。つくづく使えない召使いだ」
「申し訳ございません。平にご容赦を」
尊大な口調の鴉に対し、リネットは片膝を突いて頭を下げる。
「まあいい。貴様の処罰は後だ。……さて、魔術師殿」
黒い鴉がガイに向き直る。
「先程は名乗りもせず失礼をした。小生はフレデリック・C・レポフスキー。レポフスキー家現当主にして、魔術の神より『裁定魔術師』の任を与えられている。ただ今参上つかまつったのはほかでもない。我が使命によるものだ」
つまり『裁定魔術師』の使命で来たと宣言したのだ。何のてらいもない自己紹介が、ガイには死刑宣告に聞こえた。
「なるほど、そういうことか」
わき上がる恐怖を打ち消すようにガイは何度もうなずいた。
「『魔力なし』の娘はオトリか。自身は鴉に化けて、密かに監視していたというわけか。『裁定魔術師』とあろうものが、随分と姑息ではないか」
「どうやら貴殿は勘違いをしておられるようだ」
フレデリックと名乗った鴉は首をかしげる。
「魔術や道具の類など一切使ってはいない。小生は、生まれてよりずっとこの姿だ」
ガイは一瞬、言葉の意味を測りかねた。
「父も母も兄弟もレポフスキー家の使い魔でな。小生もそうなるはずだった、だが、どういうわけか小生だけが生まれつき膨大な魔力を持って生まれた。それで先代の当主が小生を養子にしてフレデリックの名を授けてくれたのだよ」
バカな。この鴉が本物のフレデリックだと。魔術の名門レポフスキー家がよりにもよって鴉を養子にしただと。そして実子を押しのけてまで当主に据えたというのか。
「狂っている」
「小生も同意見だ」
フレデリックはうなずいた。
「おかげで殺したくもない相手を殺さなくてはならなかった。あの時のことは思い出すだけで心苦しい。いや、まったく」
冗談めかした口調には、罪悪感めいたものは毛筋ほどにもなかった。
「さて、長話も過ぎたようだ。そろそろ使命を果たさねばな」
ガイは顔から血の気が引くのを感じた。自然と足が後ずさる。
「貴殿は本物のハリーを殺害し、彼になりすました。あげくに小生の侍女を許しもなく傷つけた。その罪は重い」
ひっ、と悲鳴が漏れる。
「判決を下そう」
フレデリックは一声啼くと黒い羽根をまき散らしながら飛び上がる。不吉な羽ばたきを聞かせながらガイの肩にとまるとささやくように言った。
「死刑だ」
けたたましい声がガイの鼓膜を叩いた。鳴き声そのものに魔力を込めた『力ある言葉』が全身を駆け抜ける。視界が暗転する。世界が灰色に染まった。先程と変わらぬ塔の中にレポフスキーもリネットの姿もなく、ガイは呆然と立ち尽くしていた。
「何だ、何が起こった?」
慌てふためくガイの背後で動く気配がした。振り返ると、ハリーの死体がガイの意志に関係なく動き出していた。
「死霊魔術か」
ガイは腕を伸ばし『力ある言葉』を唱える。
死体が動き出したことで逆に冷静さを取り戻していた。どうせレポフスキーの仕業だろう。ハリーの死体に自分を殺させようというのか。魔術師らしい、皮肉なやり方だ。だが、そうはいかない。
「『亡者よ、あるべき姿に戻れ』」
死霊魔術ならばこちらの方が上手だ。魔力の多寡は関係ない。呪文そのものが死体を元に戻すキーワードなのだ。ガイは死ぬつもりはない。地の果てまでも逃げ延びてやる。
にもかかわらず、ハリーの死体は依然、ガイに迫ってきていた。
「何故だ、何故止まらない」
焦りながら何度も『力ある言葉』を唱える。効果はなかった。ハリーはうつろな表情のま両腕を伸ばし、ゆっくりと近付いてくる。ガイは手探りで手近な物をたぐり寄せる。イスを、書物を、高価な瓶を、手当たり次第に投げつけるがハリーの足は止まらなかった。
「く、来るな!」
下へ降りる扉へと向かう。扉は開かない。鍵は掛かっていない。内側からしか掛からないはずなのに。扉は開かない。拳を叩き付け、体当たりでこじ開けようとしたが、木製の扉は鉄塊のようにびくともしなかった。背後から迫り来るハリーの気配に急いで扉を離れる。部屋の中を野ネズミのように走り回り、気がつけば、ガイは窓際へと追い詰められていた。
背後から吹き付ける冷たい風に息が詰まった。腕をつかまれる。ハリーの瞬かない目がガイのおののく姿を映し出していた。そのまますさまじい力で引き寄せられる。噛みつかれるかと思ったが、ハリーの腕はガイの足の裏へと回すと一気に持ち上げた。
