第76話『光の創め19---アーティ---』②
―――***―――
今すぐ殺せ。
身体中が、記憶が、本能が叫び続ける。
「レイディー!!」
マリサス=アーティは溢れんばかりに蓄えた魔力を全放出してその“決着”に放ち続けた。
天空の世界。
天候を支配する巨龍―――『明日の影』。
オレンジの魔力を纏っていた途方もなく巨大な身体は血の気の抜かれたように透明と化し、膨大な魔力は今、顔面に集約されている。
煌々と、そして燦然と輝くその巨龍の貌は今まさに、“世界に定義された最大値”を放出せんとしていた。
「レイディー!!」
無限に近しい魔力を有する『数千年にひとりの天才』は、あらん限りの魔力を込めて銀の魔術を放ち続ける。
しかしその銀の矢は、巨大な日輪に吸い込まれるように溶けて消えていった。
今。
目に見えているのは、巨大な龍の貌がオレンジに輝いているという事象でしかない。
直感的に“何か”が起こるという感覚は持てても、何が起こるか分かる者などいはしない。
通常であれば“高が魔物”のすることだ、マリスも起きてから対処しようとしていただろう。
だが“それ”を、マリスは知っている。
“プロミネンス”。
『明日の影』が間もなく放出するのは、数多の難敵を瞬時に滅ぼし、容易く物語を崩壊してみせた異次元の最強魔法である。
「っ―――、マリサス=アーティ!! 狙うなら身体だ!!」
マリスの隣、同じく天空に浮かぶ男が叫んだ。
マルド=サダル=ソーグも、マリスの様子から、あるいは『明日の影』から痛烈に漂う並々ならぬ危機感から、怒鳴り散らして遥か彼方と言える暗雲の“どこか”を指差す。
月輪属性、というより、“その他有象無象”の属性は、“全能”の日輪属性に対して不利となる。
ただでさえ魔術に対して強い耐性を持つ『明日の影』だ、日輪の力を集約した顔面に攻撃を仕掛けたところで焼け石に水であろう。
確かに狙うなら身体だ。
しかし、魔力を纏わなくなった『明日の影』の身体は、あれほど巨大だったというのに、暗雲の中透明となって蠢き、目視できぬどころか気配すら感じ取れない。
『明日の影』の真骨頂は、この秘匿性だったのだ。
マリスはパニックになりながらも、焼け石に水の魔術を放ち続ける。
「っ、っ、っ」
魔術を必死に放ちながら、マリスは『明日の影』の貌に吸い寄せられそうな視線を強引に切り、マルドの言うように暗雲の動きを探り始めた。
落ち着け。
自分がしくじればすべて終わりだ。
隣のマルドは、『明日の影』の環境操作によって身体中が蝕まれて余裕が無い。
そして今決着を放たんとする『明日の影』だが、“まだ猶予がある”。
“それ”を察知した瞬間、驚愕と共に絶望したが、大丈夫。
自分が知っている“それ”より、“質が悪い”。
結果は同じなのだろうが、放出まで時間がかかっている―――“彼”なら、もう放てているだろう。
いや、それどころか、環境操作など難しいことはせず、最初から面倒だと言って適当に放ち、反動で怪我をして―――と、それは克服していたか。自分に助けを求める彼の声を、今でも覚えている。
そうした彼の一面も、自分は知っているのだ。
「……」
思い浮かべるべきでは無かった。思考が逸れたどころではない。
マリスは頭を振って暗雲を中止する。
身体中がガチガチに固まっていたような気がしたが妙に気が抜け、視界が晴れたような気がした。
「!」
空を俯瞰的に見ていると、雲の厚さの僅かな違いに気づけた。
天空を漂う暗雲の中、数か所、盛り上がりを見せている場所がある。
「マルドさ―――、っ」
「“それでいい、そこを撃て”!!」
マリスが反射的に視線を送ると、マルドは迷わず叫んできた。
顔面蒼白で、宙に浮いているだけでも精いっぱいの様子のマルドは、必死の形相で天空の“どこか”を睨んでいる。
マリスもマルドに声をかけながら気づいた。
雲の盛り上がりに『明日の影』の透明な身体があるとしても、天空の一点を共有するのは言葉や身振りだけでは不可能だ。
相談することなどそもそも無意味である。
ゆえに、仮にマルドがマリス以上に『明日の影』の身体の正確な位置を把握していたとしても、攻撃可能なマリス自身が気づいて魔術を放つ以外の選択肢は存在しない。
「レイディー!!」
ならば迅速な行動のみが正答となる。
ほとんど感覚的なもので、勘にも及ばぬ運でしかないが、マリスはあらん限りの魔力を込めて天空を撃った。
銀の凶弾は唸りを上げて、暗雲に吸い込まれていく。
「―――、」
銀の魔術は分厚い暗雲に吸い込まれていった。
そこに『明日の影』の身体はあったのか、そしてそもそも魔術攻撃が通用したのか、蠢く暗雲を睨みつけても結果はまるで分らない。
ゆえにマリスは、全神経を『明日の影』の顔面に向けて様子を探った。
問題ない。自分だけに許された強引なロジックがある。
“マリサス=アーティ”の攻撃を受けて動じない存在はこの世界に存在しないのだ。
散々顔を突き合わせた相手だ、直撃したかどうかくらいは感じ取れる。
「……!」
“決着”だけを遂行する、煌々と輝く顔面が、僅かに蠢いた。
“いた”。
「レディクロス!!」
察知した瞬間、マリスは杖で空間を斬り割いた。
その直後、斬り割かれた空間から無数の銀の矢が現出し、マリスが“当たり”を付けた位置すべてに射出される。
貌を蠢かせる『明日の影』を探り続け、直撃と不発を見抜いていると、姿の見えない『明日の影』の身体の形が見えてくる。
攻撃が当たった箇所、当たらなかった箇所を元に、『明日の影』が暗雲の中どのような“体勢”を取っているのかが分かってきた。
どうやら透明な身体でも魔術耐性が高いのは間違いない。
しかし、日輪の力を纏っていたときよりは遥かに脆い。
『明日の影』は今も暗雲の中身体を蠢かせているが、全貌が把握できれば逃がさぬように集中攻撃を浴びせられる。
死の匂いが蔓延する日輪の光を纏う『明日の影』の貌に、マリスは冷徹な瞳を向けた。
ここから先は競争だ。
プロミネンスが放たれる前に、暗雲の中に隠れる身体に魔術を撃ち続け、『明日の影』を討伐する。
「―――!?」
視野の悪い中必死に目を凝らし、雲の様子を探り続けていたマリスに不運が、いや、『明日の影』に“幸運”が訪れる。
周囲を飛び交う飛行種の魔物デオグラフが、いよいよ『明日の影』からただならぬ危険性を感じ取ったのか、暴れ始めた。
今までマリスたちを適宜襲来していたデオグラフの大群が、蔓延する死の匂いに混乱し、蜂の巣をつついたように無作為に飛び回る。
混乱の極みにあるデオグラフたちは、同族同士で衝突し合うほど暴走し、攻撃とも言えぬ突撃が規則性なくマリスたちに被害を及ぼした。
「っ―――」
意図して襲ってくるのであれば高が魔物だ、何をされても問題は無い。
いや、たとえ暴走した魔物の群れが襲ってきても問題は無い。
だが、今だけは駄目だ。
必死に目を凝らして『明日の影』の身体を探り続けている今、空中を暴れ回るデオグラフが雲の動きを乱雑に隠し、先程まで思い描けていた雲の中の龍の身体が読めなくなった。
「レイディー!!」
銀の一閃。
少しでも視野をと、壁に穴を開けるように放った魔術はデオグラフたちの身体を軽々しく貫くも、空けた視野の先の暗雲の中、龍の巨体は見つからない。
『明日の影』の環境操作に対抗するため、どうでもいいと後回しにしていたデオグラフたちに、ここにきて足を引っ張られている。
これは日輪属性の『明日の影』が意図せず引き寄せた“幸運”なのかもしれない。
数奇な運命を辿る日輪属性に対抗するには、目に見えるものだけでは届かない。
マリスは焦燥しながら必死に頭を働かせた。
今すぐデオグラフを全滅させることはできるが、『明日の影』の身体を探り続けるためにも、広範囲の魔術は常に暗雲に打ち続けなければならないのだ。
デオグラフの殲滅に回せば、次の瞬間、『明日の影』の身体は完全に雲の中に消える。
いやそもそも、デオグラフなど相手にしていたら流石に間に合わない。
『明日の影』の身体を捕捉し続け、攻撃し続けることだけが、全員が生き残れる唯一の方法なのだ。
少しでも遅れれば、“あれ”が、来る。
「っ、くっっっそ!!」
そこで、隣に飛ぶ、顔面蒼白な様子のマルドが、吠えた。
「レイリス!!」
「!」
マルドが長い杖を振ると、複数の銀の矢が天空を走った。
暴れ狂うデオグラフへ向かって走るそれは、しかし捉えず虚空に消える。
だが、複数のデオグラフの眼前を通り過ぎると、突如急降下して下へ落ちていった。
「レイリス!!」
再び怒鳴るような詠唱。
同じようにデオグラフを掠め、同じように下へ走る。
ほんの少しの間をおいて、マリスにも分かった。
“デオグラフたちの飛行体勢が整い始めている”。
上も下も分からぬように暴れ狂っていたデオグラフたちは、マルドの魔術の軌道を見せつけられ、自分たちがどこへ向かうべきかを諭されているようだった。
今この場において、デオグラフたちは敵ではない。
奴らも『明日の影』から発する死の匂いに混乱しているだけで、生きるために逃げようとしているだけである。
結果、デオグラフたちの行動は規則性を取り戻しつつあり、マリスの視界が、一気に広がった。
「レディクロス!!」
動揺と同時、マリスは『明日の影』への本格的な攻撃を再開した。
今度はマリスに幸運が訪れる。
ほとんど勘に近かったが、見失いかけた龍の身体が推測していた場所にあった。
あるいは降り注ぐ豪雨を超える銀の矢が、雲の中の『明日の影』に突き刺さり続ける。
デオグラフたちの対処に時間を取られた、一刻の猶予も無い。
だがマリスは魔術を射出しながら、今も顔面蒼白で、デオグラフたちの誘導を続けるマルドを盗み見た。
環境操作に蝕まれ続けていたマルド。
ほとんど余力無く、念のためにこの場にいたに過ぎないと思っていたこの男。
だが今彼は、暴れる飛行種の誘導などという神業に近い精度で魔術を連発している。
その精度と魔力があれば自分ひとり、“環境操作から身を守ることくらいはできていたはずだ”。
環境の対処の難易度は勿論高いが、例え何が起きているかを知らずとも、魔力さえあればあらゆる手段を用いて不可能を実現するのが月輪属性である。
死にかけてまで自分の近くにいたマルドは、“何故それをしなかったのか”。
彼がしたこと。
『明日の影』をマリスに任せ、デオグラフたちの相手を適当にしていた。
それはつまり―――“手を抜いていた”。
だが、死にかけながら、必死にマリスの視野を確保するマルドの横顔を見て、マリスは別の言葉を思いついた。
これは―――“温存”だ。
「レディクロス!!」
幾度となく無数の矢を放ち続ける。
“自分の命を削ってまで魔力を温存”していたマルドの思考は分からない。
何が起きているかは分からないが、自分のやることはただひとつ。
敵の殲滅である。
マリスは浮かんだ疑惑や疑問を置き去りに、形なき雲に銀の矢を放ち続けた。
――――――ゾ――――――
「!!」
その“最後”の悪寒は、マリスだからこそ感じ取れた。
そしてその瞬間、すべてを理解してしまう。
『明日の影』の討伐は―――失敗した。
「――――ゥゥゥググググググォォォォォォオオオオオオ―――ッッッ!!!!」
暗雲が、豪雨が、周囲を飛び交う魔物が、けたたましい方向によって蹴散らされる。
煌々と輝く『明日の影』の貌が今、臨界点に達した。
吹き飛ばされた暗雲は嘘のように四散し、マリスの頭上に、日輪そのものの光を帯びる貌だけの巨龍と、その頭上、唯一吹き飛ばされなかった、『明日の影』の貌ほどもある漆黒の闇が浮かんでいた。
その咆哮ひとつで豪雨を青天に塗り替えた『明日の影』は、空けた大顎を、そのまままっすぐに、地上へ向ける。
それは、恵をもたらすはずの日輪が、突如として人類に牙をむく瞬間だった。
「づ―――」
“もう間に合わないことが分かってしまった”。
しかしマリスは、自分の理解を放り捨て、晴天に溶けるような透明な身体へ魔術を放ち続けた。
雲の動きで推測すらできなくなった『明日の影』の身体への攻撃は、半分以上が虚空へ消える。
走馬灯すら思い浮かべられない、幾度となく見たその“決着”。
しかし、死地にあっても、“何かをする”ことは、身体に染みついている。
それは最早、現実逃避に近いのかもしれなかった。
―――ゴォッ!!
