第1話
思い返せば、母さんが亡くなって以来、織をこんな風に強く抱きしめたことなんて、他にはなかったかもしれない。
久方ぶりに連絡を寄越した親父の手によって、戦争から逃れるために国外へと送り出されてからというもの、俺たちは一瞬たりとも気の休まらない極限の緊張状態に置かれていた。
目の前に海面の微かな光が見えているような気がしても、いざ手を伸ばせば、それがどれほど遥か彼方にあるのかを思い知らされるだけだった。
俺は織をぎゅっと抱きしめる。二人の命は、きっとここで果てるのだろう。
恐ろしくてたまらないはずの状況なのに、皮肉なことに、今は過去を振り返るだけの余裕が生まれていた。
暗い……深い……
海へと墜ちてから、かろうじて保っていた意識が今、途切れようとしている。
「これが――死、なのか」
俺は、そっと両目を閉じた。
人は死んだ後、罪がなければ天国へ行くという。
果たして俺は、罪ある者か、それとも罪なき者か。
そんな問いが脳裏に浮かんだ瞬間、俺の存在は世界から静かに消え去っていった。
「諸星……諸星……」
押し寄せる波の音と、俺を呼ぶ声が、心の中に生じた空白へと滑り込んでくる。全身を満たす凄まじい脱力感。抗うようにして薄らと目を開けるだけでも、すべての体力を使い果たしてしまいそうだった。
「諸星、目が覚めた?」
織が俺の傍らに座り、静かに呼びかけていた。
「お前だって、諸星だろ……」
「織は織。あなたは諸星」
「お兄ちゃん、って呼べよ」
「諸星」
俺は思わず苦笑した。それ以上呼び方にこだわるのはやめた。そうやって言葉を交わすことで、自分が生きていることを確認したかっただけなのだろう。
妹の諸星織が俺を「お兄ちゃん」と呼んでくれたのは、それこそ彼女がまだ片言を話し始めたばかりの幼少期のことだ。
それ以来、俺たちが顔を合わせる機会はほとんどなかったのだから。
「嘘だろ……。まさか、生き延びたのか?」
「うん。どこかの島に流れ着いたみたい」
俺はため息をつき、もう少し横になっていようと視線を上に向けた。どこまでも広がる群青の空には、ぽつんと数筋の雲が浮かんでいるだけだった。
つい先ほどまでの大津波も、昼を夜に変えたあの嵐も、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っている。
「織、俺はどれくらい気を失っていた?」
織も同じように空を見つめ、少しの間を置いてから答えた。
「嵐が止んで、晴れるまで」
見渡す限りの海原。視界を遮るものは何一つない。この様子では、救助が来るまでにどれほどの時間がかかるか見当もつかない。おまけに、俺たちが乗っていた巨大客船の残骸すら、ここには一片たりとも流れ着いていなかった。
ゆっくりと立ち上がり、体に張り付いた衣服を軽く引っ張って隙間を作った。
「とりあえず島の内陸へ進んでみよう。危険な野生動物がいるかもわからないし、救助を待つ間、最悪の事態を想定しておく必要がある」
「諸星、もう大丈夫なの?」
織の声はどこか弱々しかった。振り返ると、彼女の体は今にも崩れ落ちそうにふらついている。
「織?」
「あとは……よろしく……」
俺は慌てて手を伸ばし、倒れ込む寸前の織を抱きとめた。肩に額を預けた織からは、規則正しく穏やかな寝息が伝わってくる。
「ありがとな、お疲れ様」
空が陰る気配はまだない。俺は織を背負い、島の内陸へと歩みを進めた。
鬱蒼と生い茂る植物をかき分けて進むにつれ、突きつけられた現状に落胆させられる。手つかずの原生林――ここは間違いなく、人類が足を踏み入れたことのない無人島だ。
高校の授業で、人類未踏の島が僅かに存在することは習った記憶があるが、当然ながら、ここがそのうちのどれなのかを判断する術など俺にはなかった。
当てもなく歩き続けるものの、道中で俺の知識にあるような食料になりそうなものは見つからなかった。最後に食事を口にしてから、おそらく半日以上は経過している。飢えによる鈍い痛みが、胃の腑から脳へと直接突き上げてくる。
