第26話――開いた門
朝の風が、一枚の紙を運んできた。
紙は門の下をくぐり抜けると、地面をかすめるように転がって、荷車の車輪に引っかかった。
馬のいない荷車の車輪。毎日、あの老婆がもたれている車輪だ。
紙なら、門をくぐって出てこられる。けれど門の外の人々は、まだ誰ひとり、門をくぐって入れてはいない。
老公爵の倉から麦が届いて、十一日が過ぎていた。
毎朝、リゼルは麦粥をひと椀ずつ、自分の手でよそった。毎晩、「王都」の行のあとの欄に、自分の筆跡で数字を書き入れた。
その数字は、毎晩大きくなっていった。
門番の衛兵の話では、同じ紙が束になるほど刷られ、王都じゅうの壁に貼り出されているという。早馬に積まれて、あらゆる街道へも運ばれていったらしい。城壁の向こうからは、触れ役の声が、風向きしだいで途切れ途切れに聞こえてきた。
老婆は紙を手に取ったが、字が読めなかった。
男がひとり、それを受け取って、大鍋のそばにいたリゼルのもとへ持ってきた。
「あの……これには、何と書いてあるんでしょうか」
リゼルは、声に出して読んだ。
「国境守備隊、兵力不足のため、王国全土の町および村より、徴兵の齢に達した男子を徴集する。各地は下記の人数を差し出し、期日までに王都へ参集させよ」
その下には、町の名と数字が並んでいた。どれも、彼女が毎日胸もとに入れて持ち歩いている一覧と、同じ名前だった。
名前は同じなのに、数字が違う。
彼女の一覧の数字は、その町が受け入れられる人数だった。この紙の数字は、その町が差し出さなければならない男の数だった。
紙の末尾には、印がひとつ押されていた。この場にいる誰よりも、彼女はその印をよく知っていた。
男たちの何人かが、ゆっくりと息を吐いた。
彼らの村の名は、そこになかった。もう誰も住んでいない村の名を、布告に書き入れる者はいない。
子どもを抱えた男だけは、息を吐かなかった。
このところ男は、三列目に移って座っていた。最初の夜、毛布の届かなかった母子の隣だ。その母子にも、今は毛布が一枚ある。
男は腕の中の子どもを見下ろし、抱く腕に、いっそう力を込めた。
「どうぞ、お持ちください。俺たちが持っていても、読めませんから」
紙を持ってきた男が言った。
リゼルは布告を胸もとにしまった。受け入れ先の町の一覧の隣に。
胸もとの紙が、また一枚増えた。
◇
門の外でエレナがギターを受け取ったあの夜から、一本のギターには、持ち主が二人いた。
昼は、リゼルがバンドの練習で弾く。夜になると、物置部屋の扉のそばで、エレナの膝の上に収まる。
夜ごとにエレナが弦を緩め、朝ごとにリゼルが締め直す。
けれど一本のギターが、二人の隣に同時に並ぶことはできない。
ただ、リゼルの魔法には、形を変えるための何かがいつも要る。この部屋に眠っていた古いものは、バンドが産声を上げた夜に使い尽くしていた。
残っているのは、部屋の隅の古い木箱だけだ。兄がいつも腰を下ろしていた木箱。それだけは、何に使うつもりもなかった。
布告が届いた日の夕方、ライラが布にくるんだ細長いものを抱えて入ってきた。
布の下から現れたのは、古い楽器だった。色の濃い木。細く長い棹。弦は何本か切れ、残りには錆が浮いている。
「あの日の馬車で、エレナさんがおっしゃっていましたよね。昔の宮廷で弾かれていた撥弦楽器を、習っていたことがあると」
ライラは言った。
「王宮の古い納戸のひとつに、こういうものがしまってあったんです。……誰が見つけてきたのかは、エレナさんにおっしゃらないでくださいね」
ライラはそれを床に置くと、リゼルが礼を言う間もなく、部屋を出ていった。
その夜も、エレナはいつもの時刻にやってきた。そして、いつものように、壁に立てかけられたギターへ手を伸ばした。
「今夜は、そのギターはわたくしのですよ」
「存じておりますわ」
エレナは振り向きもせずに答えた。
「毎朝、あなたのものに戻っているではありませんの」
リゼルは、床の上のものにかけていた布を取り払った。