そして。
地上でも、“何かをした”者がいた。
「なっ―――」
奇跡としか言えない事態が起こった。
突如大気を震撼させた轟音。
今まさに決着がもたらされようとしたその瞬間、貌だけが輝く『明日の影』が、顎の下から、“膨大なライトグリーンの砲撃によって弾き上げられた”。
マリサス=アーティの魔術を浴びても微動だにしなかった強固な魔術耐性を持つ『明日の影』が砲撃に怯み、ほんの僅か、集約していた魔力が乱れる。
何が。
理解よりも早くマリスは魔術の射出を繰り出し続ける。
地上。木曜属性。膨大な魔力。
頭に浮かぶ断片的なパーツはすぐにまとまりそうになったが、その僅かな労力ですら惜しい。
砲撃は先ほどの一度切りで続いてはこないようだ。
『明日の影』は怯みながらもまた改めて魔力を集約し始めた。
結局やることは、『明日の影』とのスピード勝負。
死期が遅れただけになってしまうかどうかは、自分にかかっている。
「!」
そこでまた、自分にとっての本当の幸運を察知した。
“いや”。
先程の砲撃もそうだ。降って湧いた運ではない。
何かをし続けるからこそ、“正答”の機会を得るだけなのだ。
「マリーーーッッッ!!」
―――腹の底から出した声は、乾いた大気に響き渡った。
エリサス=アーティは、天空に最愛の妹を見つけ、高ぶる感情そのままに叫んだ。
暗雲と豪雨。青天への変貌。日輪のような巨龍の貌。唸りを上げて空を走った巨砲。
妹はいつからこんな狂った空間で、あんな化け物の相手をしていたのか。
あらゆる災厄を凝縮したような光景に、より一層、気が荒ぶる。
「“無視でいい”!! 最優先で『明日の影』の排除だ!!」
地上から上がってきたばかりの自分たちは混乱の極みだ。
エリーの叫びを皮切りに、人知を超えた異常を立て続けに見せつけられた自分たちの混乱が表面化する直前、イオリは律するように叫んだ。
感情に任せてまた彼女の負担を増やしてしまったのかもしれない。
イオリの召喚獣での空路も虫のように暴れるデオグラフたちが群がり、視野の確認もままならない。
しかし不規則なデオグラフの妨害を、イオリは読んでいたかのように掻い潜り、絡まった糸をほどくように密集地帯から抜け出してみせた。
主に自分たちのせいで後方支援に回ることが多いイオリだが、前線に立っても“異常者”だ。
常人では理解不能なイレギュラーにも規則性をその場で見つけ出し、恐ろしく合理的に敵を“攻略”してみせる。
まさに彼女はエリーの理想の体現者。目の前の彼女の背中は遠く、しかし大きく見えた。
そしてそんな彼女は、『明日の影』を優先せよと叫んだ。
彼女の言葉はすべて正しい。
誰の目にも明らかに異常に映る貌だけの巨龍だが、それ以上の危機を覚える、それが放たんとしている“何か”の悪寒が感覚的なものだけではないと確信できた。
浮足立つミツルギ=サクラは動揺したまま側面から暴れて突撃してくるデオグラフを漏れなく斬り割く。
どのような状態でも確定した戦果を挙げる彼女は、疲れ切っているであろうに宙を足場にしてまで大暴れし、デオグラフを一切近づけさせない。
そして別の側面、カタリナ=クーオンにも漏れはない。
イオリのような読みに近いが、精度の高い予想で中期的な流れを読むイオリと異なり、カタリナのそれは超短期的な読みだ。
エリーが認識さえしていなかった死角のデオグラフだろうが、接近してくればそれしかないという立ち回りで余裕をもって首を撥ねてみせる。
イオリが正答のルートを通り、サクもカタリナが共に刀と射程の短い武具を使用しながらも一切の打ち漏らしなく妨害をはねのけ、召喚獣の上は、まるで地獄のような外界から切り離された天国だった。
これだけお膳立てされたのだ。
大人しくイオリの背後に座っていたエリーはまっすぐに、『明日の影』、いや、その頭上に浮かぶ漆黒の煙を睨んだ。
イオリは『明日の影』を最優先で排除せよと言った。
よく分かった。
「……っし」
エリーは拳を握り締める。
“ごと”でも問題は無いということだ。
いよいよデオグラフの密集地帯を抜けると、乾いた大気と澄んだ空気が身体中の湿気を吹き飛ばしたような爽快感を覚えた。
煌々とした偽りの太陽の光を浴びた天空の世界は、しかしその高度から外気は低い。
だが、身体の中は、燃えているように熱かった。
僅か離れた先、先程見つけた妹が、デオグラフの別の密集地帯の中にいる。しかし“その程度”のことなど気にしていられないとばかりに、懸命に、天空に向けて魔術を放出し続けていた。
今までどれほど危険な目に遭っていたのか。
大丈夫。今お姉ちゃんが何とかしてあげる。
「イオリン。迂回して、あの龍の首へ向かえる?」
まっすぐに日輪そのものに突撃している中、カタリナが空の“どこか”を指差した。
指を頼りに視線を向けても、澄み渡った空が広がっているに過ぎない。
彼女の氷のような瞳が捉えているのは何か、エリーには分からなかった。
「カタリナさん、何を?」
「? ほらあそこ、透明な身体が右の方にぐるってとぐろを巻いてるからあっちに……、……見えない?」
冷徹な表情のまま、要領の得ない、気の抜けた言葉が出てきた。
カタリナは、思い出したように表情を柔らかくする。
意識しなければ表情と内面が一致しないらしいが、その作った表情の中にも、僅かな動揺と悲哀が感じ取れた。
『明日の影』は貌だけになったわけではなく、身体を透明にしているのだろうか。
注視してようやく僅かな存在の気配を感じ取れる程度の身体は、カタリナにとって当たり前に見えるものらしい。
「……ごめん」
カタリナは全員見えていると思っていたようだ。
自分にとっての当り前は、他者にとってはそうではない。
カタリナは自らを窘めるように小さく呟き、仕切り直すように首を振った。
そしてまた“どこか”をまっすぐに見据える。
「あの龍をすぐに倒すんでしょう。あんな薄い身体なら、斬れる」
だが。
まともに視認できる相手ではない。
見えたところで、武具でどうこうできる相手とは思えない。
直感的にそう思うも、超人の域に在る者の言葉でもある。
その真贋は、誰にも分からない。
「―――迂回はしない!!」
そこで、イオリが叫んだ。
びくりとしてイオリを見ると、彼女の視線は、『明日の影』ではなく、その頭上に浮かぶ“魔門”へ向いていた。
「『明日の影』の頭上をまっすぐ進む。“好きに降りてくれ”!! サクラ!!」
「! 了解した!!」
それだけ叫んだイオリの言葉の意味が、遅れてエリーにも分かった。
一刻も早く撃破する必要のある『明日の影』。
だが、“同じく最優先で撃破しなければならないものがある”。
この異次元の怪物を呼び出した“魔門”だ。
『明日の影』が撃破されれば、魔門はまた同格、あるいはそれ以上の怪物を召喚しかねない。
いや、今にもまた新たな“何か”をしようとしているかもしれない。
流石に気が大きくなり過ぎていたようだ。
魔門は巨龍の頭上にあるように見えるが、寄れば寄るほど離れている。同時に撃破することは物理的に不可能だ。
二手に分かれる必要がある。
そしてそれが唯一可能なポイントは、『明日の影』と魔門の間、巨龍の頭上のみだ。
頭の上に落とせば、身体が見えるらしいカタリナならば透明な首の位置を容易く目指せる。
そしてサクがいれば、空中でも“移動”ができる。
「カタリナさん!! 合図を頼む、私も降りる!! “空を走るぞ”!!」
「ぅ、ん、わ、分かった!!」
召喚獣の上でサクがカタリナの元へ近寄り、カタリナは動揺したように口ごもり、そのまま腰を落として刀を構える。
隣のサクを意識しているようだが、それでも美しい構えだった。
「いよいよだ!!」
高速で移動する天空の世界。
煌々とした日輪のような龍の巨顔が眼前に浮かぶ。
これほど巨大で、これほどの輝きを持つのに、熱も、冷気も、ぞっとするほど何も感じない。
透明な身体を持つ、秘匿性に富んでいる『明日の影』。
物理的に存在しえない太陽の近くは、自らの常識をバラバラにされるような異次元だった。
「さてエリサス、僕らがやることはシンプルだ―――魔門を撃破する」
エリーが機械的に身体を動かしてイオリの背中に近寄ると、そんな空間でも、彼女は冷静な声色を出した。
狂ったように暴れる魔物、貌だけの巨龍、ライトグリーンの砲撃と、この場所へ至るだけでも様々な異常が起きた。
そして、空を走れるサク、天空の透明な存在が見えるカタリナという異常者。
しかし彼女はそれらを即座に取捨選択して自らの計画に加え、最適な行動を取るのだ。
気づけば考えることはすべて消え、残るはごく単純なことだけになっている。
いつものことだった。
周囲が光に包まれる。
「行くよ、サッキュン!!」
「! 私が先行する!! 指示を頼む!!」
エリーには最早何も見えない。
すべてが煌々と輝く『明日の影』の光の中、同乗者のふたりのかすかな影が光の中に呑まれていった。召喚獣から飛び降りたらしい。
こんな状況でどうやって巨龍の急所へ向かうのか分からないが、それぞれが自分のやるべきことへ向かっていくのだ、気にしている暇はない。
ふっと周囲が漆黒に染まった。
エリーとイオリが向かう先、巨龍のさらに上、初めてまともに視認した『名前のない荒野』の魔門は、空一杯に広がる、天空の汚れそのものだった。
中央は空を喰らうかのように渦を巻き、『明日の影』の日輪の光すら飲み込むように蠢いている。
形は分からないが、中央が―――“どこを殴ればいいか”が分かればそれでいい。
別の“何か”を召喚しようとしているのかもしれないが、“今さら遅い”。
自分さえしくじらなければ、イオリはもう詰ませている。
「……」
エリーは口元を結んだ。
本当に集中力が切れているのかもしれない。
魔門“なんか”より、すべての状況を整えてみせた目の前の最大の“敵”に、激しい劣等感を覚える。
ああ駄目だ、抑えられない。
「あたしも、“負けませんから”……!!」
「―――、」
無駄口はここまでだ。
まっすぐに、魔門の中央を睨んだ。
巨大な召喚獣ごとごっそりと漆黒に包まれる中、潰れるほど強く握った拳はスカーレットの光を帯び、一筋の閃光が闇の中を走る。
ここまでお膳立てされて、やらないわけにはいかない。
「―――、」
“この魔法”の正体は、アラスール=デミオンに教えてもらった。
放てば必ず破壊をもたらす―――“確定破壊”。
しかし、結果を先に得るために、“必要だったはずの対価”は後払いとなる。
それが魔力で補えるのであれば何も変わらないが、不足があれば“命すら取り立てられてしまう”。
不足の定義すら誰にも分からない。
“そういうもの”としか言えない。ゆえに、“魔法”。
まともな神経で、未知の存在に放つ馬鹿はどこにもいない。
世の中は知らないことだらけだ。
『最古の蛇』に『明日の影』、『剣』のバルダ=ウェズ、そしてそれらを召喚したと思われる“魔門”。
今この場で起こっていることですら、エリーが理解できる領域を超えている。
もしかしたら“それ以上”の何かも起こっているかもしれない。
だがとにかく、負けるわけにはいかないのだ。
高速で上昇する召喚獣の背。
ぐんぐんと迫る、魔門の渦。
周囲の闇は、鬱陶しい負の感覚となってまとわりつく。
エリーは漆黒を払うように、拳をスカーレットの魔力を込めた。
「スカーレッド―――」
命を対価にしかねない禁断の魔法。
強い恐怖を感じるし、死んでもただの自業自得の馬鹿でしかない。
だが胸の内、沸き上がる衝動が、自分で制御できない。
魔門が、強く蠢く。
東の大陸アイルークで見たよりもずっと巨大で、ずっと深い未知の存在が、また“何か”をしようとしている。
だが、関係ない。やることはシンプルだ。
魔門を、破壊する。
それに、こんなところで死ぬ気もない。
要するに、魔門より自分が強ければ何も問題ない。
魔門ごときに、この感情の暴走は止められない。
「―――ガース!!」
エリーが拳を放った瞬間、様々な事態が発生した。
眼下、サクとカタリナが魔法に集中していた『明日の影』の首を斬り付け、今まさに決着を放とうとしていた巨龍に致命を負わせた。
合わせるように、膨大なマリスの銀の光が龍の貌を包み、戦闘不能の爆発を封殺した。
そしてその龍の頭上、広く展開していた魔門の闇がスカーレット一色に染まり、次第に朝焼けのように消えていった。
「―――、―――、―――、」
そのすべてを、エリーは認識できなかった。
目は、開いているのに何も見えない。
音も、気配も、外界から自分が隔絶されたように何も感じない。
分かっているのは、目の前の“何か”が、自らの拳で破壊されたことだけである。
ごっそりと、内臓が削り取られた感覚がした。
脳が圧縮されて呼吸が止まる。
ツンと冷えた鼻の奥に、妙に懐かしさを覚える、“ここではないどこか”の匂いを強く感じた。
それが魔力を根こそぎ後払いすることになった反動なのか、命を削られたせいなのかは分からない。
イオリの召喚獣の上、上も下も、立っているか倒れ込んでいるかも分からぬエリーは、身体中が、意識が、粉々になったとすら思えた。
だが。
痛みとも悪寒とも表現できない喪失感の中、エリーは、身体中に力を込め続けた。
ほんの少しだけ、自分の形が戻ってくる。
一発放って倒れ込んで、あとは任せる。
そんなみっともないことはできない。仕返しとばかりにあいつに笑われる。
思い浮かんだ記憶が、自分のものかどうかすら分からない。
だが、前後不覚になりながら、ぼんやりと、自分がまだ立てていることに気づいた。
目の前で、誰かが身体を支えてくれていることに気づくと、“ここではないどこか”の気配が急速に引いていく。
粉々になった身体がようやく自分だけのものでまとまると、目の前には必死の表情のイオリと、嘘のように悪夢が消え去った晴天があった。
自分の形を取り戻したエリーの胸の奥、依然として燃える感情が暴発する。
自分は、やり遂げたのだ。
「―――ぅぅぅうらぁぁぁああああああーーーっ!!!!」
天高く、晴天に勝鬨が響く。
魔門破壊は、ここに決着を見せた。
「っ―――」
―――その瞬間、マルド=サダル=ソーグは“死を覚悟した”。
決着を放たんとしていた『明日の影』の撃破と処理。
魔門破壊の完遂。
他の“異常”の状態は分からないが、魔門が消えればどの道消失するであろう。
それぞれが自分の力を余すことなく発揮し、不可能が乱立した『名前のない荒野』の魔門破壊は、今ここに決着した。
“ゆえに詰む”。
マルドの思考は、確定した未来に辿り着いていた。
