第3部その2
武志が宮島家で生活を始めて4日が経った。
彼は両親と連絡を取り合ってクラスメイトが困っているから力になっていると事情をかいつまんで説明すると男気に溢れた彼の父親は大いに武志の働きを褒めてそのままで居るように告げた。このかかる大混乱の中でその直向きさや誰かへの優しさが大切になると言う。
この宮島家の中で武志は外に出て活動する必要性を感じていた。食べ物も調達しなければならないし、情報も集めなければならない。
楓と薫を連れていく事は出来ない。あまりに危険すぎるように思われて気が引けたのである。武志は無断で外に出る決意を固めた。
そして今日の朝、武志はいよいよ外に出るつもりで準備を進めている。この混乱の中で何があるか分かった物ではないので自衛のために武器やあるいは防具のような身を守るものが必要に思われたが彼はただ手ぶらで、強いて言うならばいくらかのお金を持つだけにした。
静かな朝だった。楓は母親の世話を焼いているし、薫はまだ寝ている。
武志は静かに玄関で靴紐を固く結び始めた。
「どこか行くの?」
楓が武志の背中に尋ねた。その尋ね方はまるで「帰って来る?」と言葉の裏に潜ませているかのような口ぶりだった。どうにも不安が拭えないらしい。武志はどれだけ言葉に尽くしても楓たちの傍を離れない決意を理解してもらえなかった。両親から理解を得ていると語ったがやはり心配であるらしい。他の拠り所があると思えてならないのだった。
薫も起きて階段を降りて来た。
「どうしたの?」
薫が尋ねた。
「ちょっと出かけて来る」
「え、どうして?」
「外の様子を見て来るのと色々と調達して来る」
「行かない方が良いと思うけど、帰って来る?」
楓も薫も不安そうに武志を見た。
武志はこっくりと頷いて言った。
「絶対に帰って来るよ」
「だから心配しないで」と言い残して武志は宮島家の玄関を出た。
後に残された2人は何も言わずにリビングに入った。
武志は近くのショッピングセンターへと向かった。車は行き交っているがバスや電車は動いていなかった。大通りに出ると数台の車が事故に遭っているのが見えたが警察も来ていなければ救急車が来た様子もない。運転手もおらず壊れた車だけが残されていた。
ショッピングセンターまでは距離がある。武志は少しでも早く着くために小走りになっていた。10キロぐらいなら止まらずに走れる体力がある。でも、それはあくまでも体が若い頃の話で今となっては4キロほどが精々だった。
ショッピングセンターへ行くのは諦めるべきだろうかという考えが武志の頭を過った。もし、向こうで必要な物があった時にそれを手に持って宮島家まで運ぶのは到底不可能のように思われた。
だが、人の集まる場所へ行ってどんな状況になっているのかを見るのは必要だと思われて武志はただ足が向かうに任せるのだった。
3時間ほど歩いたり、走ったりを繰り返して武志はショッピングセンターへと辿り着いた。そこはもうすでにかつての姿はなかった。広い駐車場はまるでサーキットのようになっていて車を無理に運転したい連中で溢れている。エンジンやタイヤが運転手の無理な要求に応えるために酷い音をがなり立てている。
ショッピングセンターの中に入るとガラスが割られていて無法地帯と化しているのが分かった。誰もそれを咎める者が居ない。
社会を構成する要素の経年の変化だけで全て変わってしまっている。それまでの価値観は変化していた。
誰も彼もが好き勝手に振舞っていた。飲食店の店舗の中では極厚のステーキ肉をスーパーの肉売り場から持って来た男がキッチンで肉を焼いていた。それを楽し気に待っている連中がいる。彼らの服は今ここで落ちている物を拾ったと言わんばかりの堂々たる様子で売り場から持って来た真新しいものだった。
通路を裸で歩く男も居れば女もいた。自転車で疾駆する者も、上の階の吹き抜けからロープを垂らして降りる者も居た。
様々な者が居る。武志は楓と薫を連れて来なくて本当に良かったと思った。
スーパーに入ると彼は習慣に負けて籠を手に持っている自分を自嘲気味に笑った。必要だろうかと自問してみると彼は必要だと答える自分を見出した。
