第3部
公園に集まっていなかった者を待つのは3時間ほどだった。
彼らは現状を認識して話し合ったり、時には慰め合ったりしながらその時間を過ごしたが一向にやって来ないので疲れ果てるとひとりふたりと公園を出て行くので誰が言うともなしに解散となった。
公園に集まらなかった者の理由は様々である。乳児に退化してしまった者や超高齢者に進化してしまった者など身動き出来なかった者もいるし、この事件に喚き散らす事で近隣住人に通報されて警察へ連行されてしまった者までいる。あるいは身体的な異常として病院へ駈け込んでその荒唐無稽な訴えに統合失調症や精神的な病の発病者として認識されて診断が下った者も居て多様な理由があった。
誰も彼もがこの事態に苦しんでいた。
武志たちは楓の母親や父親が心配になって一度、宮島家へ帰る事になった。
すやすやと眠る乳児と超高齢者を見ると安心した3人はようやく一息ついて休める事が出来た。
「タケシくんのおうちはだいじょうぶなの?」
ソファで寛いでいると楓がぽつりと呟いた。
武志はこれまで家の事など考えた事がなかったのを思い出した。
「そうだよ、武志さんのお家も確認した方がいいんじゃない?」
これまで武志が自宅の両親の事を気にかけなかったのは理由がある。武志の両親はほとんど相思相愛で何があってもそうであろうと考えられるからだった。
だが、もしこの事態がそんな2人の間を切り裂いていたとしたらと考える事もある。それは公園内で見て来た事が表していた。ただやはりそんな様子も見たくない。どちらにせよ知らない方が良い事もあるのだった。だからこそ武志は考えないようにしていた。目を逸らして来た事だった。
楓や薫は嫌がる武志を説得にかかった。
渋々ながら武志は母親に電話をかけてみる事にした。
呼び出し音がいくらか鳴ると母親が出た。
「あれ、武志?」
「そうだよ」
「あんた、今どこにいるの? 学校?」
「まあ、そんなところ。母さんと父さんは?」
「私たちねー、えへへへへ」
母親が笑っている。その声は張りがあって若く聞こえた。
「武志か?」「うん」
傍から父親が会話に入り込んでくるのが聞こえて来た。その声にも漲る若さがあるように聞こえて来た。
「私たちねー、今、どこにいると思う?」
「さあ、分かんないよ」
「じゃじゃーん、熱海に居まーす!」
「えへへへへー、いいでしょー」などと母親の喜ぶ声が聞こえるので2人が今、どんな状況でいるのかが分かった。武志はやはり変わっていない2人を確認して安心したような、またドッと疲れが押し寄せてきた気になってすぐにも電話を切りたい気になった。
「まあ、元気でいるならいいよ。それじゃあ、また」
「うん、武志もしっかりねー」
「なあ、ビキニでも着たらどうだ? 最近のはめちゃくちゃ可愛いのがあるぞ」と言う父親の声が聞こえて来たので武志は急いで電話を切った。
ため息をついた武志を見て楓と薫は不安になった。
「大丈夫みたいだよ。2人で元気よく旅行に行ってるみたいだ」
「えー」
うんざりしながら武志が言うのが余程可笑しいらしく楓はくすくすと笑って言った。
「良かったね、お父さんたちが無事で」
楓の言葉に武志は「うん」とだけ答えた。
それからは乳児と超高齢者の世話にかかりきりになってしまった。楓はせかせかと働いたし、武志も大いにそれを手伝った。薫も落ち着いて姉の楓の言う事を聞いている。時々、暗い表情が挿す事を見逃していない武志はいつ励ます声をかけようかと思い悩むのだった。
公園での出来事は同級生たちと気軽に連絡を取る事を薫に尻込みさせた。薫が寝ている間に処分してしまったタバコや他の物を要求する事もないので安心はしていたがどうにもその暗さが気にかかるのだった。
それでも次々とやる事が出て来るのが育児というものである。楓が、武志が、薫が代わる代わる乳児をあやすので乳児はずいぶん幸福そうだった。
そうしてまた武志はその日を宮島家で過ごしたのである。
「料理、やってみよっかな」
薫がぽつりと呟いた。それを聞いた楓は手を叩いて喜んだ。薫がそんな事を言うのは初めての事だったのである。
武志も手伝う事を申し出て「なんでも言ってくれ」と彼女に伝えると「ありがとう、ございます」と俯きがちに答えた。
どうやら薫は形から入る娘のようでいそいそと準備を始めるのだった。