この瞬間に“マリサス=アーティが死亡し”、『明日の影』の環境操作によって狂いに狂ったこの辺りは、属性柄耐性のあるスライクでさえ生き残れるかどうかの死地と化す。
魔力をあと少しだけでも残せれば、自分が“身代わり”になる手段が残っていたのに、最早移動もままならない。
「っ……、っ……、……。……?」
「終わったっすね。……マルドさん?」
歯を食いしばっていると、目の前に、半分の眼の少女が浮いている。
不安定な自分と違い、完全に空中で静止して見せる彼女の表情は、魔門破壊の完遂に高揚していた。
「辛そうっすけど……、大丈夫っすか?」
「……。…………。あ、ああ。問題ない。さっきも言ったけど、俺じゃなくて事後処理の方に集中してくれ」
「? 了解っす。……ええと、お疲れさまでした」
マリスは訝しみながらも、言った通り周囲の環境を安定させつつ姉の方へ飛んでいく。
マルドは自分がどういう表情を浮かべて居るか分からなかった。
これ以上空にいるのは限界だ。
自分の思考に無かったハッピーエンドに辿り着き、マルドは困惑しながらゆっくりと下降する。
自分の思考がまだ至っていないのか。
だが、どれだけ考えても、“やるならあの決着の瞬間だった”。
マルドは怯えた眼で、青天の空を見渡した。
「何が、起きている……?」
―――***―――
意識は混濁し、澄んでいた。
鉛のように重い身体には羽が生え、視界は歪み、焦点が合う。
耳の奥でリン、と鈴のような音が聞こえたかと思えば、自分以外が存在しないかのような静寂の中にいる。
宙を漂っているような浮遊感の中、靄がかかった意識を蠢かせると、目の前に、誰かがいることに気づいた。
周囲の景色ががらりと変わる。
気づけば木の床が軋む、古びた広い廊下の中にいた。
ここはどこかの洋館なのか。
踏み荒らされて波を打つ敷物が伸びる廊下の、両脇にぽつぽつと置かれる、壊れかけた灯たちだけが照らす暗がりの廊下を、その誰かは歩いていく。
漂うように後を追うと、その誰かは、廊下の先、ひとつの巨大な扉に手をかけた。
ギイ、と軋みを立てて扉が開かれる。
天井が透けるほど高いその部屋の中は、壁という壁に整然と本棚が積まれ、ぞっとするほどの書物で埋め尽くされていた。
気づけば、追っていたと思っていた誰かは、自分になっていた。
埃の匂いが漂う、巨大な書庫の中、また意識が混濁し始める。
これは―――すべての情報があると聞いて、自分が想像した姿が見えているだけ。
これは夢なのだろう、と、思った矢先、何かが思考を遮った。いや、“正答”に正した。
どういうことかと思うと、見上げても目視できない高さにある本棚のひとつが軋み、吐き出すように書物の雨を降らせてきた。
危機感は何故か覚えず、ばらばらと落ちてくる大量の書物をその身に浴びる。やはり痛みは無く、むしろ不快ではない感覚を覚えた。
一体何がと思いかけただけで、またどこかの本棚が軋みを上げる。
何かを思うだけで、必要な情報が落ちてくるらしい。
探す必要も、想像した形でしかない書物を読み込む必要も無く、過去も、現在も、未来も、あるいは自分がすべきことすら頭に直接届けられる。
心地よい。
ここはそういう空間だ。
極力何も思わないように、力を抜き、視線を落とすと、足元に散らばる、1冊の書物が目に入ってしまった。
目を引いてしまい、思わず拾い上げる。
書物の表紙に記されている題名は―――『初代七曜の魔術師』。
「―――スカーレット・ルーツ」
はっとして顔を上げると、巨大な書物の部屋は姿を消していた。
また周囲の景色が変わり、滝の音が騒々しい湖畔に変貌している。
そこでは、ヒダマリ=アキラという存在が、自らの剣を、呆れた様子で眺めていた。
気づくと、また自分がその人物になっている。
しかし先ほどよりもずっと収まりが良く、しがみつくように“自分”に留まった。
「……は」
最近、意識が途切れることが多い。
風邪でも引いているのかもしれないが、今日はいよいよ重症だ。
古びた洋館のような空間と、目の前の景色が混ざり合い、どちらの景色なのか分からなくなることがある。
『光の創め』の構成員。『盾』のルゴール=フィル。
人間など比較にもならない魔族を前に、今も一瞬意識が飛んだような気がした。
時間が進んでいることも多く、やっていることに整合が無いような状況に陥っているのだ。
しかしそれでも妙な心地よさを覚えるその感覚に、アキラ自身が身を任せてしまう。
スライク=キース=ガイロードは跳ね退けてみせているというのに。
「……」
また、自分の理外の何かが思考に纏わりつく。自分と自分では無い何かが混ざり合って、整合の取れない思考となってしまう。
集中力が無いのだろう。
そんな不完全なヒダマリ=アキラでは、いつ死んでもおかしくはない。
使えるものはすべて使わなければならない。
例えば、今自分の目の前にある、どこからどうやって目の前に現出させたのか分からない、毒々しい深いオレンジの光を帯びる剣もそうだ。
だが―――“馬鹿げている”。
こんな異常、ひとりの人間が操っていい領域に無い。
初代火曜の魔術師は、紛れもない化け物だ。
自分などとは比較にもならない。
「っ―――」
ゆっくりと視線を向けると、黄色い人形のような魔族が後ずさった。
『盾』のルゴール=フィル。
ヒダマリ=アキラでは撃破できない、堅牢な防御能力のこの魔族もまた、自分以上の怪物だ。
だが、脳を侵食するように広がる、“ここではないどこか”の気配が主観を奪い去り、事実だけが見えてくる。
口からは、自分のものではない何かの声が零れた。
「―――“やり過ぎだ”」
“獲物”に向かってアキラは突撃した。
意識はまどろみ、目の前に超常生物がいると言うのに、細切れに場面が変わる。
だが、身体は自然と動いた。
時折ノイズが入るように身体の動きに是正が入り、ほんの少し残った自分の存在が、向かう方向を多少定めている程度で、やるべきことがあらかじめ決まっているかのようだった。
「まあ待ちなよ、そうそう、君に聞きたいことがあるんだ」
ただの時間稼ぎ。
気が引かれそうになるアキラの思考は“正され”、ルゴールの言葉を無視して駆け続ける。
ルゴール=フィルの狙いは魔門による召喚移動だ。
“もう用済みだが”―――逃がすつもりはない。
「―――エトリーククオル!!」
ヒダマリ=アキラの接近に対し、ルゴールは即座に最大値の魔術を放出した。
駆けるアキラの眼前、黄色い人形の姿が巨大な柱に飲み込まれる。
柱に空いた窪みには膨大な魔力が滞留し、瞬きする間に周囲一帯に放出された。
「! ……!?」
反射的に魔術を切り替え、砲撃を斬り伏せようとした身体に、どさどさと対象の書物が降り注ぎ、またも“正される”。
そしてすべてが分かる。
確実に身を守れるであろう土曜の再現も、ルゴールを撃破できる確率が跳ね上がる殺意の再現も、いや、もしかしたら魔族に匹敵する身体能力を得る木曜の再現すら、“そもそも不要だ”。
やや誘導性を持った砲撃で周囲を破壊し尽くすこの柱の魔術は、ルゴールの焦りから、今まで以上に精度が低い。
“被弾しない道がある”。
アキラはその道を実直に駆けた。
「ぅ、」
ほんの僅かな差で身体が消し飛ぶ危険空間を駆け、アキラの口から嗚咽が漏れる。
爆音と巻き上がる泥で、視界すら閉ざされる中、アキラの身体はほとんど勝手に動いた。
確かに自分が、剣を構えて足を動かしている。だが、すべての行動に選択肢は無く、ただひとつの“正答”に集約される。
超常生物である魔族との戦闘であるのに、今起こっていることが、自分を外から見ているように他人事だった。
熱気漂う戦場の中、アキラの中の僅かな“自分”が蠢く。
最近頭の奥で感じ続けていた、浮かぶような、沈むような、しかし不快では無いこの感覚がいよいよ全身を包み始めた。
ヒダマリ=アキラが知り得ない“根源”を覗いたのが決定打だったのかもしれない。
一瞬の油断が死を招く魔族を前にして、今、巨大な書庫と戦場、そのどちらに自分がどこにいるか分からなくなった。
“ならば”と頭に直接、またどこかの本棚が蠢き、大量の書物がどさどさと降り注ぐ。
そして“それにすべて任せれば”、成功が“確定”するという忘我しかねない安堵を覚える。
書庫にいようが戦場にいようが、見る必要も、聞く必要も、感じる必要すらない。
自分が何を想おうとも、過程も結果も変わらない。
「……」
膨大な書物に押し潰され、飲み込まれるように下敷きになったちっぽけな自分が、ほんの僅かに、嫌だと思ってくれた。
「―――!!」
まるで今まで深い眠りについていたかのように、アキラは改めて目を見開いた。
嫌だと感じると、“ならば”とアキラの身体を解放する。
身体を押し潰していた大量の書物が一斉に鳥のように羽ばたき、アキラの元から去って元の本棚に戻っていく。
身体中に残骸が張り付いたまま、“ここではないどこか”のアキラは、よろよろ立ち上がった。
そう。
自分という存在を押し潰すようなこの感覚は、敵でも味方でもない。
思ったことの実現方法を機械的に提示し続けているに過ぎない。
意識を向けただけで暴走するように“正答”に即座に辿り着く、その超常的な感覚を、“接続した者”が受け止め切れていないだけだ。
押し潰していたいくらかの書物が千切れたのか、アキラは身体中に張り付く羽根のような紙くずを払い、もがくように立ち続けると、目の焦点が合ってきた。
気づけばまた戦場にいる。
すると目の前に、魔術の最大値を放出した直後のルゴール=フィルが、表情のない貌でアキラを睨んできていた。
自らの魔術の最大値を、ただ進んできただけで突破した目の前の存在に、絞り出すように“最後の言葉”を漏らす。
「バケ、モ、ノ……」
「だろうな。“流石にヒダマリ=アキラでも今のは出来ない”」
また意識が揺らいだらしい。自分の声色には違和感だけがあった。
アキラは今、自分という存在を守り切るので精いっぱいだった。
徐々に感じ始めた自分という存在は、ほんの少しの舵取りをしていたに過ぎない。
本当にルゴールは運がない。
ようやく自分を取り戻しかけたアキラは、結果として、難局を“正答”に任せ、最後だけを自分で行うことになる。
ルゴールからすれば卑怯にもほどがあるだろう。
そして、“この剣”もだ。
「っ―――」
「スカーレット・ルーツ」
ブン、と。
深いオレンジが纏う剣を振るうと、身じろぎしながら魔術で身体を覆ったルゴールが、金曜属性の魔族の強固な身体が、“両断された”。
断末魔すら上げられず、あっけなく、『盾』のルゴール=フィルは絶命する。
アキラの腕には、まるで空を切ったように衝撃すら無かった。
初代火曜の魔術師が操ったとされるその魔術、いや、魔法は、触れたものを“消失させる”と恐れられた。
太古。初代七曜の魔術師の戦地を巡った研究者たちは当初、部分的な“転移”を起こす魔法ではないかと推測したが、しかし斬撃の跡の入念な調査により、剣の軌道で“破壊し尽くされていた”ことを確認したという。
“絶対切断”。
“日輪属性の終点の魔法”を、己が思うまま生み出し操ったという初代火曜の魔術師。
その人物は、木の枝一本でも魔族すら殺害可能だったと言い伝えられている。
「……。…………。ここ、は……」
偶然か、あるいは“正答”がそうさせていたのか。
アキラは、今自分が立っている場所が、滝が落ちる断崖付近であることに気づいた。
バチバチと、黄色い魔力が迸るルゴールの残骸を、アキラは慌てて蹴り落とす。
海のような運河に落ちれば、ルゴールの身体が戦闘不能の爆発を起こしても、大した影響は出ないであろう。
滝に呑まれていくルゴールに意識を向けてしまい、また頭に大量の書物が降り注いだ。
憎むべき敵であるのに、ぞんざいな扱いをしたことに胸が痛む。
巨大な滝に落ち、もう目で追えないルゴールの身体を、崖の上から見下ろしながらアキラは目を細める。
アキラの口からまた、自分の意思と、何かが混ざり合った言葉が漏れた。
「……悪いな。元は“子供を見守っていただけなのに”」
大海のどこかで、『盾』のルゴール=フィルは、最後の爆発をしたのだろう。
雪崩落ちる滝の騒音で、アキラには何も聞こえなかった。
こうして、『盾』のルゴール=フィルは、討伐された。
「…………」
ぐらりと身体が揺れる。
また何かに意識を向けてしまったのか、自分という存在が押し潰される。
最早自分が誰かも分からなくなったアキラは、しかし、薄く笑った。
この感覚のお陰で、ヒダマリ=アキラは“正答”を引けたのだ。
そう。
この行動には、とある目的があった。
ここで『盾』のルゴール=フィルと交戦したのは、ヒダマリ=アキラが意識を向けたことを達成するための、“正答”が頭に降り注いだゆえである。
「“もう間に合わない”」
また自分とは違う声色が漏れた。
崖から離れ、ゆっくりと歩きながらアキラは呟く。
「外れを引いたわけじゃない。そりゃそうだ、精鋭揃いの魔門破壊と、魔族相手にひとりで向かったヒダマリ=アキラ。どちらが“チャンス”か選べと言われたら、誰だってそうする」
これは、“ヒダマリ=アキラでは気づけなかった”。
「魔門による召喚移動は時間がかかる……。“決着の瞬間が重なれば”、選ばざるを得なかっただろ」
アキラの想いと、情報を超越した全能が混ざり合い、この状況を生み出した。
この行動は、死闘に身を投じる彼女たちにアキラが出来る、些細な貢献なのだ。
「今から『名前のない荒野』へ向かっても、決着の瞬間にいなきゃ“お前”にとって意味がない。今頃諸々片付いて―――“必ず勝てるとは限らない状況になっている”」
『光の創め』が介入する事件。
それには、とある前提が存在する。してしまう。
その前提は、認識している者の“温存を強要する”。
目の前のことを全力で遂行するという、あるべき行動を誤りにしてしまう―――“物語の終点を引き裂く怪物”がいるのだ。
「そして俺は―――ノーミスクリアだ」
戦闘で荒れに荒れた湖畔の中央へ辿り着き、アキラは剣に握り潰すほど力を込める。
何かに意識を向け、書物に潰されることを繰り返していたアキラの元から、一斉に書物が羽ばたき去った。
敵でも味方でもないそれらは、確たる意思があれば拒絶できる。
だが今度は、アキラは自分自身の激情に呑まれかけていた。
一番許せないのは、“お前だ”。
アキラは剣を、天空へ向けて突き出した。
「……当てが外れて暇だろ。お前も来いよ―――『杖』のグログオン」
空のどこか。
不気味な気配が、ふっと消えた。
「……、…………ぅ、ぐ」
やはり引いた。必ず勝てる状況ではないと判断したらしい。