その音に、エレナが振り向く。そして、そのまま動かなくなった。
エレナは近づいてきた。この部屋で、これまで歩いたどのときよりも、ゆっくりと。右手の指先が、切れずに残った弦の一本に触れる。乾いた、調子外れの音が、かすかに鳴った。
「……わたくしが習っていたものと、同じですわ」
布を巻いた左手の指先三本が、考えるより先に、棹の上に置かれていた。
「これを、どちらで?」
「探してきてくれた人がいるんです」
「この王宮で、何がどこにしまわれているか、誰にも教わらずに分かる方」
エレナは言った。
「わたくし、ひとりしか存じませんわ」
リゼルは微笑んだだけで、答えなかった。
「この楽器を、使わせていただきますね」
リゼルが言った。
「わたくしのものではありませんもの。あなたのお好きになさればよろしいわ」
リゼルは、楽器の胴に両手を添えた。
手のひらから、やわらかな光があふれ出す。古い木が、細かな光の粒へと崩れていく。そして、その光の粒が再び絡み合い、少しずつ形を作りはじめた。錆の浮いた弦は赤く輝きながら溶け、細く引き伸ばされて、新しい弦へと姿を変えていく。
エレナの指が知っているものが、彼女のまだ知らない音へと変わっていく。
この部屋で迎えた最初の夜、リゼルは思い浮かべた。
孤独。恐怖。そして――希望。
今夜、思い浮かべたのは、別のものだった。
すぐ隣で鳴る音。目を向けなくても、そこにあると分かる音。
光が引いていく。
床の上に、一本の赤いギターが横たわっていた。
リゼルのギターと、姉妹のようによく似た形をしている。胴には、銀色に輝く魔法文字が刻まれていた。
リゼルはそれを拾い上げ、差し出した。エレナは受け取って、眉をひそめた。
「……弦が、緩んだままですわ」
「申し上げましたでしょう? 弦の張りは、これからはご自分で決めてくださいね、と」
エレナの口が答えるより先に、耳のほうが赤くなっていた。
「……基準の音を、いただけますかしら」
リゼルは自分のギターを手に取り、いちばん低い弦を弾いた。エレナも、新しいギターの同じ弦を弾く。それから、糸巻きを少しずつ回していく。
ふたつの音が重なり、うなりが生まれた。ゆらり……ゆらり……。その揺れが、ゆっくりと、さらにゆっくりと、間遠になっていく。
そして、静まった。
音は、ひとつになった。
一本ずつ。最後の一本まで。
この世界に、ギターは一本しかなかった。
今夜初めて、二本のギターが、同じ音で鳴った。
「あなたから贈り物をいただく筋合いは、ございませんわ」
エレナは、リゼルの顔を見ないまま言った。
「贈り物ではありません。バンドの備品です」
「……備品でしたら、お預かりするくらいは、構いませんけれど」
けれど、ギターを抱える腕は、少しも緩まなかった。
部屋を出る前に、リゼルはもう一度、壁のほうへ目をやった。
二本のギターが、並んで立てかけられていた。
◇
五日後の朝、南から来た徴集兵の列が、門をくぐっていった。
南は、アレンの生まれ故郷だった。務めを終えると、彼はリゼルの許しを得て、練兵場へ足を運んだ。
練兵場は、城壁の内側、門からそう遠くないところにある。木の柵で囲まれた、だだっ広い土の広場だ。
アレンが着いたとき、教官の怒鳴り声が響き渡っていた。
「全員そろって槍を落とすとは何事だ! 練兵場を十周! 走り切れなかった者は、今夜の飯は抜きだ!」
十数人の徴集兵が走り出した。最後尾の者は、一周もしないうちに息を切らしはじめている。
アレンは柵にもたれ、走る男たちの顔を、ひとりずつ目で追った。
そのときだった。広場の端の草むらから、蛇が一匹、這い出してきた。肘から先ほどの長さもない、小さな蛇だ。
先頭を走っていた男が、ぴたりと足を止めた。
次の瞬間、男は走り出した。広場の誰よりも速く。一周遅れの最後尾を、追い抜いてしまうほどに。
そして二、三歩ごとに一度、後ろを振り返った。
最後尾で力尽きかけていた三人が、顔を上げた。