「そうだ、部屋にエプロンがあったかも。家庭科で使ったやつ」
そんな発見が嬉しいらしく立って階上の自室へ向かい出した。楓が「うんうん」と頷いて薫の後を追うので武志もそれに続いた。みんなが自分の応援をしてくれるのが余程嬉しい薫は上機嫌になって階段を登って行く。
部屋の扉を開けた瞬間に彼女は固まった。彼女は散らかった部屋の事などすっかり忘れていたようで勢いよくばたんと扉を閉めると階下へ押しやろうと武志の背中を押した。
「下に、下に行ってて。ダメ、見ちゃダメ」
「お母さんを見てて」と階段を下りていく武志に言うので武志はその通りにした。何でも言ってくれと言った手前、逆らう訳にもいかない。あの慌てぶりを見るに武志があの部屋に入って色々と見た事は言わない方が良いだろう。楓はそんな事には全く気付いた様子もなく妹の薫の挑戦に心から喜んでいた。
部屋をひっくり返す勢いで薫はエプロンを探し出した。
「あれー、どこやったかなー?」
「ここじゃないし、ここでもないし」などと言いながらあちこちに物を放り投げていく薫の手伝いに楓は頑張った。散らばる本を整えたし、下着やバレーの練習着などを畳んで集めた。
階下で武志は乳児を抱いてあやしながら階上でどたんばたんと音がするのを聞いていた。
それから30分ほどの奮戦の末に薫は家庭科で自ら裁縫して作り上げて自作のエプロンを引っ張り出すとそれを鏡の前で当ててみた。するとやはりと言うべきだがサイズが小さすぎた。
「うげ、小さすぎ」
薫が笑って言うので楓も笑った。
「おかあさんのをかりたら?」
「うん、そうする」
姉妹の会話が出来た事に楓は喜んだし、薫も安心していた。ああ、こんな時間がずっと続けばいいのに。
母親のエプロンを身に着けてキッチンに立った薫はまさしく若妻だったが誰もそんな事は指摘して彼女のやる気に水を差す事はしなかった。冷蔵庫の中には食材が揃っている。
「ねえ、なに食べたい?」
まるでお望みの料理をなんでも作る事が出来ると言わんばかりに薫が尋ねると楓は冷蔵庫の中を覗いて首を傾げながら「うーん、なにができるだろ?」と呟いたし、武志は乳児を抱きながら「なんでも大丈夫だよ」と優しく言った。
楓と薫がうんうんと唸りながらキッチンで長い間、考えた末に鳥の照り焼きを作る事に決まった。
あれこれと下準備を進めていくが「あっ!」と楓が小さく叫んだ。
「ショウガがない………」
「必要なの?」
薫が率直に尋ねると楓は「うん」と頷いた。
ようやく自分の出番が来たと思った武志は買い出しを申し出ると2人は喜んで礼を言うので早速、宮島家を出てスーパーへと向かうのだった。
それが幸福で仕方がない。幸福が彼に力を与えて朝に感じた気怠さは消え去って若々しい力で足取り軽く最寄りのスーパーへ着いた。スーパーは閑古鳥が鳴いている状態で異様な雰囲気だった。
ショウガを買って帰っていく。武志は急いで宮島家へ向かった。異様な雰囲気が感じられたのはスーパーだけではない。公園やコンビニなどなど、いや、そこにある全ての建物の中から異様な空気が漏れている。
武志は恐ろしさに震え上がった。これまでと同じように機能していたスーパーだったが他の建物はその機能が崩壊しているように思われた。
宮島家へ辿り着いた時、彼は玄関を施錠した。そうする事が必要だと思ったからだ。だが、この中も正常とは言えない。
「ありがとう」
購入して来たショウガを楓に渡すと彼女は明るく礼を言うのでそんな事に救われた気持ちになった。
武志は明日が怖くなった。今日よりももしかしたらもっと酷い事になっているかもしれない明日がこの上なく恐ろしい。
どこもかしも火事になっていて上り立つ煙に気付いていながら消火活動を行なわない。煙は頭上で固まって天を暗く覆ってしまうだろう。
武志はこの家の外の事は2人に決して話すまいと決めて料理を作る薫を見守った。
午後7時を少し過ぎた頃に薫の料理は完成した。献立は随分素晴らしいものになった。見栄えもよく、漂う香りも素晴らしい。
「いただきます」
食事が始まった。楽しい食卓だった。幸福と言っても良いだろう。過剰なまでの幸福だったに違いない。だれもがそれを演じていたかもしれない。この事態の不安や境遇の痛ましさから演じるのを強制させられていたかもしれないのだ。