そう感じたほんの僅かな気の緩みに、アキラは剣を零して膝を付いた。
都度治していた甲斐もあり、目立った負傷は無く、魔力も残っている。
だが、力なく地べたに手を付くアキラは、眠りに落ちる直前のように、意識はあるのに身体が動かず、しかし不快ではない感覚を味わっていた。
場所や時系列を超越し、頭の“外”が“正答”を指し示す全能感。
自らが消え去るような悪寒すら押し潰しかねない膨大な書物は、アキラの五感を無意味なものだと言うように鈍らせる。
この感覚のお陰で、ここに来たのは事実だ。
いくら彼女たちの無事を願っても、ヒダマリ=アキラでは、この山に『盾』のルゴール=フィルがいることも知らず、戦闘を行うことに意味があると結び付けることもできない。
“正答”は告げた。
彼女たちの無事を願うヒダマリ=アキラがやるべきことは、“囮”だと。
『光の創め』の構成員―――『杖』のグログオン。
以前、物語の結末と同時、不意打ちでアキラの仲間を貫いた“クソ野郎”。
今回の魔門破壊でも、奴は存在を気とらせず、全員が死力を振り絞って辿り着く決着の瞬間を―――“必勝”の瞬間を待つつもりでいた。
スライク=キース=ガイロードもグログオンを警戒して行動していたであろう。魔門相手であろうが魔族相手であろうが、超常の力を持つあの怪物には、常に死力を尽くす以外の選択肢が存在する。
いつ温存に“飽きてしまうか”が問題だったが、計ったようなタイミングで痺れを切らしたようだ。
全能の感覚を跳ね退けているというのに、やはり正答を引いてくる。
「……ハ」
アキラは嗤う。
これで、魔門破壊は完遂した。
その先に待つ怪物は、いなかったことになったのだ。
マルド=サダル=ソーグ辺りは、決着後何も起きないことにかえって不気味がっているであろう。死力を尽くした終点を、『杖』のグログオンが狙わないことなどあり得ない。
彼もグログオンがそれ以上に好む“餌”で釣られたとは思わないだろう。
魔門破壊の依頼は終点を引き裂ける可能性は高いが、高い止まりだ。ドラクラスの莫大な予算によるバックアップがある上に精鋭揃いである。討てれば大きいが、必勝のタイミングは存在しないかもしれない。
小さい魚でも“確実性”を好むグログオンならば、こちらに来るのだ。
―――いや。
“最優先はヒダマリ=アキラの排除”なのだから、利益もこちらの方が大きい。
「……っ、……、ぅ」
またぐらりと身体が揺れる。
アキラの意識がほんの少しでも何かに向くと、やはり膨大な書物が降り注ぐようにアキラを押し潰す。
藻掻くと鳥のように去っていくが、羽根の紙くずが身体に張り付き、思考にも知り得ない何かが纏わりつく。
そして気を逸らそうと何か別のことに意識が向けば、また即座に書物が降り注ぐのだ。
まるで制御できない。
下手に役立ってしまったのも手伝っているのだろう、“正答”に頼りたくなる甘えが、アキラの思考を侵し続ける。
スライク=キース=ガイロードのように、強靭な精神力で“正答”の気配すら遮断し続けることは、アキラにはできなかった。
「……ふ、……ふぅ」
もう、流石に無理だ。このままでは“自分”が押し潰されて書物を払い除けることも出来なくなる。
アキラはしゃがみ込んだままズボンのポケットに手を突っ込み、身体を痙攣させながら“指輪”を取り出した。
“自業自得だ、グログオン”。
またアキラが知らない情報が思考を侵した。
連日奇妙な夢を、“何かの成り立ち”を見続けたのは、以前ドラクラスの祭りで拾ったこの指輪が“きっかけ”だ。
この指輪自体は、そこまで強力なものではない。
ここまで酷くなったのは、あくまで偶然。
たまたま、日輪属性のアキラという条件と噛み合って、“世界のもうひとつ”との確固たる“パス”をつないでしまっただけだ。
「!」
また知り得ない情報をもとに思考が侵されることを恐怖し、アキラは、指輪を、慌てて棄てた。
「―――、―――、―――、……、……」
荒れ果て、泥だらけの地面に棄てられた指輪がどこに行ったのかは分からない。
だが徐々に、“ここではないどこか”で、洋館の書庫の出口へ後ずさっているような感覚がした。
このまま落ち着いていれば、この部屋からも、このどこだか分からない洋館のような建物からも出られるかもしれない。
名残惜しいが、この感覚はヒダマリ=アキラには使いこなせない。いや、使いこなしてしまったら、“それはヒダマリ=アキラという存在ではなくなっている”。
別れを告げるべきであろう。
圧迫されていた頭が解放されるような安堵と、全能の気配から離れていく不安を同時に味わい、アキラは呻きながら座り込んだ。
熱に浮かされたように揺らぐ視界の向こう、散々破壊された崖の岩石で、潰れかけた洞穴の入口が僅かに見える。
魔物の作り方。日輪属性。気候の操り方。“定義型”。
物体としてはまともなものなど存在しない洞穴から、鼻の奥を突くほどの情報が溢れ出す。
「っ、ち……」
何かに意識を向けると、自分はまた部屋の中央へ向かい、書物に押し潰されていた。
慌てて何も考えないように、今度こそ慎重に扉へ向かっていく。
よりによって嫌なことを知らされたが、自分を取り戻しつつあるアキラの思考ではまるで理解できなかったのは幸いだった。
纏わりつく羽根のような紙くずは、払えばすべて消えていく。
「……」
ルゴールとの戦闘で吹き飛んだ泥の地面に座り込み、アキラは目を瞑った。
しばらくここで何も考えず、目を瞑って座り込んでいた方がいいかもしれない。
「…………」
ゆっくりと後ずさり、アキラはようやく巨大な書庫から出た。
重々しい扉を、思考を停止したまま閉じる。
扱い切れない部屋だというのに、出たら出たでどうしようもない不安さを覚えるも、それがヒダマリ=アキラだ。
ひんやりとした冷たい廊下で、アキラは大きく深呼吸をする。
ようやく、はっきりとヒダマリ=アキラを取り戻せたような気がした。
「いく、か。……そうだ、シャロッテたちは、……いっ、」
そして。
調子に乗るのもヒダマリ=アキラである。
収まったと思い立ち上がると、部屋の外にいたはずのアキラは、書庫の中央に戻されていた。
あくまでアキラの想像の世界だ、扉を閉めたところで意味は無い。
待っていたとばかりに、身体中に書物の雨が降り注ぐ。
あっという間に戦場と書庫の景色が混ざり合って眼前に広がる。
泥の地面にそのまままた膝を付き、深呼吸をしてまた動きを止めた。
対処の仕方は風邪と似たようなもの考えた方がいいのかもしれない。治ったと思った瞬間が一番安静にすべきなのだろう。
このウイルスのような感覚が完全に抜け切るまで、まともに動けない。
目を開いた瞬間、思わず視線を送った『盾』のルゴール=フィルを落とした崖が目に入り、またあらゆる情報が思考を侵す。
幸か不幸か、今のアキラには理解できないものばかりだったが、自分がルゴールの最期に向けて、何かを呟いたのをおぼろげに思い出してしまう。
『盾』のルゴール=フィル。
あの魔族は―――、“元は”。
「ぐっ」
何も考えていないとよく言われるが、何も考えないことがこれほどまでに難しいとは。中傷ではなく賛辞だったのかもしれない。
いつまで経っても書庫から出られない自分を嗤い、深く息をする。
何も考えないようにするから、余計なことを考えてしまうのかもしれない。
それならいっそと意識を希薄にし、俯瞰的に目の前の、戦場だか書庫だかをぼんやりと眺めた。
作戦が上手くいったからか、指輪を棄てたからか、書庫の景色は薄れていき、泥地に座り込む自分の景色が濃くなってくる。
滝の騒音や冷えた山の匂い、泥の上に座ったせいで泥まみれになった衣服の気持ち悪い感触を覚え、アキラはまた、大きく息をする。
これでまた調子に乗ったら元の木阿弥だ。まだ油断はできない。
意識を希薄にし、薄れていく書庫の景色を、しかしあえて視線を逸らさず、ぼんやりと見続ける。
そうしていると、ようやく、書庫の景色と共に、あの絶大な安堵を覚える全能の感覚が、完全に消え失せた。
「…………」
油断はできないが、もう動いてもいいだろうか。
慎重に立ち上がったアキラは、そこで冷や汗をかいていることに気づいた。
魔族と死闘を繰り広げたから、今さらになって怖くなって、と思うことにした。
そうやって自分を納得させて、忘れようとした。
「……は、まあ、俺じゃ何も分からないしな」
自分のものではない声色が出ることも恐れず、アキラは乾いた声を出す。
そう言って、何もなかったことに、しようとした。
だが、薄れゆく書庫をぼんやりと見ていたつもりだったアキラは、自分の視線が、正面の本棚に向き、思わず背表紙を見渡してしまっていたことに、気づいてしまった。
アキラが理解できない題名が並ぶ書物の中、たまたま読めてしまう文字があったことに、気づいてしまっていた。
あくまでアキラが想像したに過ぎない、“あの領域”の形。
その膨大な書物が詰まる書庫の中、意図せず読んでしまった背表紙のひとつには、こう記載されていた。
『魔族の作り方』
―――***―――
『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージは、その鋭い推察力を今回ばかりは呪った。
辿り着いた拠点のひとつ、管理本部の信号が届かないことが危惧された第7拠点の堰。
道中滅茶苦茶に上げた信号の反応がなかったことから想像が付いたが、予想通り無人だった。
建物内にかけられた小型の伝言掲示板には、警邏中と記載されたボードがぶら下がっている。
上げられた信号はこの拠点には届かず、しかしこの洪水にただならぬ危機感を覚えた魔導士たちは、現在暴れ狂う川の先の拠点へ向かったのだろう。
あるいは天候が荒れる前、拠点で何かトラブルが起き、拠点担当の魔導士か移動民族の方から助けを求められたのかもしれない。
大運河の枝葉の堰で、規模も小さく、今日の当番は確か2名。
シャロッテの記憶にある堰から引いた川の幅は数倍に膨張し、魔導士隊と共に通ったことのある拠点への川脇の道がほとんど飲み込まれていた。
この堰からさほど距離の無い拠点だ、すぐに戻ってくるつもりでふたりとも出かけ、拠点に辿り着いたはいいものの、天候が本格的に荒れ、そのまま立ち往生しているのかもしれない。
結果、状況の把握もままならない。
拠点へ向かった魔導士たちも流石に避難活動を開始しているであろうが、確認する必要がある。
上手くいっていれば御の字だが、天災の被害は油断できない。
魔導士たちも被害に遭い、今も救助を求めているかもしれないのだ。
「イスカ嬢!! この拠点に残れますか!?」
「え?」
「北部から信号が見えたら応答を!! 使う色や数は壁に紙が貼り付けられています!!」
手早く堰の支部を改めたシャロッテは外に飛び出て、手持ち無沙汰に自分たちが乗ってきた馬を撫でていたイスカ=ウェリッドに叫ぶように言った。
ぬかるむ大地をひた走り、ここまで自分たちを運んでくれた馬は、シャロッテの魔術の強化を受けていても悪路のせいで疲弊し切っているようで、屋根だけの馬小屋でじっとし、耳も動かない。
ここまで事故が無かっただけでも奇跡だ。
そしてここから先、流石に馬は使えない。
「人がいなかったの?」
「ええ!! 私はこれから拠点へ向かいます!! 樹海を通って迂回すれば合流できると思いますので!!」
豪雨の中怒鳴らなければ声が届かないシャロッテと異なり、イスカの声は妙に耳に届いた。
落ち着いているとも言えるが、しかしシャロッテからするとその緊張感の無さが僅かに癇に障る。
指示だけ言い放って駆け出そうとしたシャロッテは、そこで、ぐい、と腕を掴まれた。
「っ!」
想像以上に強い力によろめいたシャロッテは、強引に馬小屋の屋根の下に引きずられた。
自分の荒い息遣いが反響する中顔を上げると、目の前に、ぞっとするほど美しい青い瞳があった。
「待ちなさい。ここにいないのなら、避難活動をしているのでしょう。行ってどうする気なの」
「この場所の魔導士は数が少ないんです。人手不足になっているかもしれません」
「その“かも”には、こんな天候の中ひとりで樹海を進む価値があるの?」
イスカの声は、妙に耳に届いた。
シャロッテは言い返そうとし、しかし代わりに、大きく息を吸う。
彼女の青い瞳は、純粋に、シャロッテの身を案じてくれているように感じた。
自分は何をやろうとしていたのか。
胸をぎゅっと抱いて目を細める。
現在ネーシス大運河は未曽有の豪雨により増水し、そこから拠点まで引いた川は大洪水となって暴れ回っている。
その先の拠点がどうなるかなど、今となっては子供でも分かることだ。
各拠点、本部からの信号を受け避難活動に躍起になっているであろう。
そしてここの支部は、その信号を受け取れていない可能性が極めて高い。
だが、結果として、魔導士たちは拠点へ向かっているようだ。
この状況で、自己判断で避難活動ができないような魔導士はヨーテンガースにいない。
もしかしたら天候が荒れ出す前に行動したここの魔導士たちは、他の拠点よりもずっと早く避難を完了させているかもしれない。
シャロッテが確認すべきと思ったのは、その推測が本当に合っているか、である。
だが自分の推測は、基本的には外れない。
人手不足なのは事実だろうが、それはどの拠点も同じだ。
この緊急事態に、不謹慎ながら気が大きくなっていたのかもしれない。
自分が動けば、他の人間がやるよりもずっといい結果になる。
だが、避難活動がすでに開始されているのであれば、シャロッテの助力は過剰だ。
その過剰な効果のために、天候も魔物も危険な樹海をひとりで進む価値があるのかと聞かれれば、安全圏をこよなく愛するシャロッテは迷わず首を振る。
だからシャロッテは、気持ちを改めて落ち着けて、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「―――価値があります」
声を吐き出すと、雨に打たれて冷え切っていたシャロッテの胸にじんわりとしたものが生まれた気がした。
「ここの拠点、私が最初に訪れた場所なんです」
支離滅裂なことを言った。だから何だと言われれば、何でもない。
思うところがあるのは、この場所に限らない。
この場所だって、特別な何かがあるわけではない。
ただ、たまたまここの拠点を担当する移動民族が世事に明るくなく、『智の賢帝』を知らず、気さくに向かい入れられ、依頼で来たと言っても子供たちの相手をさせられて気分を害され、しかし舐められているわけでもなかったらしく、ただおおらかなだけのようで、そして、シャロッテの働きぶりに心から感謝してくれただけだ。