彼がスーパーを回って残された食材を見ているとある男女が近づいて来る。その2人はどうやら武志を知っている様子だが武志の方は知らない。
「よお、倉敷武志だろ?」
声をかけられて振り返るとそこには若い男女が立っていた。男と女は酒瓶を手にしていくらか酔っ払った赤い顔をしている。男は武志に会えたのが嬉しいらしく笑っていた。決して酔って良い気分になっているからではない。本当に今ここで武志に会えたのが嬉しいらしい。
「え、この人が倉敷君なの?」
「そうだよ、武志だよな?」
女が手ぶりで大げさに驚いて見せた。
「そうだよ。知り合いか?」
武志は警戒心を解かずに尋ねた。見覚えのない顔だ。
「ああ、クラスメイトの山上と前島だよ。山上隆太と前島彩だって」
2人とも同じクラスの男女だった。面影はない。酒の所為だろうかと武志は思った。
見たところ2人は20代の半ばといったところだ。山上は前島の腰に手を回して抱き寄せている。前島もそれに応えるように山上へと寄り添っていた。2人ともこうした変化が訪れる前には別々の異性と付き合っていたはずだ。
武志は「何か用か?」と尋ねる事はしなかった。これ以上に話をしていたくない。
「向こうでみんな集まってるんだぜ。楽しくやってるぞ。武志もどうだ?」
山上の言葉に武志は耳を傾けた。
「そうか、もしかしたら行くかもしれない。向こうってどこだ?」
「ああ、駅前のホテルだよ。最近に建てられたあの大きなホテルだ。俺たちは今、食べ物と飲み物の調達に来たんだよ」
「まずビールだろって小柳が言うからさ、ビールから飲んでたんだけど他のも飲んでみたくなってよ。あとタバコもあるぜ」と山上が言うと手に持っていた酒を一口飲んだ。彼が持っているのはウイスキーで瓶の半分ほどがすでにない。
武志はじっと彼らを見た。その背景に広がる淫靡な退廃が見えるようだった。
寄り添う前島が見上げているのに気が付いた山上は彼女の唇に唇を重ねて音が聞こえるほど吸った。
その生々しさが武志には不快だった。
目を逸らすと彼はある食材が目に入ったのに気が付いてそれを手に取った。それは豆腐だった。楓と薫が自宅で料理をする時に味噌汁を作ったのだが「豆腐が要るね」などと笑い合っていたのを思い出して手に取ったのである。だが、木綿か絹か彼には分からなかった。
「武志、来ないのか?」
山上が尋ねた。
「行けたら行くよ」
武志は振り返りもせずに2人に告げると買い物を続けた。2人は「じゃあな、きっと来いよ。楽しめるぜ」と言って離れて行く。
武志は必要と思われる物を全て籠の中に入れた。レジへ行ったが店員はいなくてレジの電源すらも入っていない。
誰もいないレジに彼は1万円を置いて背負っていたリュックの中に食材を詰め込んでいった。彼が持ち帰ろうとしている食材はずいぶんな量になっていてとても重かった。帰る道を再び歩くには疲れるのは目に見えている。もう日が暮れだしていて夜になろうとしていた。
バスが出ていればそれを利用したのにバスはない。ショッピングセンターの外へ出ると山上と前島が車に乗って道路へ出て行くのが見えた。
武志は車の運転などした事がない。方法は両親の運転を見ているのである程度は分かる。だが、やろうと思わなかった。
すると出入り口の傍に座っていた高齢の男性が彼に話しかけて来た。
「お前さん、バスはないよ。タクシーもない。その重い荷物をどこへ持って行くんだ?」
「家まで」
「家ってどこだい?」
「ここから歩いて3時間ほどのところにある」
武志の答えに老人は笑った。
「お前さん、ここまで歩いて来たのか?」
「そうだよ」
「馬鹿だねえ、本当に馬鹿だねえ。みんなみたいに車を使っちまえばいいのに。歩いて3時間の所なんてあっという間に行けるさ。車を使ったらどうだい?」
武志は老人の提案に答えなかった。老人の言うようにそれは魅力的だった。この上ない魅力である。この肉体的にも精神的にも疲弊した現在に楓や薫の労いは良く効く薬となるだろう。だが、武志は車を使うのを拒否する自分を感じていた。もし今、この必要に感じているこの場でそれを使用するのを拒否するのは今後、二度と使えないようにも思えて来る。もう免許など必要な社会ではない。誰もが歳を忘れ、経験を失った社会で免許の発行など誰がするだろうか。