「美味しい」
「うん、うん」
武志の感想と楓の感想は全く同じだった。
「あは、ありがとう」
薫は心からお礼を言った。初めて人に振舞った手料理が褒められたのが嬉しい。これ以上に真実の感情があるだろうか。
楽しいまま、幸福に満たされたままに食卓は終わりを迎えた。食事を終えると後始末には武志が申し出た。彼もまた皿洗いぐらいの心得はあるのでそうするのが自然な事に思えたのだ。
楓も薫も武志の好意に甘えつつやるべき事は行なった。食器を洗う音を掻き消すほどの心通わす会話の声が辺りに響いていた。
そうして時間が過ぎていった。
再び宮島家で夜を迎えると武志には新しいしっかりとした寝床が用意された。母親たちの寝室を使う事になったがベッドを使うわけにはいかないと言う武志の願いによって布団はフローリングの床に敷かれている。
寝床が完成すると途端に眠気が頭をもたげたが風呂に入ってさっぱりしたい気もする。薫も楓も入浴は済ませていた。武志はいくらか緊張しながら入浴した。入浴剤の入れられている白い湯舟に浸かる事は出来なかったのでシャワーで済ませる事にした。
浴室の鏡を前に立った時に武志は老いた自分の体をまじまじと見た。引き締まった体だったが明らかに衰えている。盛り上がって割れていた腹筋は皮膚がたるんでいて重力に負けていた。
武志は冷水を浴びて気を引き締めた。そうすれば弛んでいる体も引き締まるような気がしたからだ。
「おやすみなさい」
武志が風呂から出るまで待っていた楓が眠気に負けて落ちて来る瞼をなんとか開けながら言うとよたよたと自室へ向かった。
「おやすみ」
薫もそう言って自室へ向かっていく。
「うん、おやすみ」
答える武志の顔は浮かなかった。どれだけ幸福に満たされていたとしても時間は流れていく。どうしようもなく明日はやって来る。幸福という隠れ蓑はこの時間に対して完全に無力だった。
あの火事が、誰にもどうにも出来ない火がすぐそこまで伸びてきている気がしてならない彼は繰り返し窓の外を見た。灯りのついていない家がちらほらとあるがついている家もある。そこはどんな状態なのだろう。レースカーテン越しでは中の様子は見られない。ただただいつも通りに過ぎている事を祈るばかりだった。
新しいベッドではなかなか寝付けなかった。寝室に入っても武志は繰り返し窓の外を見ている。静かなこの住宅街で姿を見せない隠れた異変を感じ取るためのこの行動を彼は夜遅くまで続けるのだった。
翌朝、武志はハッとして目を覚ました。寝過ごしたと思ったのだ。がばりと跳ね起きると気怠さを振り払うように急いで階下へと向かった。
楓はすでに起きてリビングで朝食を作っていた。トーストされた食パンが皿の上に載っている。
「おはよう」
元気のいい楓の声は武志の不安を吹き飛ばす力があった。
「早いな」
「そうかな?」
「そうだよ、だってまだ7時だ」
「うん、なんか目が覚めちゃって」
「そっか」
穏やかな朝だった。朝の陽ざしが窓から射し込んでリビングを明るくしていた。
武志が椅子に座ると楓も座った。対面する2人は微笑み合って朝食を食べている。
するとどたばたと階段を駆け下りて来る音がした。薫が下りて来たのだ。リビングの扉を勢いよく開けると食いつかんばかりに言った。
「なに、なにどうしたの?」
跳ね起きて階段を下りていった武志の出した音を聞いて目を覚ましたのだろう薫は軽くパニックに陥っていた。寝ぐせで髪は乱れているし、彼女が着ている小さめのパジャマは胸元がはだけているのに気付いていない。
武志はそれを見ないように目を逸らして楓は薫を注意した。
「かおる、だらしないよ」
「え、でも、なんか凄い音がしたから」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。あさごはんをよういしているからととのえておいでよ」
「分かった」
薫は再び自室に戻って着替えを始めた。
武志は楓と共にリビングで朝食を食べている。
ゆっくりとした時間が流れている。時の流れる筋が見えるようだった。
武志はリモコンを手に取ってテレビの電源を付けた。家の外は見たくない。何か新しい風が欲しかった。空気が入れ替われば会話も今よりも弾むかもしれない。
「あ」
楓が口を開けて呟くと止める間もなくニュースが流れて来た。