そんなこと、シャロッテ=ヴィンテージは世界中で幾度となく経験している。
そしてそれは、他の拠点もそうだ。
聡明なシャロッテの頭脳にかかれば、ここら一体の拠点の情報を、思い出を、鮮明に思い起こせる。
たとえドラクラスの引っ越しのために建てられた一時的な拠点だとしても、胸を張って言える。
これらの拠点は、シャロッテにとって、そして、それを組み立てた魔導士隊や魔術師隊、移動民族たちにとって、大切な宝物なのだ。
「魔導士隊が避難活動をしているかもしれない。行っても意味がないかもしれない。……そう言われても、はいそうですかと、じっとしていられません」
言えば言うほど、自分らしくない思考だと思った。
安全圏で、効率的に行動することが自分の心情である。あったはずだ。
だが、自分のあずかり知らぬところで、自分が大切に思ったものが、ひっそりと水没し、それを時間が経ってから誰かに聞くのは、何とももの悲しいことだと思ってしまうのだ。
「……分かったわ。私も行く」
「ぃえ、そ、……お願いします」
喉の奥から妙な音が漏れかけ、ぐっと飲み込んだ。
彼女をこの場所に残そうと思ったのは、本部との連携のために人を残すべきと考えたのもあるが、これ以上は巻き込めないと思ったからでもある。
ここに来るだけでも相当な悪路だったのだ。
救援反面、様子見たさ反面の中途半端な自分の意思に、これ以上彼女を危険に晒すのも躊躇われる。
だが、仮に事態が深刻なら人手は多いに越したことはないし、この場で連絡を待っていても本部からの救援は間に合わない。
危険だと言いかけたが、人のことを言える立場では無かった。
じっとシャロッテを見据える青い瞳に、シャロッテは口を結んで頷いた。
「樹海を通って迂回します。川には決して近づかないように!」
雨具のフードを被り、シャロッテとイスカは駆け出した。
轟々と暴れる川を尻目に、ここの拠点を担当した移動民族が提言していた、いざというときの避難経路をひた走る。
遠回りで、暗雲の樹海の中は照明具が必要なほど暗く、ほとんど獣道だが、自然のそれよりは踏み荒らされて走りやすく、盛り上がった丘を避けて土砂崩れなどの被害にも遭わない。
樹海での生活を営んでいるだけあって、移動民族たちのこうしたノウハウは頼りになる。
そうした英知と努力が、すべての拠点に詰まっているのだ。
そして、それらの結晶は、ただ一度の豪雨によって崩壊しかけている。
「? シャロッテ、なにか言ったかしら?」
「!」
シャロッテはぴたりと止まり、背後のイスカを手で制した。イスカも何かが聞こえたらしい。
豪雨と樹木で視界が塞がれる中、ほんの少し先に、魔力と思われる光が見えた。
魔物が嫌うらしいイスカと共にいても、突撃していけば避けてはくれないだろう。
照明を切り、木の影に身を隠し、慎重に様子を探ると、隣のイスカが、うっ、と嗚咽を漏らした。
「……! シャロッテさん!! それと……? ……いや、救援に来てくれたのか……!?」
現れたのはここの拠点を担当する魔導士だった。
ずぶ濡れの魔導士隊のマントは翻り、泥の塊に突っ込んだぼろきれのように乱れ、樹海を駆けずり回っていたと風貌が強く訴えているようだった。照明具を落としたのか、手にスカイブルーの魔力を纏って辺りを照らしていた彼は、息を切らせてシャロッテとイスカの隠れる木の下に駆け込んできた。
イスカがあるいは魔物が出たとき以上に警戒して距離を取っているのを尻目に、シャロッテは魔導士に詰め寄った。
「本部からの信号は見えましたか!? 避難命令です!! 開始していたんですよね!?」
予想通りであることを半ば祈って豪雨に負けないように叫ぶと、魔導士は食いしばり、しかし大きく息を吐いた。
「自己判断で避難は開始していました。現在も相方が誘導中です。多少の混乱は見えましたが、彼らもプロだ、空の様子で心構えをしていてくれた」
予想通り。魔導士隊の指示がなくとも、移動民族にも自然に対する知見がある。
ほ、と息を吐きかけたが、目の前の魔導士の焦燥した顔を見て、シャロッテは、今度は予想が外れることを願った。
「……何かトラブルが?」
「行方不明者が、ひとり」
さっと血の気が引いた。
「特徴は!?」
「背丈は私の腰当たり。最後に見たときには青い合羽を纏っていたそうです」
「なんですって?」
魔導士隊を警戒していた様子のイスカの声色が変わった。
子供がひとり、行方不明になっているとこの魔導士は言ったのだ。
3人同時に、思わず樹海を見渡す。分厚い雲が空を遮り、木の影は深い闇を蓄え何も見えない。辛うじて見える避難経路の獣道が、か細い命綱のように伸びていた。そこから逸れれば、深い闇の中に呑まれることになる。
「まさか樹海の中に?」
「分からないが、私もこの道を探していた。拠点からここまで叫びながら駆けてきたが……」
イスカと魔導士の慌てた様子を尻目に、シャロッテは考える。
居なくなったのは子供。だが、この拠点を担当している移動民族は、ヨーテンガースの中部、山岳地帯からやや北東辺りを主な活動範囲としている者たちだ。
あの辺りは盆地で、濃い霧が頻繁に発生し、日が僅かにでも傾けば、あっという間に深夜のように暗くなる。
彼らは比較的夜目が効き、暗闇には慣れているであろう。
だが、それにも限度はある。そもそも彼らの中で、早々に夜の備えを始める習慣が根付いているはずだ。
闇をそもそも避けるように行動する。そうした大人たちを見て育つ子供も、やはりそうなるのだ。
その一方で、天気は安定しており、天候に牙を剥かれたことはあまり無いであろう。シャロッテがこの拠点の避難活動を危惧したのはそうした理由もある。
となると、あまり考えたくないが。
「……堰へ戻りましょう」
「ああ。私も救援を上げようと思っていたところだ」
「ええ、そちらはお願いします。終わりましたら、再度樹海の捜索をお願いします」
「シャロッテ?」
思考を進めながら、シャロッテは一目散に駆け出した。
この非常時、どこも手いっぱいだ。この魔導士も分かっているであろうが、救援信号を上げてもすぐには救助の増援は来ない。
連絡は必須だが、一刻を争う。自分たちで探す必要がある。
シャロッテは思考を進めた。
仮に、行方不明の子供が樹海で迷子になっているとする。
その場合は、無視でいい。
心は痛むし、魔物に襲われるリスクもあるが、“まだマシ”だ。子供とはいえ移動民族、やり過ごす術はある程度習得しているであろう。
考えたくない可能性であり、致命的な問題になるのは、堰と拠点を結ぶもうひとつの道。いや、正規ルートである“川沿い”の道を通っていた場合だ。
不慣れな川の増水で、良くて身動きが取れなくなっているか、悪くてすでに呑まれているか。
呑まれている場合はもうどうしようもない。子供だろうが大人だろうが、暴走する激流を前に人間が出来ることなど何ひとつ無いのだ。
だがもしまだ生存してくれているのであれば、一刻を争う。
今も川幅は膨張している。
闇を蓄える樹海と、それすら飲み込みかねないほどの激流の狭間、子供が取り残されているとするならば、即座に救助しなければ間に合わない。下手をすれば不慣れな川の方には危機感を覚えてない可能性すらある。
「……っ、そちらはお願いします!!」
樹海を抜け、堰から引かれた川が目に入り、シャロッテは一瞬怯んだ。
活を入れるように魔導士隊に叫び、目の前の暴力的な増水を真正面から睨む。
先ほど見たばかりのはずなのに、1メートル近く川幅が広がり、その上で勢いを増しているように思えた。
海がそのままごっそりと流れ込んできているかのように、魔導士隊の男が駆け込んでいった堰の建物も軋みを上げ、今まさに決壊しようとしているようにさえ見える。
シャロッテは馬小屋の裏の倉庫へ駆け、蹴破らんばかりの勢いで扉を開いた。
「イスカ嬢、手伝ってください!! そちらの棚の水難救助服を出してください!!」
「え!?」
そう叫び、シャロッテは別の箱から丈夫な分厚いロープを数本取り出す。
あればあるだけいいが、運べる量には限りがある。
正気を疑うかのようなイスカの青い瞳をそのまま浴び、彼女が取り出した服を手早く身に付けた。
空気の入った着ぐるみのような服はずっしりと重く、目立つことだけを重視するデザインは気に入らないが、大切な命綱だ。
「シャロッテ、まさかとは思うけど、川を下る気?」
「入るつもりはありません。充分に距離を取って川沿いに樹海を進みます」
「樹海? 私には真っ黒な壁に見えるけど?」
拠点まで引かれたここの川は、高低と距離だけを優先して樹海のど真ん中を伐採した人工物だ。
その両脇、鬱蒼と生え茂る樹海が広がっている。
やっつけ仕事とは言えないが、シャロッテの腰ほどまで伸びた雑草に、蔦の巻き付いた樹木が密集し、特に悪天候になると先ほどの迂回ルートとは違って光が届かない。
川沿いの道は、日中歩いていても、まるで川が世界から切り取られたように見るほど開拓されていない。
そして今、暴れ狂う川はその闇をも侵していた。
自分は今から、魔力の明かりだけを頼りに、足元もおぼつかない真っ暗な樹海の中を川沿いに下っていくことになる。
「これ以上は……、いえ。私の後に続いてください。迂回ルートの方は魔導士隊に任せましょう」
じっとこちらを見る青い瞳が、止めても無駄だと教えてくれた。
イスカもいそいそと救助服を纏い、シャロッテを見ながら見よう見まねでロープを担ぐ。
川沿いの道はおよそ人が立ち入る空間では無かった。
自分の予想が外れていれば無駄に命を危険に晒すだけである。
だが、不毛なことになった方がいいこともあるのだ。これは自分たちにしか出来ないことだ。
魔導士隊も行方不明者を見捨てるつもりは無いだろうが、いるかもしれない程度の推測で暴れ狂う川の淵の、暗がりの樹海を進むことは出来ない。
「っ、……、こちらに!!」
いざ向かうと思ってみると、川沿いの道は、シャロッテが常日頃から忌避する危険な匂いが充満していた。
川からやや上り坂になる樹海まで登ると、眼前が黒一色で塗り潰される。
シャロッテが頭を働かせ十分に距離を取ったつもりの樹海の中は、すでに激流の一部と化し、足に纏わりつく雑草を蹴り千切って進もうものなら足を取られて横転しかねない。
地盤はある程度安定しているようだが、川に削られ土砂崩れでも起ころうものなら即死する。
シャロッテは魔力で明かりを灯し、一歩ごとに丈夫な木を握り締めて慎重に前へ進む。
魔物と出くわしてしまうことを危惧したが、ここまでの激流を前に何もできないのは人間も魔物も一緒だ。
こんな自然の猛威の中暗闇の樹海を突き進むようなことをしていないあたり、魔物の方がこの『智の賢帝』より賢いかもしれない。
「ぅ、……ぶっ、ぐ」
ほんの数歩進むだけで、口の中いっぱいに雨水が溜まる。
行儀悪く吐き出した唇は麻痺し、まともに呼吸ができている気がしない。手足が凍り付くような低温は、身体中の感覚を奪い去っていった。
横ぶりの雨に身体中を打たれ、いつ浸水した川に足を取られるか分からない暗闇を進みながら、シャロッテは暗闇の向こう、暴れ回る激流を必死に睨み続けた。
ほとんどまっすぐ拠点に伸びている川で、距離は短い。だが、唯一比較的大きく右にうねった地点があり、視野の悪さから魔導士隊の小屋が仮設されている。
川の下りから見て左、自分たちが進行する方にあり、やや小高い丘に建てられたその小屋は、距離感が狂わされる樹海の進行の目安であり、そして、シャロッテが目を付けている場所でもあった。
その小屋は、立てたはいいものの、拠点の規模が小さく、堰との距離も大して無いことからほとんど使われず、子供たちの遊び場になっていた覚えがある。
行方不明者というのは降って湧いて出るものではない。人間は魔物とは違う。混乱で我を忘れて暴れ回ることはあまりない。
例えば震災時、突如日常が切り取られるから発生するものであり、子供の場合、わざわざ向かうと言うほどでもない場所にいることがほとんどだ。
「!?」
常に重心を残しながらの移動の末、シャロッテは、ようやく小さな仮設小屋を視界に収めた。
ぞっとした。
川脇から見上げる位置にあったはずの魔導士隊の小屋は、増水で扉の高さまで激流にどっぷり浸っている。
小屋と言っても人間よりもずっと大きい。建物が、建設計画の模型のように水に侵されている光景に、改めて戦慄した。
「っ、ヴィティカル!!」
悪寒を振り払い、指を立てて突き出し、小屋の窓を狙って魔術を放った。
魔術だが、攻撃ではない。衝撃は豪雨の方がずっと強いであろう。
だが、光源にはなる。
威力の無い補助魔術はこういうときに役に立つ。
窓の外、カッとライトグリーンの光が四散した。
希少な木曜属性である自分の魔力色は目立つ。
顔面に直撃する横殴りの豪雨の中、シャロッテは目を凝らし続けた。
「! イスカ嬢!!手伝ってください!! そちらのロープを!」
「え!?」
シャロッテは叫び、即座に周囲の暗闇に目を凝らす。
浸水する樹海の中、根の太い種の樹木を探す。濁流が浸水する中、それでも力強く根付く大木をいくつか見つけ、持ってきたロープを即座に回した。
イスカにも持ってきてもらったロープをひったくるように奪い、張力に強い特殊な結び方をする。
「なに!? いたの!?」
「ええ!! 窓から見えました!!」
今にも飲み込まれそうな小屋の中、何かが蠢いたのを確かに見た。
魔物が迷い込んでいるならあのリアクションはしない。
行方不明者の子供だ。
大方この小屋に遊びに来ていたか雨宿りしていて、川の増水で扉が開かなくなって閉じ込められてしまったのだろう。
シャロッテは手早くロープを自分の身にも巻き付け、落ち着いて周囲を観察する。
小屋までは、樹海からは下り坂だ。足を滑らせれば身動きが取れなくなる。命綱があるとはいえ、確実性の高いルートを選ぶ必要があった。
豪雨で声も届かない小屋の確認のために魔術を使わざるを得なかったが、いるならいるでスピード勝負になる。
小屋の中の子供が異変を察知し、下手な行動を取る前に救い出さなければならない。
「イスカ嬢!! これを持って離さないでください!! 私が手を上げたら少しずつ力を抜いてあちらに歩いてください!! 私が小屋から出てきて手を上げたら、今度は引いてください!!」
「え!? 私そんなに力……、あれ?」
説明している暇はない。
いくつかの木を使った簡易的なリフトだ。女性でも力が不要な組み方をしている。
