あいかわらずな後日談
新天地にて暮らし始めてはやひとつき、新しい環境にも慣れ、生まれて初めて行う商いもなじみの客や上客がつき、なにより細心の注意をはらってあのお清と男女の仲になったということに錦之丞は大きな前進を感じていた。
「帰ったぞ」
仕事も終わり、一声かけて家の中に入る。この一言と言うたびに錦之丞の胸はなにやら暖かいものでみたされる。
『帰る場所』があるということに錦之丞の口元が自然とゆるむ。領主をしていた頃は屋敷に戻るたびに、自ら檻の中にはいる愚かな獣のようだと己を嗤っていた。
「お帰りなさいませ」
そして『家』で己を待つ存在がいるということもなにやら面映ゆい。
日も沈み錦之丞が帰途につくころ、お清はいつも玄関口で三つ指をつき頭を下げて待っていた。伏せた顔を上げ、帰ってきた己の姿を認めたときのほっとしたようなお清の笑顔が、錦之丞はとても好きだった。
「…………」
が、今日はなにやらお清の様子がおかしい。
いつもの通りに三つ指をついてこちらを見上げるそのかしこまった姿からはいつもの温かみはなく、びゅうびゅうと吹き荒れんばかりの寒々しさがあった。
はて、一体何をしただろうか?
錦之丞は何気ない風を装い家に上がりながら、脳内では猛烈な勢いで原因となるものを探る。
昨晩は激しくしすぎたか?
いや、しかし朝は上機嫌に送り出してくれたから、腰が痛いとか体の節々が 痛いとかそのようなことはないはずだ。
……。
…………ほかに理由が思いつかない。
と、春を覚えて多少色ボケしている錦之丞が内心動揺しつつ、囲炉裏の前に腰掛けたときだった。
「…………これ」
「……!!」
お清が何やら懐からおもむろに取り出して錦之丞の膝元にそっと置く。
それは、お清とのことに励むために錦之丞が秘密裏に取り寄せた『夜の指南書』であった。
錦之丞の背を冷たいものが滑り落ちる。
商売中に聞いた、奥方に秘蔵の春画がばれて喧嘩になった数々の先輩方の失敗談が脳裏に浮かぶ。しかし錦之丞はそのような失敗談を聞きつつ、己は大丈夫だと安心しきっていた。
決して見つからないと思っていたわけではない。
お清ならば見つけたら「こんないいものがあるなら隠さないでわしにもっと見せろ!!」と、別の意味で怒りそうだと思っていたからだ。
が、目の前で春画を前に座っているお清からは、相変わらず触れれば即座に凍り付くような冷気が発せられている。決して間違っても「春画を見せろ」なんて言いだしそうな雰囲気ではない。
己の見込み違いに、錦之丞は知らず唾を飲み込んでいた。
男女の仲となってから普段の言動には特に変わりはなかったが、お清の中で女としてのいろいろなものが目覚めたというのだろうか。
だとすれば嬉しい反面、とても恐ろしくもある。
いや、違うんだ。そもそもそれは春画として持っているのではなく、指南書として手元に置いていただけで、そなたと枕を共にするようになってからはあることすら忘れていた代物なんだ。だから最近は見ていないし、そもそもそなたとの為に買ったもので決して邪なものではなく……。
世間一般並の言い訳(?)を脳内で一生懸命唱えつつ、錦之丞は無言で額を流れる冷や汗をぬぐっていた。
お清は口さえ開かなければ絶世の美女なので、押し黙って氷の視線ひとつでも投げかければそれはとてつもない凄味となる。
かつては周りの人間を恐怖で支配してきた錦之丞も今はお清の氷の迫力にのまれ、ただひたすら膝の上で握りしめた手を見つめることしかできなくなっていた。
「……情けない」
ぽつりと漏れたお清の言葉に、錦之丞は思わず顔を上げる。
「情けない!」
お清は激情にかられたように大声を一言あげると、激しく床を叩いた。
「こんなに女として申し分のない身体のわしを抱いておきながら!」
そして目に涙を浮かべ、目の前の春画を錦之丞の目の前に付き出した。
「こんっっな初歩中の初歩のような春画をおかずにするなんぞ情けないっっつ!!」
「……は?」