「あいつ……また振り返って、こっちを見てるぞ」
「俺たちを、見捨てねえ気だ」
三人は歯を食いしばり、足を前へ出しつづけた。
初めて、列の全員が十周を走り切った。
だが、あの男は止まらなかった。
十五周。二十周。二、三歩ごとに振り返るのも、やめない。
蛇なら、二周目のうちに草むらへ引っ込んでいた。
練兵場じゅうが手を止めて、それを見ていた。もう誰も、訓練どころではない。
アレンも見ていた。あの走り方。あの振り返り方。どこか見覚えがあって、だんだん嫌な予感がしてくる。
ようやく男は、柵のすぐそばで膝をついた。肩で激しく息をしながら、それでもまた一度、後ろを振り返る。
教官が歩み寄り、その前に仁王立ちになった。
「貴様。なぜ、ずっと後ろを振り返っていた」
「……振り返らねえ奴から、やられるんだよ」
練兵場が、しんと静まり返った。
教官は、その言葉を石に刻みつけるように、ゆっくりと繰り返した。
「振り返らん奴から……やられる」
それから、練兵場じゅうへ向き直って怒鳴った。
「聞いたか! 俺が一日じゅう貴様らに言ってきたのは、これだ! 戦場では、後ろの仲間を振り返らん奴から死ぬ!」
最後尾の三人が男を見る目は、もう、さっきまでとは違っていた。
教官は男に向き直った。
「貴様、名は」
「Lord」
柵をつかんでいたアレンの手が、止まった。
「……Lord?」
男が顔を上げ、アレンに気づいた。表情は、少しも変わらなかった。まるで、昨日会ったばかりだとでもいうように。
「おう、アレン。……蛇、どこ行った?」
「お前……蛇から逃げてたのか」
「追ってきたからな」
「二周目で、草むらに引っ込んだぞ」
「お前は知らねえんだよ」
Lordは真顔のまま言った。
「蛇ってのはな、親父の代から、うちを追っかけてきてんだ」
アレンは目を閉じた。その先は、訊くまでもない。こいつの親父とニシキヘビの話なら、ほとんど一晩中聞かされたことがある。二度と聞きたくはなかった。
教官の目が、アレンの制服に向いた。
「近衛の。こいつを知っているのか」
「はい。同じ町の者です」
アレンは、本当のことを言うと決めた。
「失礼ながら、この男は、誰かを見るために振り返っていたわけではありません。蛇から逃げていただけです」
教官は黙り込んだ。それから、ゆっくりと頷いた。
「蛇……か。敵というのはな、蛇のようにやって来る。音もなく、背後から這い寄ってくるのだ。さすがは近衛だ。よく見抜いた」
「いえ、本物の蛇です。このくらいの」
アレンは両手を、肘から先ほどの幅に広げてみせた。
「そうだ」
教官は、さっきよりも深く頷いた。
「本物の敵というのは、最初から大きく見えたりはせんものだ」
アレンは口を閉じた。
この練兵場で本当のことを知っているのは、自分ひとりだった。そして何を言っても、誰も聞いてはくれなかった。
最後尾にいた三人のうちのひとりが、水の入った柄杓を、両手でLordに差し出した。
「水です。……どうぞ、Lord様」
「……様?」
アレンは、片手で顔を覆った。
◇
数日後、二枚目の紙が、門扉に打ちつけられた。一枚目のすぐ下に。
小さな机と分厚い名簿を抱えた役人がひとり、門から出てくると、声を張り上げて布告を読み上げた。
「王都の門外に留まる者のうち、徴兵の齢に達した男子にして、差し出すべき町村を持たぬ者は、この場にて名を記し、本日の閉門までに練兵場へ参集せよ」
門の前からは、何ひとつ、返ってくる声がなかった。
一枚目の布告には、村の名が要った。
二枚目の布告には、もう要らなかった。
リゼルは、机のほうへ歩いていった。
「この命令は、どなたから出たものですか」
「貴族議会、ならびに軍よりにございます、殿下」
紙の末尾には、一枚目と同じ印が押されていた。
なぜ、とは訊かなかった。どの理由にも、筋は通っているのだろう。議場で聞いた、どの言葉とも同じように。
それに、彼女は約束をしている。この人々を、ひとりたりとも門の内には入れないと。