シャロッテは当たりを付けたルートを慎重に降りた。
緊急事態だが、焦ることはできない。
自分の安全が第一だ。そうすることで、他者を救える。
「……っ、っ、」
慎重に、重心を残しシャロッテは坂を下っていった。
雨に穿たれ、最早崖のような悪路を降りると、足を付けた地面はシャロッテの腰ほどまで浸水していた。
自分の計算に間違いは無いはずだが、激流の勢いが想像以上に強い。
身体を締め付けるこのロープがほどければ、あっという間に自分は流される。
「…………」
慎重に、前へ進む。
激流にのまれる経験など、完璧な危機察知能力を持ち、安全圏をこよなく愛するシャロッテには無縁のものだ。
“いや”。
低温の影響で、自分の頭脳にも影響が出ているのかもしれない。
ゆっくりと進み、右も左も分からなくなりかける豪雨と激流の中、シャロッテはおぼろげに思い出す。
つい最近、そんな危険な目に遭っているではないか。
それどころか、その難局を乗り切ったあと、それ以上の危険に立ち向かうことになった。
ドラクラス全体の問題になりかねなかった危険種の討伐は、今までシャロッテが近づきもしなかったであろう危険の、さらにその先の危険だ。
あのとき自分は、その危険域に足を踏み入れることになった。
理由は分からない。
“彼”が真摯に頼んだから。
だが、昨今患っている脳の錯覚のせいで危険に飛び込むほど自分は愚かでもない。
ドラクラスの危機だったから。
だが、冷たい言い方をすればあくまで他人。可能な限り協力はするが、自分の命を懸けようとは思わない。
あのときの自分が、そうしようと思ったから。
そんな曖昧な答えが、最もしっくりきた。
恋でもない。献身でもない。論理的な答えなど存在しない。
その力を振るって旅の魔術師を続けるだけで、十分幸福な人生を送れるというのに、魔王討伐を目指すというヒダマリ=アキラ。
彼と過ごし、彼を知り、ぼんやりと、もし彼と旅をしていたら自分の考えも変わるのではないかと思ったが、どうやら、手遅れだったのかもしれない。
ああ、なんだ。
自分はとっくに、立ち向かう側の存在になっていたのかもしれない。
だからこそ今、命懸けで行動している。
「聞こえますか!!」
合図を送ったイスカの対応も早かった。言われたことを守るのは向いているのかもしれない。
着実にロープを伸ばし、想定よりもずっと早く小屋に辿り着いたシャロッテは、窓から中を覗き込む。
すると、見知った子供がいた。
びくりと身を縮こませ、シャロッテの顔を見て、やや顔を輝かせる。
それなりに頑丈な小屋だ。周囲の惨状を、何故かドアが開かない程度だと思って中で過ごしていたらしい。
シャロッテは素早く窓を開け、水を吸って重い身体を蠢かせて中に入った。
ほ、っとするほどの暖気に包まれる。
マジックアイテムの空調付きの小屋の中は天国のように快適だが、いつ川に呑まれて地獄に変わるか分かったものではない。
「魔導士隊から避難命令が出ています。私に従ってください」
流石に移動民族は子供でも有事への理解は早かった。
泣きもせずに素直に直立してくれ、シャロッテはロープで自分の身体に結び付ける。激流でもほどけないだろう。
そしてシャロッテは、心を痛めた。
「……いい夢を。ロイズン」
背負った子供から短い声が漏れ、だらりと腕が下がる。
シャロッテが発動した“弱化付与”は、子供の意識を奪い去った。
主に溺れた者を助ける処置だが、救助対象者は、無事であるなら意識が無い方が望ましい。
背中で下手に暴れられたら命に関わる。
シャロッテの祈りが効いたのか、子供からは穏やかな寝息が聞こえ始めた。
「イスカ嬢!!」
行方不明を確保できたが、まだ安心はできない。
子供を背負い、窓から這い出て、イスカは手を上げて合図を送った。
言われたことを忠実に守っていたらしく、即座にロープが引かれる。
緊急事態ではあったが、この『智の賢帝』にとっては計画通りに行動するだけだ。
命懸けの行動で油断はできないが、自分の作業に漏れはない。自分と子供は無事にイスカの待つ樹海へ戻れる。
暖かな部屋から一変、凍えるような豪雨の地獄に戻ってきたが、シャロッテはほっと息を吐いた。
「そんなわけない……」
そこで。
シャロッテの視界に、最悪の光景が飛び込んできた。
川の上流、堰の方から、3本の赤い信号弾が同時に上がる。
自分の記憶違いを初めて願った。
あれは、例外中の例外。最終信号。
“堰の決壊を知らせる信号だった”。
「っ、」
やることは変わらない。変えられない。
重心を常に確保し、ゆっくりと、慎重に激流の中を前へ進む。
その亀のような動作は、極めて安全で、極めて遅い。
どれだけ時間が残っているのか。
今のが最初の信号ならまだ多少の時間はある。
だが、自分が小屋に入っていたときに外には気を配れなかった。手早く作業をしたつもりだが、手がかじかんでいて手間取ったような気もする。
すでに何度も上がっていたら、もう、時間は。
「っ、」
必ず重心を残し、安全を確保し、手を上げ、ロープが引かれ、そしてまた繰り返す。
その動作は、崩せない。下手を打てば堰の決壊よりも早く激流に吞み込まれる。
木曜属性の力を活かそうにも、所作が早くなることに意味は無い。ロープがボトルネックになる。
打てる手が何ひとつない。
死が目前に迫ってきているのに、道化のように、同じことを、淡々と繰り返すことしかできないのだ。
豪雨と激流に翻弄される中、それ以上の恐怖に、シャロッテの身体が冷え切っていった。
そして。
「―――っ、」
最悪の想像は、現実のものとなる。
激流と豪雨の中でも、ゴゴッ!! という水詰まりが解けたような轟音を耳が拾った。拾ってしまった。
慎重な動作の中、恐る恐る視線を向けると、地響きと共に、遠方の闇がごっそりと、巨大な悪魔に呑み込まれていく。
自分や子供、そして仮設された小屋など、その衝撃だけでバラバラになるほどの暴力的な激流が、唸りを上げて迫り来ていた。
災害時の想像。
人は、“自分が無事”な状況からものを考え始める。
それは当然だ。自分の意識がない状態を想像しても出来ることは無いのだから、自分が動ける状況からシミュレートをするのは合理的なのだ。
問題なのは、それが“自分なら無事”という思考にすり替わることなのである。
自分なら、負傷をしない。自分なら、窮地を脱せる。自分なら、他者を助けられる。
そうした思考は悪くは無い。だが、“行動が軽率になるのは悪である”。
完璧に計算し、石橋を叩いた安全策を遂行していれば、“必ずできる”。
そうした人間の思考や行動を、災害は魔法のように襲い尽くす。
「―――、」
調子に乗った、と。一瞬でも思ったシャロッテは、小さく首を振った。
思うべきではない。自分はやろうと思ったことをして、失敗しただけだ。
凍り付いた心は、しかし冷静に、後悔だらけだと訴えてくる。
いつもの通り、安全圏から、避難活動をして、諸々片付いたあと、犠牲者の“数”を聞き、大人しく胸を痛めていればよかったのだと。
「っ、」
シャロッテは唇を強く噛んで自分を戒めた。
後悔をしてしまったら、今も必死でシャロッテの背で安らかに眠るこの子供を、助けなければよかったと思ってしまいそうだった。
分相応に、自分のままでいれば、こんなことにはならなかった。
だがそれは、歯を食いしばっても考えてはならないことだ。
人助けを否定したいからではない。きっとこれは、それ以上に独善的な考えだ。
『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージは思う。
自分は頭脳明晰だ。安全圏をこよなく愛し、それでいて成果を出す能力を持っている。自分は特別で、どこへ行っても重宝される。
だが、他者とは違うと言われると気分はいいとはいえ、ありとあらゆることを知り尽くしているがゆえに、誰もが同じだと考えてもいた。
何故なら未来は誰にも分からない。
大局を見れば、やることなすこと、難易度の違いはあれど、賢人でも、愚者でも、それぞれの考えで行動し、何かの結果を得ることは変わらないのだ。
そして。
それが正しいかどうかは、結果だけが教えてくれる。
だから万人が、自分の日々を邁進できる。
どれほど計算高くとも、どれほど考慮が足りなくとも、誰にも分からない未来へ向かう自分が、何かを成すと信じ続けられるのだ。
「―――、」
シャロッテは歯を食いしばって、眼前の激流を睨んだ。
恐怖で閉じそうになる瞳に精いっぱい力を籠め、自分は正しかったと、強く思い込む。
そうでなければ、駄目なのだ。
今後悔をしてしまうことは、誰のものでもない、自分だけの人生を否定することになってしまう。
その瞬間まで決まらないから、日々を過ごせた。
シャロッテにとって、人の価値が決まるのは、今。
“最期の瞬間”だ。
「―――え、えいっ!!」
そこで、妙に通る声が聞こえた。
「ぎゃっ!?」
ドバンッ!! と。
豪雨と激流の騒音を吹き飛ばした爆音が、シャロッテの鼓膜を吹き飛ばした。
自分の心情に従っていたつもりが、しっかり目を閉じてしまっていたシャロッテは、突如足元を掬われて倒れ込む。
いや。激流に逆らって立っていた足元から、“一瞬で流れが消えた”せいだった。
どじゃっ、と沼と化した足元に頭から突っ込んだシャロッテは、パニックになりそうな自分を律し、即座に顔を上げた。
すると。
「シャッ、シャロッテ!! あっ、えっ、えい!! 大丈夫!? 早く逃げて!!」
樹海の方、慌てふためくイスカが何か怒鳴り声を上げている。
自分は激流の中、ロープを頼りに進んでいたはずだ。
だが、泥まみれの景色の向こう、自分の命綱が、頼りなく沼の地面に転ばされていた。
“川が、無い”。
「イスカ……、じょ、う……?」
爆音と衝撃で何も分からない。分からないが、今動く必要があることだけは分かった。
自分にかけるのは苦手だが、選り好みしている場合ではない。
「ヴィッ、ヴィティカル!!」
自分に強化付与を施し、シャロッテはロープの伸びる先に駆け出した。
ぬかるむ足場を木曜属性の力で駆け抜け、子供を背負ったままイスカの待つ樹海へ死に物狂いで駆け込む。
身体を跳び込ませたシャロッテは背負った子供に潰され、自分喉から漏れたぐえ、という醜い悲鳴が、他人事のように聞こえた
「っは、は……、はっ、はっ、はっっ」
上手く息が出来ない。片時も思考が止まらない自分の頭は、半分以上狂っていた。
今すぐにでもここから離れるべきと訴える理性がばらばらに千切れ、倒れ込んだままのシャロッテは、瞳を自分が駆け抜けた川へ向けた。
「―――、―――、―――」
其れは。
あり得ない、ことだった。
「えっ、えいっ!!」
「―――はっ、はっ……!?」
“激流が、凍り付いていた”。
樹海で両手を突き出すイスカの先、恐らく自分と子供がいたであろう位置。
あの瞬間自分たちを吞み込もうとしていた激流の、川幅の半分ほどが“固体”となり、川の流れが強引に変わっている。
巨大な岩石のようなその“氷”を避けるように圧縮された激流は勢いを増し、拠点の方角からも逸れ、樹木をなぎ倒して樹海を蹂躙していく。
自分の頭はまだ壊れているらしい。
何が起きているのか、理解が出来ない。
だがそれを、“誰”が成したのかは分かる。
両手を突き出す人物の、ぞっとするほど綺麗な青い瞳がシャロッテを捉えた。
『雪だるま』―――イスカ=ウェリッド。
「シャロッテ!! シャロッテ!! 逃げましょう!! これ以上は厳しいわっ!! 魔術が解けたらここまで川に呑み込まれるかも!! 立てる!?」
やはり慌てふためくイスカ=ウェリッドに、シャロッテは言われるがままに立ち上がった。
理解できない。考えが及ばない。
だが、仮にあの“氷”が無くなれば、抑えられていた分勢いを増した激流がこの辺りまで襲い尽くすであろう。
そう。
これは論理的な思考ではない。根本的に違う。
災害の激流を凍り付かせたなどという前提は、論理の世界に存在しない。
「っ、ヴィティカル!!」
機械的に身体を動かし、イスカに強化付与を施す。
暴れるように駆け出したふたりの背後、氷が解けたか砕かれたかの轟音と共に、大地が抉り取られたかのような地響きが巻き起こった。
暗闇の樹海の中を、少しでも高所を目指して突き進み、僅か開けた丘に辿り着いたシャロッテは、またそのまま身体を大地に飛び込ませた。
「シャロッテ、大丈夫? その子も……、あら。気を失っているのかしら?」
豪雨の中、シャロッテは身体を起こし、荒い呼吸を繰り返しながらロープをほどく。
樹海の暗がりの中進んできたが、この辺りの地理は頭の中にちゃんと仕舞われていた。この高台は拠点の北東にあり、必要以上の距離を川からは取れている。
そう。自分の頭は正常だ。
「はあ……、はあ……」
シャロッテは子供の様子を確認すると、自分の纏っていた救助服を着させて横たえる。眠ったままだったのか、どこかで目が覚め改めて意識を失ったかは知らないが、穏やかな寝顔だった。
早急に身体を温める必要はあるが、窮地は脱した。
拠点の移動民族たちにも無事を伝えよう。避難をしたのであればこの丘から北へ降りれば合流できるはずだ。
この辺りの避難経路も頭に入っている。
そう。
自分の頭は、正常なのだ。
「……危なかった、わね。堰が吹き飛びでもしたのかしら? ふう、ひやっとしたわ」
丘から、遠く離れた激流を、イスカが息を吐き出しながら眺めていた。
悪天候で視野が悪い中、シャロッテの瞳には、頭に叩き込んでいたはずの地理を裏切る、変貌した川の流れがあった。
僅か曲がって拠点に辿り着くはずの川は強引に捻じ曲げられたように直進し、樹海をごっそりと飲み込んでいる。
自然と自然が争い合い、地形を変えるのはあり得ることだ。
だが、それを起こしたのは、僅かひとりの人間だった。
自分が見たことをそのまま人に伝えれば、『智の賢帝』の名誉は地に落ちる。
「それで、どうしようかしら。その子の無事も知らせないと」
青い瞳が、なんてことは無いように穏やかに、眠ったままの子供に向く。
今からどうやって魔導士隊や移動民族たちに合流するかは、シャロッテはすでに考えている。
周囲の人間が自分の思考の後追いをするのはよく見る光景だ。
イスカ=ウェリッドは、普通の人間である。
だが。“まさか彼女も”。
「方向は私が分かります。こちらに」
「ええ。あ、今度は私が背負うわ。ふふ、子供はいいわね、私のことを知らないし」
眠ったままの子供は、何も、知らない。知らないままの方がいい。