老人はにやにやと笑いながら武志の逡巡を眺めていた。まるで甘い飴を舐めるような恍惚とした表情で武志の機微を見ている。武志はそれがなにやら悔しかったし、気分が悪かった。
「さあ、車はいくらでも転がってる。どうする?」と老人が尋ねる前に武志はきっと睨みつけると足早にショッピングセンターの敷地を出て行った。その後ろで老人は声を殺して笑っている。
行く道で武志は小走りを交えてやって来たが帰り道ではそれが出来そうにもない。疲れと背負った重荷が彼の歩みを遅らせているのをまじまじと感じていた。きっと今日中に帰る事は出来ないだろう。
武志は野宿する覚悟を決めた。歩けるところまでは歩こうと決心すると彼の足は元気をいくらか取り戻したのを感じた。
夜がどんどん更けていく。武志が歩く夜はこれまでの夜よりも一層色が濃いように思われた。浮かぶ月は満月に近いがまだ完全な円ではない。
もう歩くのが厳しくなって倒れ込みそうになっているのをなんとか堪えていると武志は一店の花屋に灯りが点いているのを見つけた。
特に花に興味があったわけでもないのに武志はその店に入った。色とりどりの鮮やかな花が咲いている。
「いらっしゃいませ」
入店にかけられた声に武志は驚いてそちらを見た。
ひとりの女性がカウンターに頬杖をして武志を見ている。
「こんばんは」
武志は思わず普段通りの挨拶をしていた。
「こんばんは。ここは花屋よ」
言われて初めて気が付いたように武志は並んだ花を見た。それに疲れを癒された気になって気を取り戻すと武志は背負っていた重いリュックを下ろして花を見ている。
花屋の女性は中年の女性だった。見た目はそうだが中身までは分からない。武志は相手が自分をどう思っているのか判断しかねるままに花を見ていた。
「リュック、重そうだね」
その女性の声はとても綺麗だった。透き通るような声でこの小さな店内に心地よく響いている。
「はい、とても重いです」
武志が答えると女性はにこりと笑った。
「休んでいきなよ。花でも見てさ。お茶でも出そうか?」
「いえ、大丈夫です」
「いいよ、遠慮しなくて。私も何か飲みたい気分だし」
そう言うと女性は奥へ引っ込んで程なくして2つのコップに麦茶を注いで戻って来た。
武志はそれを受け取ると一息に半分ほどを飲んでしまった。
時刻を確認すると午後9時になろうとしている。武志はスマホを取り出して楓に電話した。
今日中には帰れそうにもないと告げると楓は心底から心配している声で「気を付けてね」と繰り返して言った。
電話を終えると武志は花屋の女性に向き直った。
「花屋ってこんなに遅くまでやってるんですね」
「こんな時だからね。なんか色々と変でさ。まるで夢なんか見てるみたい」
女性が言うのに武志は笑ってしまった。
「あなた、名前は? 私は木戸育美。美を育てるって花屋に相応しい名前だと思わない?」
「そうですね。俺は倉敷武志って言います」
「何歳なの?」
木戸が尋ねるのに武志は迷った。真実通りに話すべきだろうがどうしたらいいか分からない。
武志はありのままに答えるしかないと思って正直に答えた。
「元は高校2年生の17歳です」
「ふうん、花の高校生だったのにねえ。私はさ、39歳だよ」
「そうですか」
見た目と年齢が合致していると武志は思った。
「あ、今、見た目通りだと思ったでしょ?」
「はい、すいません」
「別にいいよ。私もそう思ったもん。周りは若返ったり、老いたり、してるのに私だけは変わってないのって変な感じなんだよね。て言っても変わっちゃった武志君には分からないか」
笑って言う木戸を前に武志は理解できるような気になっている自分を感じた。というのも彼はこの変化の中にあって変わりゆく価値観の中で変えまいと頑なに我を張って来たのである。
武志は見た目が変わっていないという木戸を見て中身も変わっていないのだろうと思った。
「花、見なよ。こんな時にもしっかりと咲いていてくれる、可変だけど不変の自然って偉大だよねえ。大きい物に寄り添うと安心するじゃん」