だから、彼らの家族のために門を開けてほしいとは言えない。あの印の押された命令を取り下げてほしいとも、言えなかった。
「では……この方たちのご家族は」
「命令には、記されておりません」
名簿には、三つの欄が引かれていた。名前。年齢。もといた村。
「もうひとつ、欄を足していただけませんか。それぞれのご家族が、どの列に座っているのか」
「この書類には、そのような欄はございません」
「記録は、私が」
エリアスが手近な空き箱を机の脇まで引きずってきて腰を下ろし、膝の上で手帳を開いた。門の前で過ごした最初の夜に使った、あの手帳だ。
あの夜、ページは子ども、年寄り、病人と、三つの欄に分けられていた。どの欄にも、数字しかなかった。
エリアスは新しいページをめくり、新しく線を引いた。
男たちが、列を作りはじめた。ひとりずつ、名を告げる。エリアスが、家族はどの列にいるのかと尋ねる。
リゼルは机の横に立ち、そのひとつひとつの名前を聞いていた。
門の前にたどり着いてから、この人々はずっと、数字でしかなかった。
今日初めて、門の外にいる者の名前が、紙に書き記された。
兵になる者の名前だけが。
子どもを抱えた男は、列の終わり近くに並んでいた。肩の上で、子どもが眠っている。
男が名を告げた。リゼルがその名を聞くのは、初めてだった。
「ご家族は、どの列に」
「三列目に」
男は一瞬、あの母子のほうへ目をやった。女はそれを見返し、小さく頷いた。
◇
その日の夕暮れ、蝶番の軋む音が、また長く尾を引いた。
門扉が開いていく。人と手押し車がやっと通れるだけの幅では、止まらなかった。門は、いっぱいまで開け放たれた。
あの夜、誰も立ち上がらなかった。
今日は、誰もが自分から立ち上がった。
男たちは、何日も座りつづけてきた場所を離れ、門の前に並んだ。残る者たちは元の場所に立ったまま、道の脇でそれを見ていた。
子どもを抱えた男は、あの女の前に膝をついた。
ライラが代わりに抱こうと腕を差し出した日、男は首を横に振った。
門の前に歌が流れた夜、男は初めて子どもを下ろした。子どもが、眠ったからだ。
今日、子どもは眠っていなかった。
男は子どもを差し出した。小さな手が父親の襟をきつく握りしめて、離そうとしない。
男は、その指を自分の手でほどいた。一本ずつ。
女は子どもを受け取ると、毛布を引き寄せた。最初の夜には届かなかった、あの毛布。その一枚で、自分の子と一緒に、その子をくるんだ。
最初の日から、ずっと震えていた片方の腕。今日、その腕には、もう抱えるものがなかった。
男は列に加わった。
そして、一度も振り返らなかった。
リゼルは道の脇に立っていた。隣には、エレナがいる。
男たちの列が、門をくぐりはじめた。
リゼルは数えた。
一人。二人。三人。
空が白むまで、一列ずつ数えたあの夜と同じように。けれど今度は、目の前を通り過ぎていく誰の名前も、彼女は知っていた。
最後のひとりが、門をくぐった。
門扉は、定めの刻限どおりに閉ざされた。
あの子どもが、泣き出した。
女はゆっくりと体を揺らしながら、小さくささやいた。
「……一緒に、待とうね」
その日、王都の門は初めて、門の外の人々のために大きく開かれた。
入ることを許されたのは、戦に呼ばれた者たちだった。
◇
その夜、物置部屋で、エレナが赤いギターのいちばん低い弦を、そっと弾いた。リゼルも、同じ弦を弾く。
うなりが揺れて、やがて静まり、ひとつの音になった。
どちらも、何も言わなかった。
リゼルは受け入れ先の町の一覧を、一行ずつ辿っていった。そして、自分の筆跡で書き加えた行にたどり着いた。
王都
最初の欄は、空いたままだ。
彼女はエリアスの手帳の新しいページに並んだ名前を数え、それから、今夜のあとの数字を書き入れた。
その数字は、昨夜より小さかった。
この一覧が届くようになってから、あとの数字が減ったことは、一度もなかった。
今夜、あとの数字が、初めて減った。