堰の決壊に呑み込まれかけたなど、一生もののトラウマである。
だが、それ以上の“歪み”がそこにあった。
機嫌よさげに子供を背負うイスカを、シャロッテはじっと観察する。
彼女は恩人だ。彼女がいなければ、自分もその子供も間違いなくあのとき死んでいた。そんな彼女を畏怖するなどあってはならない。
だが、ようやくまとまり始めた思考が、可能性を探ってしまう。
「と。……ところでイスカ嬢。さっき、のは」
「え? あ、ああ。色々魔術を組み合わせてみたら、あんな派手な感じに……、ま、まあ、この話はいいでしょう」
恐る恐る聞くと、イスカは複雑な表情を浮かべた。
『雪だるま』の魔術のことは聞いたことがある。
民間の職を希望する彼女にとっては、拠り所でもあるが、いい思い出がある魔術ではないのだろう。
「……。い、いずれにせよ、ありがとうございます。助かりました、あなたがいなかったら私たちは」
「無事でよかったわ。……あ、不謹慎だけど、お給金を弾んでくれると嬉しいわ、なんて」
「それはもう。口添えします」
「えっ、やっ、やった!」
冗談めかして言っていたような気もしたが、肯定すると、子供のように目を輝かせた。
そう、彼女は人間だ。
心から礼を言い、感謝を伝え、自分の思考を必死に遮る。
豪雨と激流に打たれて凍えそうだから、死に直面したばかりだから、この身体の震えが止まらないだけなのだと、思うべきなのだ。
イスカの背負う子供の様子を窺い、気を逸らす。
眠り込んでいるこの子は今、どのような夢を見ているか。
「……、…………、」
無理、だった。
最初に異変を感じたのはあのときだ。
ドラクラス最初の引っ越しの依頼。
『数千年にひとりの天才』マリサス=アーティと行動を共にしていたあのときから、見ないように、考えないようにしていた。
月輪属性という魔法の領域の力には、『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージですら辿り着けない答えがあるのだろうと、強引に、自分を納得させていた。
だが今、土曜属性の『雪だるま』イスカ=ウェリッドが成したことを見て、シャロッテの頭を膨れ上がった悪寒が駆け巡る。
月輪属性の魔法。
複数の魔術を組み合わせた。
“だから何だ”。
何をどうしようが、あの威力を出すには魔力が足りない。
彼女もまた、力任せに、強引に、自分の魔力で自然の力をもねじ伏せたのだ。
改めて。
彼女たちが成したことに対し、『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージは、断言する。
“不可能”だ。
筋力も、体力も、そして魔力も、人間には限界がある。
ゆえに技術というものが存在し、限界を超越した成果を生み出すのだ。
だが、『智の賢帝』が間近で見れば分かる。彼女らの異常の本質は、魔法や技術というものではない。
現代において、人間という種が、どれだけの才能に恵まれても、どれほどの“教育”を受けても、その領域に辿り着くことは決してない。
先天的にも後天的にも最大値を目指しても、人間という種がそれだけの力を得ることはないのだ。
可能性を追求する魔導士たちはいずれ辿り着く領域と捉えているかもしれないが、シャロッテは違う。
明確に、人間の限界を知っている。生物として、決して越えられない最大値が存在するのだ。
洞窟が崩壊するから、強引に魔法で支える。
激流が襲ってくるから、強引に魔術で凍らせる。
その膨大な魔力によって。
そんな根本的な力が問われることが出来るのは、“人間ではない”。
人間は、それほどの魔力を蓄えられない。
荒唐無稽な絵空事。あり得ない。
まるで、無知な子供の夢物語が、現実世界にそのまま―――“描かれたような”。
シャロッテはもう一度、豪雨の先、変貌した大地を盗み見て、凍えた唇を震わせた。
「プロジェクト……アーティ」
―――***―――
「上も片付いたか。危なかったな、死ぬとこだった」
『名前のない荒野』。
豪雨、暗雲の中輝く金色の龍、そしてその頭上の漆黒の闇。
一瞬前、金色の龍はこの拠点すべてに“敗北”をもたらそうとしていた。
だが、その敗北ごと、狂い切った天空が、一瞬スカーレットに染まったのち、嘘のように消え失せた。
すべての悪夢を詰め込んだような空は、まるで今まで見ていたものがすべて幻だったかのように、澄み切った青天となる。
魔門破壊の、決着だった。
「……」
“どっちだ”。
スライク=キース=ガイロードは、剣を振るい、今しがた斬撃を浴びせた獲物の血痕を払う。
スライクに斬り飛ばされた『剣』のバルダ=ウェズは、魔門のような闇に呑まれ姿を消し、すでにこの地にいない。
行方も、バルダ=ウェズの生存も知らないし、興味も無い。
ゆえにスライクは、飛び散った血痕も、奇跡が起こった天空にも、意識を払わず、目の前の“男”だけを睨み続けた。
「なんだよ。少しは嬉しそうにしろよ、危なかっただろ。魔物が“あれ”を放とうとするなんてな」
雨が止み、男は、手を天にかざして確認すると、持参してきたらしい傘を取り畳む。
そして睨み続けるスライクの瞳を、まっすぐに見返してきた。
不敵でもなく、普通に。威圧するわけでも、怯えるわけでもなく。
ただ、まっすぐに。
「そうか、自己紹介がまだだったか。俺はジャバックってんだ」
やはりこの男、いや、この“存在”が『光の創め』。『召喚』のジャバックであるらしい。
だが。
こいつは―――“何だ”。
「……さっきのはお前のいたずらか?」
スライクはぎろりと先ほどバルダ=ウェズが消えた地面を睨んだ。
スライクの操る浸食の剣。
その一刀を受けたバルダ=ウェズは、魔門による召喚移動でこの地から姿を消した。
『光の創め』が引くときは、毎回魔門のような闇が現出し、その闇に呑まれて姿を消す。
だがあのとき、バルダ=ウェズは自ら逃亡したわけではない。
闇に呑まれる際、スライクは確かに、バルダ=ウェズの“動揺”を感じ取った。
スライク=キース=ガイロードの世界では、鬱陶しいことにありとあらゆるものが情報の悲鳴を上げる。
その叫びの中、バルダ=ウェズの悲鳴を確かに感じたのだ。
「そうそう。伊達に『召喚』と呼ばれているわけじゃない。お前らが魔門って言ってんのは俺の召喚獣だ。ここのも壊されちまった。“召喚を行う召喚獣”……まあ、もう魔門でいいか。ほんとの名前は何だったか忘れちまったよ」
「……」
口調は普通。態度も、特別何かが目立つわけでもない。
傍から見れば一般人。
だが、そんな存在が、あらゆる異常が詰まり切った『名前のない荒野』に普通に立ち、自然に、異常なことを口にする。
魔門。
他の大陸にもあり、魔界とつながると言われている“何か”。
魔導士隊でも解析不可能なその存在は、ジャバックの召喚獣ということなのだろうか。
召喚獣には、召喚方法がいくつかあるという。
その内のひとつに、同一の召喚獣を複数体現出させるものがある。
世界各地にあり、太古より人間界を脅かし、その力を弱めるだけでも魔導士隊、魔術師隊が綿密な計画を立て、命を懸けて挑むという魔門。
それもすべてジャバックの召喚獣だと言うのだろうか。
ならば。
こいつはいつから、世界の裏側にいたのか。
「……」
スライクは目を細める。
様子は普通。聞けば、あっさりと答えを吐き出す。
深みも無く、かといって軽薄でもない。
事実、あらゆる情報が叫びを上げるスライクの世界でも、目の前の存在から、特異なものが感じ取れない。
情報が無いのではない。普通だと、世界がそう言っているのだ。
街ですれ違っても、意識も向けないかもしれない。
だが今、この異常の中に普通いるという事実だけが、異常を訴えている。
感覚としては、あのヒダマリ=アキラに近い。
対峙する者だけが味わう、無色透明の、毒。
ゆえに今、スライクは、“高が二択”を読み切れていなかった。
「それで、何の用だ? “バルダ=ウェズの邪魔”をしに来ただけか?」
直感に従って、スライクは選択した。
『光の創め』がこの場所に現れる理由。
普通に考えれば、警戒していた『杖』のグログオン同様、ジャバックはこちらの妨害のために現れたはずだ。
だが、あのとき。
スライクとバルダ=ウェズが互いを殺し合ったあの瞬間。ジャバックは口を挟んだ。
横槍ではない、ただの茶々だ。
そのとき起こったこと。
あの一瞬、天空から降り注ぐ“死”を前に、バルダ=ウェズは確かにそれを乗り越えスライクのみに殺意を注いだ。
だがその刹那、ジャバックの聲に、動きが僅かに硬直してしまっていた。
バルダ=ウェズと殺し合ったスライクだけには分かる。
あのときジャバックが何もしなければ、決着はあの瞬間ではなかった。今もあの『剣』と殺し合っていたかもしれない。
「はっはー、そりゃ分かるよな。仕方ないだろ。バルダは長年役立ってくれたが、ここらでお別れだ。……ジゴエイルが余計なことをしやがった」
読み取れる―――ことはある。
「バルダは強さの割に目的意識が希薄でね。方々でこき使われるような奴さ。まるで生まれたての子供だ。ジゴエイルもたぶらかしやすかっただろう。……“魔王直属”になっちまった。俺には隠そうとしていたみたいだが」
魔族の仕組みなど、誰にも分かりはしない。魔王軍の仕組みともなればなおさらだ。
読み取る前に、現代の魔王の名を旧友のように口にするジャバックは、語る。人間には理解しがたい、“何か”を。
『剣』のバルダ=ウェズは『光の創め』として活動する中、魔王によって“魔王直属”とされたということか。
となればジゴエイルの目的は『光の創め』に探りを入れることだろうか。
ジャバックは、人間からすれば、仮定に仮定を重ねた先の“結論”を、“答え”を、些細なことだと言うように軽々しく口にする。
スライクが直感だけで二択を当てたことすら、どうせばれると思っていたことが案の定明るみになった程度のことだと思っているようだった。
「……その割にゃ、逃がしたみてえだが?」
「長年働いてくれたんだぜ? 多少は温情ってもんがある。それくらい察しろよ」
ジャバックは、濡れた髪をかき上げ、不快感を露にした表情を浮かべた。
妨害し、救い、矛盾する、しかし普通のことを言い、バルダ=ウェズが消えた大地に冷ややかな視線を送った。
「バルダはもう使えない」
困り顔で、ジャバックは呟いた。
スライク=キース=ガイロードの浸食の剣。
いかに魔族といえども、即死、ないし致命的な損傷は免れない一刀を受けたバルダ=ウェズは、生きているかどうかも怪しい状態だろう。
どこからどう見ても、普通の青年にしか見えないジャバックは、分かりやすく、失望したような表情を浮かべた。
自然と、裏切れないと思わせる、ごく普通の表情。
だがその瞳の奥に、普通の中に存在してはならない濁りが、冷ややかに、毒素のように淀んでいた。
バルダ=ウェズがスライクに“魔王直属”と見抜かれ、焦燥にかられた最大の理由は、この存在なのかもしれない。
「ルゴールもだろうな。グログオンも、『日輪の勇者』に嵌められた」
「……」
出現を警戒していた『杖』のグログオン。
決着を迎えたのに音沙汰がないと思ったが、ヒダマリ=アキラが“何か”をしたのか。
人間の限界を遥かに超越するが、“引き裂くべき終点”を見誤らせれば、グログオンの脅威は消えることにはなる。
鵜呑みにするつもりは無いがぼんやりと、裏で起こっていたことを感じ取れた。
この『名前のない荒野』に、『杖』のグログオンの脅威は無い。
だが、スライクは眼前の魔族から微塵にも意識を逸らさなかった。
今。
『召喚』のジャバックは“ここにいる”―――正答を、選んでいる。
「…………はっ、使えねえ奴らに何を期待してんだ」
すべてが普通に見えているはずで、しかしそのすべてが読み取れない『召喚』のジャバックという存在。
不明なことだらけだが、スライクの直感は答えに辿り着く。
この存在には、強い目的意識がある。
“何か”。様子見などではない、明確な“目的”があってここに現れている。
見定めることはできないが、何も問題は無い。
分かっていることは、ひとつだけ。
「はっはー。天下の『剣の勇者』様は言うことが違うね、魔族を下に見てやがる。俺としちゃ『日輪の勇者』様を褒めたいね、グログオンがしくじるところなんて滅多に見れない」
2歩。
『召喚』のジャバックとの距離を、あと2歩詰める。
魔門の召喚移動すら間に合わない―――その瞬間に、この存在が何を企てていようが確実に斬り殺せる。
“何か”をさせてはならない―――“こいつは今、ここで殺さなければならない”。
これだけ分かれば十分だ。
「お前とグログオン。『光の創め』ってのは、“その2体が本体か”」
「実際そんなもんかもな。……『光の創め』の目的を、本当の意味で知っているのは」
「はっ。お前こそ、魔族を下に見ていやがる。道具扱いか?」
「んなこたねえよ。言ったろ、多少の恩情はあるって。戦うことになったらどうした方が良いか、教えてやったりな」
「……バルダ=ウェズがごちゃごちゃ言っていたのはお前の入れ知恵か」
「そうそう。ただ、もっとはっきり言っときゃ良かったよ。ヒダマリ=アキラには“関わるな”ってな。……ん? ルゴールの奴には言ったかな?」
互いが言葉を読み、裏を取り、軽々しく口を開き。
スライクは接近を、ジャバックは“何か”を進行する。
しかし、じりじりと詰めるスライクの直感は、あと1歩となったところで、疑いたくなる答えを拾った。
“ジャバックが、スライクの接近を気にしていない”。
迎え撃つ体制が整ってしまった。あるいは、奥の手がある。
そう推測しかけるも、しかし、直感は逆を行く。
ジャバックは単純に、スライクの僅かな接近が、どのような結果をもたらすのかを見切れていないのだ。
あと1歩。
あと僅かに近づければ間違いなく、何もさせずにジャバックを斬り殺せる。
あまりに想定通りに進むこの状況をどう捉えるか。
射程に、入る。
「ん?」
そこで、ジャバックが僅かに身を引いた。
「くそっ、泥が跳ねてやがる。この靴いくらしたと思ってんだ」
不快そうに足を震わせ、顔をしかめたジャバックは、その僅かな後退が、自らの命を守ったことにすら気づいていないようだった。
“いや”。
この緊張感の無さ。これは、単に気づいていないというわけではない。
分かりやすいほどの殺気を漏らすスライクを前に、“自らの無事を確信している”。
スライクの“何か”を察知しつつ、それが分からなくとも、何をされようとも、自分が“正答”を引くと、確信しているのだ。