『前代未聞の事件です。
今、私は総合病院の玄関にいます。ご覧ください。多数の人が困惑した様子で病院へ押しかける様子が見えるでしょうか。これは他人ごとではありません。どうしてかというと私自身も今すぐに駆け込みたいからです。皆さん、中継を行なっている私は福田敏行です。毎朝、皆様に朝のニュースをお届けしていた福田敏行なんです!』
福田敏行という名前には武志も心当たりがあった。大学を卒業してからアナウンサーとして職に就いた20代半ばの好青年だったはずだ。それが今や中年の男性に見える。
福田アナウンサーはまだ中継の様子を伝えている。
武志は震える手で違うチャンネルにした。
ほとんどの局でこの前代未聞の事件について報道している。どうやら日本全土にこの現象が起こっているらしい。
総理大臣の会見を中継している局があるが総理大臣は話が出来ない状況で副総理大臣が代行している。その副総理は小学生の身なりをしていて普段ならスーツを着込むはずの所が合うサイズがない事から息子が着ていた学生服を着ているがそれもどうやら大きすぎるようで格好が付いていない。
要するにすべてが滅茶苦茶になっていた。
俳優もスポーツ選手も政治家も歌手も、誰も彼もが姿形が変わってしまっている。
武志は急いでテレビの電源を切った。
そして食パンを手にしたままでいる楓を見ると彼女は優しく微笑んでいた。まるで天使の微笑みだった。この局面において全くの不安を感じさせないで他人を励まして癒すような完全な微笑みだったのである。
武志はそれに魅了されて目を逸らせないでいる。
「たいへんなことになっちゃったね」
楓が言った。
「うん」
誰も何も言えなかった。言う必要がなかったのかもしれない。
そうして沈黙の中で過ごしているとがちゃりとリビングの扉が開く音がして薫が入って来た。
整えて来たのを幼い姉に示すように大きな胸を張った。全く静かなこのリビングは互いに混乱しながらも外の混乱とは無縁だった。彼女たちは全てを受け入れて新たな出発をする気でいたし、恐らくもっとひどい混乱が訪れるかもしれないという危機感をひしひしと感じながら備えているのである。
テレビの電源はもう二度と付けられなかった。ただこの沈黙が心地よい事もあれば苦痛になる事もある。薫は立ってミニコンポの電源を入れると彼女が好きな音楽を流し始めた。それはゆっくりとした音楽でバラードの詩性がこの局面に心地よく響いて来る。
午後は買い出しに出かける事に決まった。もちろん3人で行く。
それまでは赤子となった母親の世話を焼いたり、未だにしゅうしゅうと眠り続ける超高齢者となった父親の面倒を見て彼らは過ごした。
決めていた時間となったので彼らは外へ出た。
家の外は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。隣の仲睦まじい中年夫婦は若くなった妻が同じく若くなった配達員を家へ連れ込んで乳繰り合っているのを赤子となった夫が見て泣き叫んでいる。赤子は誰かを呼んだり、腹が減っただけで泣くものであるがこればかりはそのためと言えないだろう。
向かいの家では総じて若返った一家が人生をやり直せると歓喜に渦巻いていた。
あるところでは喜びが、あるところでは絶望が、極端に表れていた。壁を一枚隔てたその先に最も密度の濃い歓喜と、最も深い絶望が一つ屋根の下に同居している。
社会の形は変わってしまった。車を運転している小学生の身なりの男が居たがこれは元は中年の男性である。道端で絶望するあまりに座り込んでしまっている女性がいた。いくらか酔った様子でいて明らかに老婆だが元は中学生の華として生きて来た女であった。
こうして若返ったり、老いていく人々が現れると元の仕事に就こうとそれまでの仕事をする人はごくまれだったのでいよいよ治安は悪くなった。だが、この事態に法がどれほどの価値を持つだろうか。
買い物へ行く間にも、帰る間にも3人は3人だけの世界を創り上げていた。歴然とした家庭の姿がそこにあった。
そうして家に帰ると彼らは温かい食事を食べて一日を終えた。
夜、彼らは再びリビングに集まって談笑した。そうしていることが幸せだったのだ。
夜も更け眠りに就く頃に武志は思った。
たとえ社会が姿形を変えたとしても君を愛する。