よく意味が分からずぽかんとする錦之丞に、お清は手の中の春画をぱらぱらと開いて見せつけた。
「こんな極上の身体のわしを抱いていても、ちょっと別の刺激がほしくて春画に手を出すのはしょうがないと思う! 月のもののときは相手もできないから尚更だ。しかしだな、そこで手を出すのがこんな味気も刺激もくそもないような春画なんて、わしを馬鹿にしている!」
「いや、それ春画じゃなくて厳密に言えば指南書……」
思わず小さな声で突っ込んだ錦之丞は、お清に襟元を掴まれ至近距離からにらまれて口をつぐむ。
「元は領主様で今はいっぱしの商人なら、指南書であれば四十八手! 更に今流行りの緊縛ものやら触手ものやら妖怪娘ものやら、最新の春画を揃えるぐらいはしてみんかいっっつ!!」
がくんがくんと激しく胸元を揺さぶられながら、錦之丞は遠い目をしていたという。
それから数日後のとある日。
「へっへっへ旦那、数日前の喧嘩は激しかったねぇ。春画を嫁さんの見つかるようなところに置くなんて、旦那もまだまだひよっこだね」
たまの休みに錦之丞が家の縁側に腰掛けていると、近所の亭主が野菜を土産ににこにこと笑いながらやってきた。
錦之丞は内心ため息をつきつつ、愛想笑いで挨拶を返す。このおっさん、人はいいのだがよくお清のことを勘違いしては先輩風を吹かせてどこかずれた指南を錦之丞にしてくれるいらん節介焼きな男である。引っ越してすぐにお清のイチモツのことで揉めたのを、乳の大きさで喧嘩したと勘違いしていたのが記憶に新しい。
「先日はお騒がせをいたしまして……」
「いやいや、新婚さんは初々しいもんだねぇ」
そう言って男は錦之丞に野菜を渡すと、家の奥をひょいと覗いた。そこには、上機嫌で掃除をしているお清の姿があった。
「いやぁ、すぐに奥さんのご機嫌をよくするとはさすがだね。何でも手土産が効いたそうじゃないか。憎いね、この色男! 参考のために何を嫁さんにやったのか俺にも教えておくれよ」
男は悪気なくニコニコと純粋な好奇心からくる笑顔を浮かべて、錦之丞の答えを待っている。
錦之丞は目の前の男の背後に激しく揺れる尾を見たような気がして、いたたまれなくなって目をそらして空笑いした。
……言えない。今流行りの春画を何冊か取り揃えてお清にくれてやったら機嫌がなおったなんて、絶対に言えない……。
しかも入手するときにまたあの薬商人に会ってしまって、次の商売の話までつけてしまったなんて思い出したくもない……。
ひたすたらに遠い目をして透明な笑顔を浮かべ続ける錦之丞に、男は「いけずしないで教えておくれよ」としつこく引き下がった。しかし野良仕事を抜け出したまま帰ってこない旦那を迎えに来た妻に捕まり、耳をひっつかまれて悲鳴を上げながら帰って行ったという。
この錦之丞の手土産の話は当人たちが明かすことがなかったため(お清は即答しようとしたが老婆のナイスプレイにより答えることができなかった)よけい話が広がり、まず人に話さないことが秘する奥ゆかしい夫婦だとか、見目の良さから嫌みのない粋な夫婦だとか誉めそやされた。
そしてある人は「旦那のあの顔なら、野に咲く花一輪でも女はほだされちまうもんさ」とか「珍しい髪飾りを取り寄せた」とか「綺麗な着物か反物をあげたのでは」とか「におい袋で粋に口説いた」「旦那が甘い一言を囁いて熱い一夜を過ごしたんだろうぜ」とかいろんな人がいろんなことを言った。
その結果、あの店の品物は奥方のご機嫌取りに効くと噂が広がり、錦之丞の店はますます繁盛したという。
人であふれる店先を眺めながら、店主である錦之丞はあいかわらず綺麗で透明な笑顔を浮かべ続けていたという。
まぁ、お清はお清だからね。
店が繁盛している頃家では……。
「何じゃこれ、こんな格好で本当にまぐわえるんかいな? んむぅ……こうか? それともこうか?」
「……っ!! お清っ、なんてはしたない恰好をしているのですかっ!! そんな本を読むなら隠れて読みなさいっ!!」