あたかも災害に襲われたときの想像で、自らが無事であることを前提にするように。
「まあいい。またグログオンに調達させるか。……居心地悪りぃな、ここは。ギャラリーも増えてきた」
「…………」
離れた拠点の方に、こちらの様子を窺う者たちがいることには気づいていた。
拠点の“掃除”をしていた魔導士隊や旅の魔術師たちであろう。
『名前のない荒野』に現出した異常は魔門ごとすべて討伐されている。
残るは、目の前の存在だけだ。
「ぼちぼちお暇するか。魔門は死んだが、まあ、いいもん見れたからよしとしておこう。歴史に刻まれる大事件の解決だ」
断じて違う。
こいつは、様子見でここに来たのではない。
“何か”を、し終わったのだ。
「お前らは歩きか? まあ、精々頑張ってくれ」
青天の下、ジャバックの背後にぼんやりと、漆黒の闇が広がった。
魔門による移動が開始される。
射程からはぎりぎり外れていた。
襲い掛かることもできるが、ジャバックは即座に魔門で姿を消し、空を切るだけの結果に終わるだろう。
ジャバック自身が気づかないまま、ジャバックは死地から脱した。
常識では運の良さとしか言えない、しかしスライクの直感はそれを否定する、“何か”が、ジャバックを守った。
「それじゃあな」
殺気だけを突き刺し続けたスライクは、ジャバックが闇に呑まれ、幻のように消えた後も、その空間を睨み続けていた。
『光の創め』―――『召喚』のジャバック。
風格も無く、当たり障りのない、ごく普通の人間としか思えず、しかし異常の中にいる存在。
ヒダマリ=アキラに近しい“異常者”だ。
「……」
だが。
奴は、死地の中、“何か”に守られ、“何か”を遂行した。
ジャバック自身、その成果に、特別な感情を沸かせていなかった。
“そうなることが当然のように”。
それが、スライクが感じたヒダマリ=アキラとの相違点だった。
「……はっ、消えた奴を気にしているほど暇じゃねえか」
スライクは剣を振るい、腰に携える。
びちゃりと跳んだ血や泥は乾き始めた地面に飛び散り、見えなくなった。
血痕は、『剣』のバルダ=ウェズのものである。
ジャバックが魔門で逃がしたが、ほぼ即死だろう。
移動先のいずこかで、戦闘不能の爆発で身体は欠片も残らない―――“魔族になった以上は”、それが結末だ。
バルダ=ウェズを惜しいと感じたのは事実だが、これ以上気にしている暇はない。
状況把握のために慌ただしく魔導士隊が駆け寄ってくる。
それらを無視し、青天の下、激闘に砕かれた大地も、現れ消えた異常の中の正常も気にもせず、スライクはまっすぐに進む。
―――***―――
『名前のない荒野』:最終報告書(一部暫定あり)。
一部被害状況等の調査が完了していないため、初見に留める内容あり。
本報告書の再提出については、ドラクラス帰還後、魔導士隊より公表される完了報告書と内容が著しく乖離した場合に限り、別途行う。
結論:『名前のない荒野』にて、魔門の消滅を確認。
備考:
(特記)魔門破壊の過程において、以下、特異な障害が発生。
『最古の蛇』(推定)
『明日の影』(推定)
『剣』のバルダ=ウェズ(注:『光の創め』)
※詳細は別紙【発生事象詳細】を参照。
被害:
死傷者、42名(推定)※初回被害報告時点29名(報告時点確定数のみ)含む。
物損、帰還後計測予定。(魔導士隊管理)
※発生事象、および最終被害報告については魔導士隊の正式発表に委ねる。
以下、各人の備忘となる。
『破壊の魔術師』エリサス=アーティ。
身体的特徴、差分無し。
戦闘力、要再測定。
備忘;
破壊魔法と推測される攻撃にて、魔門破壊を遂行。
本依頼で発生した事象の最大威力を観測。
併せて、全身を覆う防御魔術を使用。ファリオベラ、デオグラフを主とした魔物の大群の中、多数の討伐を遂行しつつも損傷無し。
単独での戦闘手段の大幅な拡張を確認したため、戦闘力については要観察。
特記:
『プロジェクト:アーティ』の成功例である確率が微増。
『武の剣帝』カタリナ=クーオン。
身体的特徴、差分無し。
戦闘力、差分不明。
備忘:
『剣』のバルダ=ウェズとの交戦を実施。損傷無しだが、同所にスライク=キース=ガイロードの存在もあり、両名の誘導に大幅に消耗。
上記特異な事情もあり、状況把握が不明なため、戦闘力差分は不明とする。
別途、ファリオベラ、デオグラフを主とした魔物の大群、および『明日の影』の討伐を確認。
『数千年にひとりの天才』マリサス=アーティ。
身体的特徴、差分無し。
戦闘力、差分不明。(測定不可)
備忘:
『明日の影』の環境操作、討伐に伴う戦闘不能の被害の封殺を遂行。
加えて、事後処理として環境汚染外に退避するまで広範囲に渡り環境の維持を完遂。
魔力の総量、および使用の持続時間限界は尺度が存在しない領域のため測定不可。そのため、成長差分も併せて測定不可。
特記:
『プロジェクト:アーティ』の成功例である確率が一層上昇。
アルティア=ウィン=クーデフォン。
身体的特徴、身長微増。
戦闘力、魔力増。
備忘:
十余名の重体者、およびの多数(測定不能)の軽傷者の治癒活動を実施。
一定時間内においての治癒魔術発動回数の増加を目視。
重体者と軽傷者に対する魔力消費の差が小さく、ほぼすべての負傷者に、自己が使用できる魔術の最大値を放出している模様。
非効率ながらも即時性が高く、死傷者の減少および戦線維持に貢献。
『盾の魔術師』キュール=マグウェル。
身体的特徴、身長増。
戦闘力、魔力、精度増。
備忘:
一定期間内、確定した安全地帯を構築する魔術により、魔導士隊の拠点における防衛活動を遂行。
発動速度、規模、持続時間、一定時間内の発動回数向上を確認。
移動中の使用が不可であるのは差分無しだが、即時性が高く、少人数での移動であれば、魔物の大群内の強行突破が可能であることを目視。
負傷者の減少、および戦線維持に貢献。
エレナ=ファンツェルン。
身体的特徴―――
―――目は、聞くことは無しという。だが、彼女を目にした途端、私の瞳は確かにカリヨンの鐘の音を聞いたのだ。
アイルークのアグル・ブラハムベル聖堂に祀られる神像、モルオールのサザリオスの神話氷像、ヨーテンガースのリオロスタスの悠久結晶と、世に名だたる芸術品は数あれど、一目見るだけで春の訪れを感じさせる至高の存在を彼女の他に私は知らない。
エレナ=ファンツェルンという奇跡の光は、ただそこにあるだけで、闇の世界に染まり切ったと自惚れていた私の世界を色鮮やかに彩ってみせたのだ。
彼女は美しく、気高く、そして何よりも自由である。
出逢っただけで一生分の恩を受けた私だが、私が彼女にできることは何も無い。薄汚れた手で、彼女という存在を汚すなど、あってはならないことなのだ。
しかし本依頼にて魔導士隊より、あろうことか彼女と行動を共にするよう指示を受けた。
万一にも彼女に何の影響も無いように振る舞えたのは、私の最大の誇りである。
当然ながら彼女は私に特別な意識を向けていない。だが、その透き通るような声は、神託を告げるのだ。
隣を許して傘を差させる高待遇を与え、子供たちの護衛の栄誉を授け、彼女の意識にすら残らず、損なわず、彼女の意思を実現するなど、夢のような出来事であった。
バディ制の計画を立てた魔導士隊には、多大な借りが出来た。我が心臓を緊張で最大級に高鳴らせ、張り割きかけたことは不問にするつもりである。
『名前のない荒野』を死地と揶揄する者も多いが、私は生涯、あの聖地を忘れることは無いであろう。
惜しむらくは本依頼に、『日輪の勇者』ヒダマリ=アキラが参加していなかったことである。
彼女も彼の不参加に不満を抱えていた。
彼女の意思にそぐわず不参加としたドラクラス管理本部には、改めて正式な抗議を検討中である。
当然私にとっても不満であった。
人生そのものが一変した彼女という存在を知ることができたのは、彼女をこのドラクラスまで導いてくれたからでもある。
彼は、私という種に、まるで猿が人類に進化するかのような飛躍的発展をもたらせた重要人物である。
ドラクラスに帰還後、折を見て、ただ一言伝えたい。
ありが―――
「っっと。ついつい飯の種を皺くちゃにしちまったよ」
ドラクラス2階。
『三魔人』ルックリン=ナーシャは、客の姿の無い自らの喫茶店で、紙束を机の上に広げていた。
眼前にあるのは、とある使者から届いた、『名前のない荒野』における魔門破壊依頼の報告書である。
馬車を飛ばして帰還中の参加者よりもいち早く届いたこの情報は、情報の魔人であるルックリン=ナーシャが独占する最新情報だった。
正確さを重視する魔導士隊の正式発表は遅くなりがちだが、世界中至る所に散らばっているルックリンの“耳”は、暫定でも現場で見聞きした情報を即座に上げてくるのだ。
飯の種となる情報はとにかく鮮度である。
ヨーテンガース中から注目を集めるこの魔門破壊依頼の暫定報告書は、過去類を見ないほどの高級食材だ。
ただ、内一枚、長めの報告に目を通していたところ、うっかりと、紙を破きかけた。
「ふ。ふ。ふ。…………だぁあああっっっ!!」
老婆は頭を抱えて天井を仰ぎ見た。くるくると回るシーリングファンが頭の中を示しているようだった。
この怪文書をこれ以上見ていたら頭がおかしくなる。
魔門破壊の依頼に参加し、生き残り、あまつさえ情報収集までこなし切れる者はそうはいない。
そのため今回は特に秀逸な人材を雇ったのだが、エレナ=ファンツェルンに関する報告には大きなバイアスが入り込み、知りたいことが全然分からない。彼女に関することは、まだまだ知らなければならないことがあるというのに。
帰還後、“耳”を呼び出し、直接話を聞き出そうかとも思ったが、文字情報が音声情報になるだけのような気もする。
そこで、喫茶店の扉がゆっくりと開いた。
「時間となりましたので、再開のご報告です」
扉の向こう、抑揚のない声が、扉の外で直立していた人物から聞こえた。
書類の束と睨めっこ、突然目に飛び込んできた怪文書と、目も脳も疲れ切ったルックリンの視線の先、完璧な笑顔を崩さぬ給仕服の女性が完璧な所作で頭を下げていた。
「イスカ=ウェリッド氏がドラクラスにお戻りする時刻となりました。これより、教育プログラムを再実施いたします」
「……あのねえ受付さん。今までどこにいたんだい」
「ヒダマリ=アキラ邸の補修を実施しておりました。イスカ=ウェリッド氏についてはご安心ください。これより急ピッチで遂行いたします。期間が空いてしまいましたが、自我の脆化、人格の矯正、スキルセットの再構成と、前回の教育でルーチン化が成功しておりますので、完全な従業員の構築は短時間で可能です」
「…………」
受付さんと呼んでいるこの給仕服の女性の言葉を聞いていても、頭がおかしくなるような気がした。
「……そうじゃなくて、私があの娘を見張れって言ったのは、ドラクラスの中でだけじゃないんだよ」
「イスカ=ウェリッド氏が複数日の依頼を請け樹海に向かったため、実施は不可能となりました」
「虫が嫌だからとかじゃないだろうね?」
「行ってまいります」
パタン、と、喫茶店の扉が静かに閉まった。
ルックリンは寸でのところで天井を仰ぐのを堪えた。反り返るのは腰に良くない。
「ったく、使える奴ってのはどうしてこう……」
瑕があるくらいは許容できるほどの玉なのが質が悪い。瑕が想像を絶して深いのだが。
頭をガシガシとかき、机に散らばった紙束を整える。
これからまた睨めっこだ。
期間が長かった依頼だ。知りたかった情報は山ほどある。
一部に致命的な漏れはあるが、ルックリンには札束に見えるほど、新鮮な情報で埋め尽くされていた。
今すぐにでも飛び出して使い潰したいところだが、細部に至るまで目を通す必要がある。
特に気になるのは、『剣の勇者』スライク=キース=ガイロードの備忘欄にあるこれだ。
―――『召喚』のジャバックと思われる存在との接触を確認。遠方からではあるが、読唇術にて読み取った会話内容を以下に記す。
「……。…………」
ルックリンは慎重に読み進める。
『光の創め』の『召喚』のジャバックの情報は、魔導士隊の機密事項などよりもずっと価値がある。
頭の中で、どさどさと、札束が振ってくるような感覚を味わえた。
つまり魔門破壊の依頼では、魔門に、異常種の魔物と魔族がそれぞれ2体出現したことになる。
『名前のない荒野』は“禁忌の地”に匹敵するほどの魔境と化したであろう。
拠点の壊滅に伴い、魔導士隊や旅の魔術師はおろか、民間人にも多大な犠牲を出した。
だが―――彼らは乗り切った。
そして。
「……ヒダマリ=アキラ」
“耳”の精度が悪く未確認だが、魔族討伐を僅かひとりで行った形跡があるという。
だが、豪雨による多数の拠点壊滅に伴う事後処理に、魔門破壊以上に魔導士隊や魔術師隊が右往左往している今、詳細な調査結果が出るのは遅れるだろう。
そんな地獄のような日々を過ごしている魔導士隊たちは、間もなく魔門破壊の成功の報せと膨大な事後処理の業務を受け、その吉報に全員むせび泣くことにもなる。
そうした中では、未確認なヒダマリ=アキラの行動の詳細を追うよりも、魔門破壊の詳細調査が優先され、彼の活躍はうやむやになる。
民間の新聞なども、魔門破壊の成功で満腹だろう。
とてつもないことをしても、妙に間が悪い。
ぼんやり凄い人だとは思われるが、傑物揃いの仲間に民衆の関心が行き、当の本人の規格外な“戦闘能力”に着目されないのは、初代勇者の系譜というかなんというか。
「……しかし。こりゃあ凄いねえ」
ルックリンは顔を上げる。
紙束があるのは目の前の机だけではない。
7,8はあるテーブルに、カウンター席と、至る所にうず高く情報の紙束が積まれていた。
至る所から届いた“成功”の報告書だ。
ヨーテンガースからだけのものではない。
他の4大陸でも大事件の発生と、それを解決した英雄たちが誕生の産声を上げていた。
もちろんヨーテンガースでもドラクラスの引っ越しに伴い、あらゆるところで過去類を見ないほどの異常が頻発している。
だが、そのすべては解決されているのだ。
これはただの偶然ではない。
それを解決できる者たちが、“多い”のだ。
同世代にこれだけの精鋭が、これほど集まったのは史上類を見ない。
そんな黄金の世代の先頭を走る者たちが、このヨーテンガースにいるのだ。
“何か”。
でかいことが起こる。
ルックリンは珍しい感覚を味わった。
頭の中で札束が降り注ぐ以上の、高揚感を覚えるのだ。
「歳甲斐もなく興奮しちまうよ。もう目の前じゃないか―――百回目の奇跡が」