物語のお姫様のようにガイはハリーの腕の中に抱えられる。
「な、何をする気だ?」
返事はなかった。表情も変わらなかったが、何をされるのかはすぐにわかった。
ハリーは窓の縁に足を掛けると、腕を伸ばし、窓の外へ放り投げた。宙に投げ出される寸前、とっさにハリーの腕をつかんだ。ハリーは抵抗しなかった。ぐらりと前のめりに倒れていき、ガイもろとも塔の下へと落ちていった。落ちる落ちる。めまぐるしく登っていく景色の中、ガイの脳裏をその言葉が占めていく。『力ある言葉』すら頭から吹き飛んでいた。落ちる落ちる。陰嚢が縮み上がる。地面はもう間近だ。
喉を絶叫で震わせながら墜落していくガイが最期に見たものは、汚泥のような曇り空と、仮面のようなハリーの笑顔だった。
リネットは塔の前にいた。
二つの死体が塔の門の前に絡み合うように倒れている。
血だまりの中、目を見開いた男の亡骸をリネットは側でしゃがみ込み、十字を切った。
聞き慣れた羽ばたきが聞こえたので、リネットは立ち上がり自身の二の腕に主を留まらせる。
「貴様という奴は無能の上に主までこき使うとは、よく生きていられるものだ」
「旦那様のお手を煩わせてしまい、大変申し訳ございません」
リネットは頭を下げた。フレデリックは不機嫌そうに顔を背けた。
「これでいいのか?」
扉の向こうから人影が下りてくるのが見えた。女の亡骸である。主であるフレデリックの魔術で動かされた亡者は自身の足で階段を下り、塔の外へ出てきた。
薄曇りの空の下、ふらつきながらもリネットの横を通り過ぎ、二つの亡骸を踏み越えて裏手にある大きな穴の前に来た。穴は一つだけではなく、長方形にいくつも掘られていた。
傍らには土の山が盛り上がっており、土の臭いが香った。穴の周りには、フレデリックの死霊魔術で操られた亡者たちが整然と並んでいた。いずれもハリーの素材であった亡骸であろう。厩舎には馬の死体もあった。
穴の中には先客がいた。上半身と下半身の分かれた、男の死体である。女の亡骸は穴の縁に立つとそのまま倒れ込んだ。飛び込むように男の亡骸に被さった。
すると亡者たちは待ちかねたように男と女の亡骸に土を掛けていった。
二体の亡骸が埋まって見えなくなると、亡者たちは自分で土をかけ、自身を埋めていく。
その横を首から血を流した馬が横切る。首や胴体の肉は削がれているが、足には異常はないため、動かすのは問題ないらしい。
死んだ馬は足音を立てて塔の前まで来ると、偽者のハリーの首に噛みついた。ずるずると絡まった二人の亡骸を引きずりながら塔の中へと入っていった。
完全に塔の中に入ったのを確認してからリネットは扉を閉めた。
「これで満足か?」
フレデリックが皮肉っぽい口調で聞いた。
「大変鮮やかな手際かと。わたくし、大変感服いたしました」
「貴様ごときが魔術を語るな。愚か者」
「申し訳ございません」
「たかが『魔力なし』の老婆の泣き言で、小生にこのような手間を掛けさせたのだ。後で覚悟はしておくがいい」
「承知しております」
リネットは頭を下げた。
「翼の手入れは念入りに、食事は屋敷ネズミをご用意いたします」
「ならばいい」
フレデリックはそっぽを向いた。
「言っておくが所詮は感傷だ。共に葬ろうとも冥界の旅路は別々よ」
「存じ上げております」
フレデリックはつまらなそうに一声啼くと行くぞ、と言った。
かしこまりました、とリネットは主を帽子の上に乗せ、ふもとへの道を下る。
不意に背後でまばゆい光が走った。轟音が鳴り響き、大気を震わせる。
振り返ると、死霊魔術師の塔は炎に包まれていた。石造りの塔の中は炎に包まれ、灰色の煙を窓から吹き上げていた。窓の向こう側で一瞬、黒い腕が上がったように見えた。リネットはすぐに向き直り、黒革の鞄を手にふもとへの道を下る。
「そういえば」
リネットが困り顔であごに指を当てる。
「あの方の本当の名前をお聞きするのをすっかり忘れておりました」
「だから貴様は阿呆だというのだ」
フレデリックが頭の上から得意げに言った。
「死人の名前など『名無しの死体』に決まっているではないか」
お読みいただき誠に有り難うございました。
倒叙ミステリものに挑戦してみました。
いかがでしたでしょうか。
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