「はい」
武志は初めて花を愛でる気持ちが分かった気がした。
一息つくと武志はうとうととする眠気を感じだしていた。こくりこくりと首が弾んでしまう。木戸はくすりと笑うと傍に置いていた本を手に取って読み始めた。
それから武志は夜の記憶がない。心地よい花の香りに誘われて彼は眠りへと落ちていった。
朝、武志は目を覚ますと花屋の玄関はシャッターが下りていて閉じられていた。武志は閉じ込められたと思ったが木戸のいたカウンターの上にメモが残されているのを見つけた。
[起きて外に出たかったら呼び鈴を鳴らしてね]
木戸の言う呼び鈴はメモ用紙の文鎮となっている。武志は時計を見て午前6時30分だと分かると7時まで待つ事にした。
彼は並んでいる花を見てお土産に買って行っても良いだろうと考えている。きっと楓や薫も喜んでくれる。
7時になったので武志は呼び鈴を鳴らした。するとぼさぼさの頭で化粧もしていない木戸が出て来た。
「おはよう。帰るの?」
「おはようございます。帰ります。本当にありがとうございました」
「うん、使ってない自転車あるからあげるよ。使って帰ったら?」
思わぬ提案に武志は唖然とすると断りを入れる前から木戸が表玄関のシャッターを上げた。
「もうそろそろ開店しようと思ってたところだったしね。ところで花はどうだった?」
「とても綺麗です。本当に」
「うんうん」
武志はにっこりと笑う彼女へと言った。
「お土産に買って行こうと思うんです」
「へえ、若いのに粋だねえ。いいよ、好きなの持って行きなよ」
彼女がそう言うのに武志は戸惑った。彼は彼なりに支払いがあると思って勘定をしているが値段や価値が分からない。
「いいよ、昨日の夜に仕入れ先に電話したんだけど繋がらなくって仕事にならないし、来た客も君だけだからねえ。好きなだけ持って行きなよ。木戸フラワー始まって以来初めての大セールだね」
「でも、どれを持って行ったらいいのか分からないんです」
どれでもいいと言われると困ってしまう。多くの選択肢の中からいくつか選ぶからこそ伝わる言葉があるはずだった。
「誰に送るの?」
武志は迷った。送る相手なんて決まっている。
武志の沈黙にその送る相手がどんな人なのかを察した木戸は微笑むと答えを聞くまでもなく持ちきれないほどの花を束ねていく。武志はもう持ちきれないと断るが木戸が言うにはまだ足りないようだった。
「そのために自転車をあげるんだから持って行ってよね。花も誰かに見られた方が良いんだよ。だって、さっきも言ったけど昨日のお客さんは君だけなんだよ。花もそれだと悲しいじゃん。君の送りたい相手に十分に見せてあげて」
武志は全て木戸に任せる事にして支度を待った。リュックを背負い直すと昨日よりも軽くなって様にも感じられる。元気を取り戻した武志は早く宮島家へ帰って2人を安心させたいと思うようになった。
するとそうした想いを汲んだ木戸が開けた玄関から武志を呼んだ。
「武志君、準備できたよ」
呼ばれて行くと武志の目に飛び込んできたのは前に設置された籠にたんと詰め込まれた花束と座席の後方にある荷台にこれまたうんと置かれている花が見えた。まるで自転車の形をした庭園の如き装いに武志は面食らったが木戸はさも当然と言わんばかりの顔でいる。
「え、これは大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫でしょ」
武志は財布から1万円を抜き取ると木戸へ渡した。
「なにこれ?」
「代金です」
「要らないよ。もうこれが使われる事はないでしょ」
「ダメです。俺が納得できません。なんなら宿代でもいいです」
武志が言う事にポカンとして代金を受け取った木戸はその1万円を顔の前まで持ち上げるとそれをよくよく見て言った。
「それはまあ、なんというか律義ですこと」
木戸が代金を受け取ったので武志は自転車を漕ぎだした。
ペダルを漕いでいく。ふらつくがなんとか大丈夫だろう。武志はいくらか進んでから振り向いた。木戸が花屋の前で武志に手を振っている。武志もまた振り返した。ただそれだけで気分が良くなって武志は再びペダルを漕いでゆく。