織の容態も心配だった。今は眠っているとはいえ、彼女も俺と同じように、長いこと何も口にしていないのだ。
「はぁ……それにしても、なんて綺麗な景色だ」
どれほど歩いただろうか、ようやく水の流れる音が耳に届いた。腰の高さまである草むらをいくつか掻き分けると、一本の川が目の前に現れた。
織をそっと降ろし、大きな大樹の根元に寄りかからせると、一人で川べりへと歩み寄った。川の水は驚くほど澄み切っており、時折花びらが流れ、魚の影がせわしなく閃いている。
鳥のさえずりと虫の音のアンサンブルが聞こえる。しかし、それはむしろ周囲の「静寂」を際立たせているようだった。俺は手で川の水をすくい、長い移動の疲れを洗い流しながら、張り詰めていた神経を和らげていく。
突如として、けたたましい羽ばたきが響き渡り、無数の鳥たちが森から一斉に飛び立った。顔を上げた瞬間、川の対岸から注がれる視線と、真正面からぶつかった。
え――
俺は驚愕に目を見開いた。それは間違いなく「恐怖」と呼ぶべき感情で、あまりの衝撃に、自分の体を動かすことさえ酷く困難に感じられた。
「きょ、巨人……?」
対岸に佇んでいたのは、五、六人ほどの巨大な影だった。
俺の知るいかなる人間よりも巨大で、彼らは顔の半分を仮面で覆い、露出したもう半分からは感情を読み取ることができない。手には巨大な長槍を握りしめ、じっとこちらを凝視している。
目の前の川など、彼らなら数歩で跨ぎ越してくるだろう。俺はゆっくりと立ち上がり、少しずつ後ずさりした。視界の端で後ろを確認すると、織はまだ目を覚ましていない。
「織……」
俺の動きに呼応するかのように、巨人たちも川を渡り始めた。速度こそ遅いものの、その足取りは一歩ごとに大地を揺るがすような地響きを伴っている。俺は急いで織の元へと駆け寄り、彼女を抱きかかえようとしたが、その時にはすでに、巨人がすぐ後ろにまで迫っていた。
振り返ると、先頭の巨人が長槍をこちらへ向けて構えていた。相手に敵意がないのではないか、という淡い期待は完全に打ち砕かれる。織を背後に庇うように立ち尽くし、脳内は真っ白に染まった。
「……」
喋った……?
「あの……俺たちに敵意はありません……!」
「……!」
俺が言い終わるよりも早く、すべての巨人が一斉に長槍を突き出してきた。数歩後退し、怒りに満ちた声を上げる。
俺は慌てて両手を振り、敵意がないことを必死に伝えようとした。しかし、俺のジェスチャーを見た彼らはかえって過剰に反応し、円陣を組むようにして、俺たちを完全に包囲してしまった。
万事休す、か。せっかくあの大津波から奇跡的に生き延びたというのに。
「……!」
巨人たちが咆哮を上げ、じりじりと距離を詰めてくる。俺がすべてを諦めかけたその時、突如として、島の奥深くから厳かな鐘の音が響き渡った。
それを耳にした巨人たちは、怪訝そうに動きを止める。川の向こう岸から、一つの影が静かに姿を現した。
巨人たちに比べれば、その人影は明らかに小柄で、柔らかな印象を与えた。
艶やかな髪をなびかせ、真紅のドレスのような衣装を身に纏った姿は、息を呑むほどに優美で美しい。彼女は川を渡ってこちらへと歩み寄り、俺と織を見つめると、先頭の巨人と何事か言葉を交わし始めた。その内容は、当然ながら俺には理解できない。
巨人がどこか興奮した様子を見せる中、彼女は静かに首を振る。まるで同意を求めるかのような彼女の態度に、巨人は最終的に渋々と頷いた。
彼女がこちらへ歩いてくる。俺よりも少し低いその背丈に、胸の内で安堵の息を漏らした。もし現れたのがまたしても巨人のような大男だったなら、それこそ絶望するしかなかったからだ。
「君は……」
彼女は微笑みながら頷き、そっと手を持ち上げた。俺は反射的に身を引こうとしたが、思いとどまる。彼女の手が俺の額に触れ、そして静かに目を閉じた。
『領域外生命?』




